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アルジャジーラ・インタビュー:今や領野は開かれた
The interview on Talk to Al Jazeera: Now the Field is Open 2011年10月29日 - スラヴォイ・ジジェク 原文: http://www.youtube.com/watch?v=6Qhk8az8K-Y http://beneverba.exblog.jp/16539863/ ナレーション: 中東からロンドンの街角、そしてアメリカの都市まで、現状に対する不満が爆発しています。強力な政府の鉄の支配であれ、富裕層と何とかやっていくだけの人々との間に横たわる大きな経済格差であれ。しかし、これら変化を切望する声はどこへと向かっているのでしょうか?社会変革を目指す彼らの長期的ヴィジョンはどれほど深遠なものなのでしょうか? 「システムはもはやその自明性、自立的な妥当性を失ったのです。そして今や領野は開かれたのです」。 スロヴェニア出身の哲学者スラヴォイ・ジジェク氏の懸念です。その資本主義と社会主義の両者への批判的な考察は、彼を国際的に認知された知識人にしました。例えば、ここニューヨークでは、ウォール街を占拠せよの占拠者たちの間で有名です。 『トーク・トゥ・アルジャジーラ』では、スラヴォイ・ジジェク氏をお招きして、この夏のロンドンでの暴動について、彼らが政治的なアジェンダを持っているかについて、お聞きすることからインタビューを始めました。 スラヴォイ・ジジェク: 彼らの抗議のやり方、あそこでの彼らの振るまいから見えるのは――私は抗議活動の参加者や目撃者と繰り返し話をしました――彼らは要求がないからこそ通りに繰り出したということです。彼らは、共産主義的なユートピアであれ、宗教的なものであれ、主張をまとめることができません。ただ、純粋な暴力と抗議の、それを何と呼ぶにしろ、消費主義を真似たアジェンダがあっただけです。それはとても悲しいことです。 トム・アッカーマン: ――ここアメリカ合衆国には、イデオロギー的に一貫した要求はあるのでしょうか? 彼らをそのことで非難してはいけません。私は共産主義者ですらないのです。私は自らそう言ったのです。そのことを口にした後、実に多くの敵を作ることになりました。現実を直視しましょう。20世紀の共産主義はまさに――なぜならばあのような希望と共に始まり、悪夢として終わりを告げたのですから――おそらくは史上最大のカタストロフィ、言うなれば、人類の歴史において試みられた中でも最大の倫理的なカタストロフィです。それはファシズム以上です。 その理由はごく単純なものです。ファシズムにおいては、私たちが抱えていたのは、「全てのプログラムはこれをやることだ。この悪事をなすことだ」と言っていた悪い奴らです。違いますか?なのに、彼らが権力を掌握した後で悪事をなしたのは、何たる驚きでしょうか!ですよね。共産主義において、私たちが抱えていたのは正真正銘の悲劇です。だからこそ反体制派や常に内部党争があったのです。だから――とはいえそれは終わったことです。 これが意味することは何でしょうか?それが意味するのは、もう虚仮威しは止めようじゃないか、ということなのです。私たちは既存のシステムの限界を理解しています。それこそが私の拠って立つ基本的な立場です。 人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。2008年の金融崩壊の始まりがどのようなものだったか、ご存知でしょう。「OK、我々の銀行に対する立法措置は充分ではなかった。全てが上手くいくように、それらを少しばかり変えよう」。いいえ、それは上手くいきませんでした。 だから、私たちによって、何かがなされなければならないのです。だがそれに対して率直に向き合わなければなりません。悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。 ここで一つ、もちろん私が政治的には反対する人物の言葉を引用しましょう。しかし、時に彼女は馬鹿ではありませんよ。ハンナ・アーレントです。ご存知ですね。最後の作品である奇妙な論考『人類にとっての貨幣(Human to Money)』の中で、彼女はこう言っています。「貨幣はリベラルさ(liberality)を表すための手段だ。我々が物を分かち合い、交換するなどの意味において。貨幣が意味するのは、我々がそれを平和的に行うということだ。私はあなたに貨幣で支払い、あなたは望むならそれを私に売る。もし貨幣というものが存在しなければ、直接的な支配と暴力的な強奪が幅を利かせることだろう」。 私はこの部分において彼女に同意しません。しかし、この話をどこかで聞いたことはないですか?つまり、20世紀共産主義の多大なる経験において、彼らは市場、貨幣を廃止しようとしました。そして、暴力的な支配が必然的にその見返りとしてやって来たのです。 ――あなたがお書きになった物を読みました。「もしそれが必要を意味するのなら、ファシズムは左翼だ」。そうですよね?「ファシズムは左翼だ」とはどういう意味でしょうか? それは私のリベラル派の友人たちを挑発するために言ったことなのです。私は挑発するのが好きなので。私が言ったことの中には、他にももっとひどい言葉がありますよ。例えば、「もし我々がトルコ人の半分を追いやったら……」 ――文字通りには受け止められませんよ。一体あなたは何を言おうとしたのですか? もちろんですとも。ご承知のように、問題は暴力の問題です。もちろん私は暴力に反対します。それが人々に対する殺人や拷問を意味するのならば。しかし、私にとって、私が支持する真の暴力とは、物理的な暴力のことではありません。それは例えば、タハリール広場のエジプト人たちのような暴力なのです。彼らは通常の意味では暴力的ではありません。銃撃したりといったことはしませんでした。彼らはシステム全体の機能を止めようとしたのです。 これが私の有名な宣言です。多くの敵から身を守るために書いたのですがね。最初の部分はこうです。「ヒットラーが問題だったのは、彼が充分に暴力的ではなかったことだ」。しかし、次の部分はこう続くのです。「ガンディーがヒットラーよりも更に暴力的だったという意味において」。ヒットラーの全ての暴力は、システムを上手く機能させることにありました。ガンディーはシステムを停止させようとしたのです。 したがって、私にとって問題は暴力の悪魔化です。もちろん暴力は悪魔化されるべきです。しかし、その前に私たちはあらゆる形態の暴力を精査しなければなりません。目に見えない暴力を見るためにです。それはつまり――私はパラノイアではありませんよ――悪いメディアが未知の手段で私たちが思考することを妨げているとか何とか。 単純にこう考えてください。例えば――暴力について話をしたいのですか?それならコンゴ共和国の話をしようじゃないですか!数百万の人々が死にかけていて、国家全体が機能していない。軍閥が支配し、薬物は蔓延し、未成年の戦士が戦っている、そういったことです。これが、システムの一部であるために、私たちが充分に気付いていない種類の暴力です。だから、私の言いたいことは、暴力の概念を拡張しようということなのです。 同じ主題について、イギリスのガーディアン紙に書きました。ヨルダン川西岸地区についてです〔拙訳〕。オーケー、私はきっぱりと暴力を非難します。パレスティナ人によるものであれ何であれ、あの場所にある暴力を。しかし、私のその記事での論点は、もし何も起こらなかったら何が起きるのかというものです。メディアにとって大きな出来事が何も起きなかったらです。誰も殺されなかったとかそういったことです。その時に起きていることは、日常と化したイスラエルの官僚的な窒息するような占領なのです。おわかりでしょう。井戸に毒を入れ、木々を焼き払い、パレスティナ人たちをゆっくりと南に押しやっていく。これこそが現実です。こうしたバックグラウンドを知らされることなしに、全体像を描くことはできません。 ――あなたは、例えばパレスティナ紛争について、イデオロギー上の解決策について話しているのではありませんね、どうでしょうか? イデオロギー上の解決策とはどういう意味ですか? ――そうですね、あなたは物事に変化がない時、それは通常の状態だとみなされると仰いました。 まさしく、そこにこそ平時における暴力があるのです。 ――紛争をナショナリスティックだったり宗教的にみなすものの見方よりも、イデオロギー的なアプローチは存在するのでしょうか? ここで問題なのは、「イデオロギー」という用語が何を意味するかです。私にとってイデオロギーとは、近年ますます日常生活における反抗を意味するのです。私たちは、とても奇妙な時代に生きています。少なくとも西側世界ではそうです。人々は自分たちがイデオロギーの外で生きていると思い込んでいます。まるで全ての人々がそうであるかのようです。 イギリスであれどこであれ、私たちが社会から受け取る暗黙の命令は何でしょうか?それは「大義のために身を捧げよ」などではありません。それは「自分に正直になろう」とか、「充実した人生を送ろう」とか、「自分の潜在能力に気付こう」といったものです。それは私が精神化された快楽主義(spiritualized hedonism)と呼んでいるものです。だからこそ、人々はイデオロギーを経験していると気付かないのです。 しかし、私たちはまさしくイデオロギーの中にいるのです。なぜなら私にとってイデオロギーとは、日常生活を機能させるために、物事を見たり見なかったりすることなのです。例えば、私たちが変革を想像できないという事実は、イデオロギーのなせるものです。 もう一つ別の例を挙げましょう。昨今ではレイシズムとセクシズムの問題――それらは本物の問題です――が、寛容の問題に機械的に置き換えられることに、お気づきですか?これがイデオロギーです。マーティン・ルーサー・キングを見てください。彼は寛容については言及しないも同然でした。彼にとって問題は「ああ、白人たちは私たち黒人にもっと寛容であるべきだ」などといったものではなかったのです。彼が問題としたのは、経済的な搾取であり、合法化された日常の中のレイシズムなどだったのです。こうした問題を感じ取ることが、寛容の問題です。 私たちは既存の社会のヴィジョンを受け入れています。そこでは、文化的な差異がほとんど自然化され、私たちはお互いに寛容であるべきだとかそういう具合に調整されています。そこでは政治の問題が消え失せてしまっているのです。 訳者コメント: 「ウォール街を占拠せよ」での演説、「ウォール街を占拠せよ」に関するガーディアン紙の論考と関連するために、いずれ訳すことを目的に書き起こしていたジジェクのアルジャジーラでのインタビューをようやく翻訳。後半はこちら。
by BeneVerba
| 2012-02-04 11:57
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