書籍:高橋源一郎『恋する原発』――三・一一体験が強いるもの/生を生きること、紡ぐこと
 たった今高橋源一郎『恋する原発』(講談社)を読み終えた。その読後感を失わないうちにこれを書こうと思う。ここでは一応カテゴリ分けのため書評としたが、インターネット上に発表する文章は、紙媒体のそれとは異なる性格のものであっていいと思う。以前にもある本の「書評」をオンラインで発表しようとしたのだが、今ではその時抱いていた考えとは異なっている。そのようなものとして受け取ってほしい。


 この小説は「大震災チャリティーAVを作ろう奮闘する男たちの愛と冒険と魂の物語」と帯に書かれている。だが、とてもそのような売り文句で言い表せるようなものではない。というより、全ての良質な小説がそうであるように、どのような言葉もこの作品を要約できないのではないかと思う。それでも敢えて短く言い表すならば、これは、三・一一体験というものがあるならば、それが私たち全てに強いるものを、性に立脚しつつ、凝縮して示したような作品だと私には思われた。

 「なぜ原発とアダルト・ビデオなのか」という問いに対しては、この小説を読み終えた読者ならば、こう答えるはずだ。「なぜなら原発は、性という私たちの生命を紡ぐための自然な行為を、破壊しようとするものだから」と。そしてこう付け加えるかもしれない。「むしろ私たちは原発と性の問題こそを考えるべきではないのか。それが私たちの生、個人的な生のみならず種としての生を脅かすが故に」。

 おそらく三・一一の直後には、ほとんどの人がテレビかじりついて、呆然とした思いでそれを見つめていたのではないかと思うが、人々には、その時画面に見た光景のみに対してではなく、様々な思いが去来したのではないだろうか?私はそうだった。直接的な津波被害、震災被害、放射能被害から、そのようなものまでを総称して、さしあたり三・一一体験と呼びたいと思う。

 実際のところ、この本を読んでいる最中に私が思い浮かべていたのは、三・一一を様々な人々の視点から再構成した優れたルポルタージュである広河隆一『福島 原発と人びと』(岩波新書)だった。おそらく両方の書物は、三・一一体験を、また三・一一体験とは日常化するものではないことを、私たちに想起させる点で共通しているのだ。

 『恋する原発』においては、それは例えば、戦艦大和の生存者であるアダルト・ビデオ制作会社の「会長」の体験談として、「あらゆる死者を受け入れる施設」に生まれ変わった『ニュー・ヤスクニ』として、被災者であり、児童虐待の被害者であり、「AV女優」である「ヨシコさん」の言葉として、「大震災チャリティーAV」を制作しようとする小説の語り手の、広島の原爆投下によって死亡した「ほんとうの母親」として現れている。

 つまりは、三・一一体験は、私たちがテレビに釘付けになっていたあの時期に起きたことだけのみならず、未来を、そして過去を考えることを強いている。あるいは考え直すことを強いている。これからも強い続けるだろう。それが私たちの性の問題、生の問題であるが故に。そして死者たちの問題であるが故に。小説の形として、そのことを刻んだものとして私はこれを読んだ。

 この小説はある種の二重の否定で終わっている。小説の語り手が選ぶある否定、その小説の語り手に対するある否定。それを念頭に置きつつ、私はこの小説を再び読むことになるだろう。


12/3の追記:
 昨夜この本を読み終えて、そのまま書いたこの文章を、今朝読み直してみると、異性愛的な観点が強すぎるようにも思われる。しかし、性とは種の保存のための行為だけでなく、個と個とを結ぶ行為でもあるという意味において、この文章は読み直しうるのではないだろうか?そして、それこそが「恋する」という言葉の意味ではないかと今思う。『恋する原発』は、その可能性と不可能性を見つめつつ、「恋する」ことを希求している本ではないか。そのことを付記しておきたい。

2012/10/26の変更:
 その後カテゴリを「書籍」とした。そのために本文の内容と齟齬があることを付記しておく。




by BeneVerba | 2011-12-02 23:03 | 書籍