翻訳:ノーム・チョムスキー - メーデー/『オキュパイ』刊行に寄せて
メーデー/『オキュパイ』刊行に寄せて
May Day
2012年05月01日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://www.huffingtonpost.com/noam-chomsky/may-day_1_b_1461852.html

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 世界のどこであれ民衆はメーデーとは何かを知っているようだ。それが始まった地――ここアメリカ――を除けばだが。なぜならば、権力者たちがこの日の本当の意味を消すためなら何でもしてきたからだ。例えば、ロナルド・レーガンは、まるで労働運動に対する余分なナイフの一ひねりのように、「ロウ・デイ(Law Day)」なるものを制定した。愛国主義的ファナティシズムの日である。しかし、今日では、占拠運動によってエネルギーを与えられ、刷新された覚ざめがメーデーの周囲にある。そして、その改革とありうる革命への妥当性もだ。

 もし、あなたが革命のことを本気で考えているのならば、求めているのは専制的な革命ではなく、自由と民主を求めて進む民衆的な革命であるはずだ。多くの人々がそれを実践し、実行し、諸問題を解決した時に、それは起きうる。理解できるように、改革に限界があることを自ら発見しない限り、人々はそのような参与を引き受けはしないだろう。

 思慮深い革命家は、二つの妥当な理由に基づき、改革を限界にまで押しやろうとするだろう。第一には、もちろん改革それ自身に価値がありうるという理由で。人々は一日十二時間働くよりも、八時間働くべきなのだ。それに、概して言えば、我々はまともで倫理的な価値観を踏まえて振る舞うことを望むべきである。

 第二には、戦略的な見地から見て、改革に限界があることを示さなければならないという理由だ。時に、必要とされた改革に、体制側が適応することがあるかもしれない。もしそうであるならば、それは結構なことだ。だが、そうではないのならば、新しい疑問が持ち上がる。おそらくは、その瞬間こそ抵抗が必要とされ、正当な変化に対する障壁を打ち破ろうと踏み出す時なのだ。そして、おそらくは、自己防衛の形態として、権利と正義を防衛するための強硬手段に訴える時がやって来るだろう。そのような手段が自己防衛の形態であると大多数が認識しない限り、人々はそれらに参加しようとしないし、少なく見積もってもすべきではない。

 もし、既存の諸制度が民衆の意志に従おうとしない地点に達したのなら、それらの制度を廃棄しなければならない。

 メーデーはこの場所で始まった。だがそれは、残虐な暴力と司法の懲罰に服従していた、アメリカの労働者を支持する国際的な日となったのだ。

 今日、政治的指導者が定義した「ロウ・デイ」ではなく、民衆によってその意味が決まる日として、メーデーを祝う闘いは続いている。社会全体のより良い未来のために、組織化し労働することに根ざした日として。


訳者コメント:
 この数ヵ月ばかり忙しかったため、久しぶりの翻訳。以前から告知されていたノーム・チョムスキーの占拠運動に関する著作『オキュパイ』がメーデーの今日に刊行され、この文章はそれに合わせて著者がハフィントン・ポストに寄せたもの。刊行元は Zuccotti Park Press

 米アマゾンでは一部を試し読みすることができる。読むと、以前に翻訳を公開した「未来を占拠せよ」(厳密に同文であるかはチェックしていない)が収録されている。他のウェブサイトの紹介文を見ても、これまでに発表された占拠運動についての講演や論考を集めたものであるらしい。

by BeneVerba | 2012-05-01 21:40 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
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