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悪魔の民族のための政策としてのリベラリズム
Liberalism as politics for a race of devils 2011年11月22日 - スラヴォイ・ジジェク 原文:http://www.abc.net.au/religion/articles/2011/11/22/3373316.htm リベラリズムにとって、少なくともそのラディカルな形態にとっては、人々をある倫理的理想――普遍的であり、それ故に普遍的な拘束力を持つ――に服従させたいという欲望は、個人的見地の他人への暴力的な押し付けに、またそれが故に市民的騒乱に帰結するために、全ての犯罪の源「全ての犯罪を含む犯罪」である。 それが、市民的な平和と寛容を確立するための最初の前提条件は、あらゆる道徳的誘惑を取り除くことだと、リベラルが主張する理由である。政治は徹底的に道徳的理想を追放し、「現実主義的」なものとして描かれるべきであり、人々をありのままに受け取り、彼らの真の本性をあてにするべきであり、道徳的説得をあてにするべきではないのだ。 このパラダイムは、様々な意味において、市場が機能するそのやり方そのものである。人間の本性は利己的であり、それを変える方法はない。したがって、必要なことは私悪を公益のために働かせることである。有名なエッセイ『永遠平和のために』において、イマヌエル・カントはこの鍵となるメカニズムの正確な記述を提供している。 多くの人々が、共和国は天使の国家でなければならないだろうと言う。なぜならば、利己的な傾向を持つ人間は、そうした崇高な形式の体制を形成するのに適さないからである。ところが、まさしくそれらの利己的な傾向をもってして、自然は、尊敬すべきではあるが実践においては無力な、理性に基づいた普遍的意志を助けるのである。それ故に、問題は国家の良い組織を作ること(人にはその能力がある)であるが、それがために、それぞれの利己的な傾向の力が、一方が他方の破滅的な力を緩和するか、もしくは破壊するように対立的に配置されている。理性にとって、結果は、それらの傾向が存在しなかったのと同様であり、人は道徳的に良き人物でなくとも、良き市民になるように強いられている。 カントの思考に添うならば、その結論はこうである。完全に自己意識的なリベラルは、自己の利益を他人の利益のために捧げようとする自らの利他心を、意図的に制限しなければならず、公益を達成するための最も効率的な方法は、私的な利己主義を追求することだと気付かなければならない。そこで我々は「私悪すなわち公益」というモットーの論理的反対物を得るわけである。つまり、「私的な善すなわち公的な災厄」である。 その当初から、リベラリズムの中には、個人的自由と集団の振る舞いを規制する客観的メカニズムの間に緊張がある。バンジャマン・コンスタンは既にこの緊張を観察し、明確に定式化していた。「個人においては全ては道徳的であるが、集団においては全ては物理的である。全ての人は個人としては自由であるが、集団の中においては機械の歯車である」。 この企図の内的な緊張はリベラリズムの二つの面において認められる。市場リベラリズムと政治的リベラリズムである。ジャン=クロード・ミシェアがすばらしくも論じたように、これらリベラリズムの二つの側面は、「Right」という言葉の二つの政治的意味において結ばれている。政治的な右派(Right)は市場経済に固執し、ポリティカリー・コレクトな左派は人権(human rights)の擁護に固執する。しばしば、それが唯一残った存在理由であるほどに。 リベラリズムのこれらの二つの側面間の緊張は単純化できるものではないが、にもかかわらず、同じ硬貨の両面のように、両者は密接に結びついている。 そして、今日では、「リベラリズム」の意味は、経済的なリベラリズム(自由市場的個人主義、強い国家による規制への反対など)と政治的なリベラリズムないしはリバタリアニズム(平等、社会的連帯、寛大さの強調など)の間で揺れている。 論点は、いくら綿密に分析したところでどちらが「真の」リベラリズムなのか決定できないこと、また何らかの「より高次の」両者の総合を提示しようとすることで、ましてこの用語の二つの意味の区別を明らかにすることで、このデッドロックを解決できないことにある。 二つの意味の間の緊張は、「リベラリズム」という言葉がその名で呼ばれようとする内容そのものに固有のものである。それはこの観念の構成要素であり、そのためにこの両義性は、悟性の限界を示すものではなく、リベラリズムの観念そのものの最も内側の「真実」を指し示している。 伝統的に、リベラリズムそれぞれの「顔」は、必然的に他方の顔の反対物として現れている。リベラルが多文化主義的な寛容を擁護し、通例として、経済的なリベラリズムと闘い、規制なき市場の力の猛威から脆い立場にあるものを守ろうとする一方で、自由市場リベラリズムは、通例として、保守的な家族の価値観を擁護する。 それ故に、我々はある種の二重の矛盾を抱えることになる。伝統的な右派は、市場経済を支持する一方で、それが生み出す文化及び社会的習慣と勇猛に闘っている。その一方で、その対照物である多文化主義的な左派は、市場と闘う一方で(ミシェアが指摘するように、最近ではどんどん少なくなっているのだが)、熱狂的にそれが生み出すイデオロギーを強化している。 今日では、言うなれば、我々は両方の面が結合された新しい時代に入ったようにも見える。ビル・ゲイツのような人物は、急進的市場主義者であり、多文化主義的人道主義者であるように装っている。 ここで我々はリベラリズムの基本的な矛盾に遭遇することになる。反イデオロギー的かつ反ユートピア的な態度が、リベラルなヴィジョンの心臓に刻印されている。リベラリズムは自らを「より少ない悪の政治」だと見なしており、「可能な限り最小悪の社会」をもたらそうというその野心は、より大きな悪を防ごうとするが故に、現実的な善を直接的に押し付けようとするどのような試みも、全ての悪の根元的な源であると考えるのである。 ウィンストン・チャーチルの「民主主義は最悪の政治制度だ。他の政治制度を除けば」という警句は、リベラリズムにこそより当てはまる。そのような見方は人間の本性に対する深いペシミズムによって保持されている。人は利己主義的で嫉妬深い動物であり、もしその徳性と利他主義に訴える政治制度を築けば、結果は最悪の恐怖政治となるのだ(ジャコバン派とスターリニストの両方が、人間の徳を前提としていたことを想起せよ)。 しかしながら、「善の専政」へのリベラルの批判は犠牲を支払うものである。そのプログラムが社会に浸透するにつれ、その反対のものへと変わってしまう。より少ない悪以外に何も求めないという主張は、いったん新しいグローバルな秩序の原則として採用されると、反対のものだと主張するその敵の特色を漸進的に迎え入れてしまうのだ。 実際のところ、グローバルなリベラルの秩序は、可能な世界の中では最善のものとして自らを提示している。その控えめなユートピア的な目的の拒否は、それ自身の市場リベラルのユートピアの押し付けとともに、我々が市場のメカニズムと普遍的な人権に自らを服従させる時に、現実のものとなる。 しかし、ポリティカル・コレクトネスの注意深い観察者ならば知っているように、道徳的な善を法的な正義から分離しようとする試み――それは相対化され歴史化されるべきではあるが――は、憤慨に溢れた閉所恐怖症的で抑圧的な道徳主義に終わったのである。 ジョージ・オーウェルが「共通の良識」として賛同的に言及した標準(そうした標準は全て、個人の自由を原ファシスト的な有機的な社会形態に従属させるものとしてはねつけられている)に基づいた「有機的な」社会的実質を欠くならば、法のミニマリスト的なプログラムは、せいぜい個人をお互いの侵害(互いへの迷惑行為や「ハラスメント」)から防ぐものを意図するに過ぎず、「あらゆる形態の差別への反対」として提示されている法的かつ道徳的な爆発、法化と道徳化の終わりなきプロセスへと変わる。 もし、法に影響を及ぼすべき共有の社会的習慣が存在しなければ、主体が他の主体に「ハラスメント」を働くというありのままの事実があるに過ぎないが、それならば一体誰が――そのような社会的習慣の不在において――何を「ハラスメント」であるか決めることができようか? 実例を挙げるなら、フランスには肥満に反対し健康な食習慣に賛同する全ての公的なキャンペーンを中止するよう求める肥満した人々の団体がある。なぜなら、それらのキャンペーンは肥満した人物の自尊心を傷付けるからである。ベジー・プライドの闘士たちは、肉食者たちの「種差別」(動物たちを差別し人間という動物を特別視している、彼らにとってはおぞましき「ファシズム」の形態)を非難し、「菜食主義憎悪」を外国人憎悪の一種のように取り扱い、犯罪として非難されるべきだとしている。こうしたものは、近親婚、合意に基づく殺人、カニバリズム……などなどの権利を求める闘いにまで拡張されよう。 ここでの問題は、こうしたこれまでにない新しい規則の増殖における明白な恣意性にある。子どものセクシャリティを例として取り上げてみよう。その違法化を不当な差別だと論ずることができる一方で、子どもは性的いたずらから保護されるべきだと主張することもできる。こうした例はさらに続けることができる。ソフト・ドラッグの合法化を擁護する同じ人物が、公共の場所での喫煙の禁止を支持することは普通である。我々の社会にある小児に対する家長的な虐待に抗議する同じ人物が、我々の社会に住む外国文化の成員がまさに同じことをしている場合に、非難されることを心配している(例えば、ロマが子どもたちを公立学校に行かせない場合のように)。他人の「生き方」への干渉にあたると主張するのである。 それ故に、こうした「反差別の闘い」が、果てしなくその終着点を引き延ばし続ける終わりなきプロセスになる必然的構造的な理由がある。あらゆる道徳的な偏見から解放された社会は、ジャン=クロード・ミシェアの表現を借りれば、「その評価において、あらゆる場所に犯罪を見出す社会になるだろう」。 そうしたリベラルな多文化主義のイデオロギー的調整は、「ポストモダン」な潮流の二つの特色によって決定される。普遍化された多文化主義的な歴史主義(全ての価値観と権利は歴史的に特有のものであり、他人への押し付けとなるそれらの普遍的な観念への昇格は、最も暴力的な文化帝国主義である)と、普遍化された「疑惑の解釈学」(全ての「高次の」倫理的な動機は、憤慨と嫉妬である「低次の」動機によって生み出され保持されている。例えば、大義のために自らの生命を犠牲にせよという呼びかけは、力と富を保持するために戦争を必要とする人たちによる操作の仮面または、あるいはマゾヒズムの病理学的表出である。そしてこの「または/あるいは」は論理和である。つまりどちらの用法も同時に真でありうる)である。 このリベラルなヴィジョンの問題は、全ての良き人類学者、精神分析家、もしくはフランシス・フクヤマのような明快な社会批評家さえ気付いているものである。それは自分自身で存立することができず、通常「社会化」として言及される先行する形態に寄生しているのである。それは同時に自らを損なうため、それにより自らが座る枝を切ろうとするのである。 市場において――そして、もっと一般的に言えば、市場に基づく社会的な交換において――は、個人は互いに自由で理性的な主体として出会うが、そのような主体は、象徴的負債、権威、そして何よりも信頼に関わる、複雑な先行的プロセスの結果である。 言葉を換えて言えば、交換の領域は決して純粋に対称的ではないのだ。ギブ・アンド・テイクのゲームに参加するためには、見返りなしに何かを贈与しなければならないというのが、各参加者にとっての先験的条件である。市場交換が発生するには、基本的な象徴的協定に参加し、基礎的な信頼を表示する主体でなければならない。 もちろん、市場は騙し嘘をつく利己主義者の領域である。しかしながら、ジャック・ラカンが我々に教えたように、嘘を機能させるためには、真実として自らを提示し、そう受け取られる必要がある。それにより、真実の次元は既に確立されたと言うために。 カントが見逃したのは、成文化されておらず、否認されているが、全ての法体系もしくは社会的規則を成り立たせるために必要不可欠な規則である。そのような規則のみが、法が成立し正常に機能するような「実質」を提供するのである。そのような成文化されていない規則の効用の模範的な例は、名高き「ポトラッチ」である。 市場交換においては、交換という行為が社会的絆とならず、その後で直ちに孤独な状態に戻ることができるアトム化された個人間の一時的な交換となるように、二つの相補的な行為が同時に起きる(私は払い、払ったものを得る)。 ポトラッチにおいては、その反対に、私からの贈り物の贈与と他人の側からの返礼の間の時の経過が、持続する社会的つながりを生み出す(少なくともしばらくの間は)。負債という絆によって我々全ては結ばれているというわけだ。この見地からすると、貨幣は、適切な関係を結ぶことなく他人と交わることを我々に可能にする手段として定義できる。 適切な関係を結ぶことなく他人と交わることができるこのアトム化された社会が、リベラリズムの前提条件である。国家を組織するという問題は、それ故「悪魔の民族にとってすら」解決できないのである。カントが表明したように、このイデアは、リベラルのユートピアの鍵となるモメントであると言える。 このカントの「悪魔の民族」への言及は、彼の倫理的思考の別の側面に結びつけられるべきである。カントによれば、人が海に一人で漂う自分を見出した時、沈んだ船の別の遭難者の近くに一人だけを浮かばせることができる木の破片があれば、道徳的な考慮は最早有効でない。そこには、死との戦いにおいて他の遭難者と流木を巡って争う行為を妨げる道徳律は存在しない。私は道徳的免責ともにその争いに従うことができる。 そこにおいて、おそらく人は、カントの倫理学の限界に遭遇することになる。他人に生き延びる機会を与えるために、進んで自らを犠牲にする人はどうなのか?さらに非病理学的理由のために進んでそうする人はどうなのか?そうしたために私を責める道徳律が存在しないのならば、そのような行為には倫理的な資格がないことを意味するのだろうか? この奇妙な例外は、冷酷な利己主義――個人的な生存と私利への配慮――が、カントの倫理学の暗黙の「病理学的な」前提条件であることを証明するものでないだろうか?すなわち、我々が暗黙のうちに冷酷な功利主義的利己主義者として、人間の「病理学的な」イメージを前提とする時にのみ、カントの倫理的体系は自らを保持することができるということを証明するのではないだろうか? まさしく同じ意味において、カントの政治体系――彼の理想的な法的力の観念――は、我々が暗黙のうちに「悪魔の民族」としてこの力の主体の「病理学的な」イメージを前提とする時にのみ、自らを保持することができる。 カントによれば、既に述べたように、社会的平和をもたらすメカニズムは、個人の意志にも彼らの美点にも依存しない。「永遠平和の保証人は、かの偉大なる芸術家である自然(諸物の巧みな作り手である自然 natura daedala rerum)に他ならない。そのメカニカルな進行において、我々は自然の目的が、人間の意志に逆らいつつも人間の不和を通して、人間の間に調和を生み出すことにあることを知るのである」。 そしてこれこそが最も純粋なイデオロギーである。人は、リベラルな宇宙においてのみ、イデオロギーの観念は可能になると主張することができる。意味の世界――(当然にも現代的な見地からすれば)事実と価値観を混同した――にどっぷりと浸かった普通の人々と、道徳的な偏見なしに、(情念の)法によって定められたメカニズムとして、ありのままの世界を知覚することができる冷淡で理性的な観察者の間の区別をつけることによって。 このモダンな宇宙においてのみ、社会は可能性の実験の対象として、没価値的な理論もくしはあらかじめ与えられた科学――政治的な「情念の幾何学」であれ、経済であれ、レイシストの科学であれ――を適用できる(そしてそうすべきである)カオス的な領域として現れる。 自然科学者が自然に接するのと同じやり方で、没価値的な科学者が社会に接することができる、このモダンな立場のみが、厳密な意味でのイデオロギーであり、迷信的な偏見として科学者によって退けられている人生の有意義な経験についての自発的な態度ではない。それはまさしくイデオロギーである。なぜなら実際にそうであることなしに、自然科学の形態を模倣しているのだから。 訳者コメント: ぎょっとするような題名かもしれないが「悪魔の民族」という言葉は、カントの『永遠平和のために』の第一補説より。内容にも驚く人がいるかもしれないが、ここでジジェクがやっていることは、リベラリズムがグローバルに共有された価値観であることを前提として、その経済的政治的な両義性を分析するというもので、正しくリベラリズムの批判(否定ではなく)だろう。カントが自然は各民族を分散させ、互いの防衛と交易を通して平和状態を確立させると言っていることを思えば、牽強付会とは言えないと思う。 本文中にあるカントから引用部分は岩波文庫の『永遠平和のために』(宇都宮芳明訳)と、光文社古典新訳文庫『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(中山元訳)を参照しつつ英語原文に添って訳した。この文章は語彙の点においても、その抽象的な内容の点においてもずいぶん大変な翻訳で、通常の二倍は時間がかかってしまった。それでも至らない点があると思うが、もし指摘していただけたら嬉しいことこの上ない。なお、原文中にあるリンクは全てそのままとした。 ところで、このブログではナオミ・クラインとスラヴォイ・ジジェクという対局にあるように見える存在を翻訳しているのだが、ジジェクが『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』でナオミ・クラインに触れ、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』において人権のみにこだわり経済を取り扱わないことの限界を指摘していることを思えば、両者は無関係ではないと思っている。  
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| 2011-11-30 20:22
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