翻訳:デヴィッド・グレーバー - 「ウォール街を占拠せよ」のアナーキズムのルーツ
「ウォール街を占拠せよ」のアナーキズムのルーツ
Occupy Wall Street's anarchist roots
2011年11月 - デヴィッド・グレーバー
原文:http://occupywallst.org/article/occupy-wall-streets-anarchist-roots/


 主流派メディアのジャーナリストから「ウォール街を占拠せよ」に関するインタビューを受けると、いつも受け取るのは、ほとんどいつも全く同じお説教のいくらか異なるバリエーションだ。

 「リーダーシップ構造も実践的な要求の一覧もなしに、いったいどうやってどこかにたどり着くなんてことができるのですか?それにこのアナーキスト的ナンセンスは何です――コンセンサスだとか、指先のひらひら〔ジェネラル・アセンブリーで用いられる身振り言語のこと〕だとか?こうしたラディカルな言語の全てが、みんなを遠ざけていることがわからないのですか?こんなものでは、平均的で主流派のアメリカ人に訴えかけることはできませんよ!」

 もし、これまでに受けた最悪のアドバイスを収集したスクラップブックを作成するのならば、こうした種類の意見は名誉ある地位を占めるに値するだろう。結局のところ、二〇〇七年の金融崩壊以来、アメリカの金融的エリートの略奪行為――そのようなジャーナリストがそそのかしたものなのだが――に対して全国的な運動をしかけようとする試みは、数十もあった。しかし、ようやく八月二日になって、アナーキストと若干の反権威主義者からなる小集団が、そのような集団の一つの呼びかけによって集会を開き、全員を計画されたデモ行進から、基本的にアナーキストの諸原則に基づく正真正銘の民主主義的な集会の作成に同意させた。その日こそが、ポートランドからタスカルーサまでのアメリカ人が、進んで支持する運動が定められ日だった。

 ここで、私は「アナーキズムの諸原則」という言葉で、何を意味しているのかをはっきりさせておくべきだろう。アナーキズムを説明するもっとも簡単な方法は、それは正真正銘の自由な社会をもたらすことを目的とした政治運動だと述べることだ――それは、恒常的な暴力に強制されることなしに、人間がお互いとの諸関係に入ることができる社会だ。歴史の示すところによれば、富の途方もない不平等、奴隷制のような制度、負債による奴隷労働、賃金労働などは、軍隊、監獄、警察の支えなしに存在することができない。アナーキズムは、参加者の自由な同意に基づいてのみ存在する、平等と連帯に基づいた社会を思い描く。


アナーキズム対コミュニズム

 伝統的なマルキシズムは、もちろん、同じ究極の目標を追い求めていたが、重要となる違いがあった。ほとんどのマルクス主義者は、まず国家権力とそれに付随する官僚的な暴力の全てのメカニズムを取得し、社会を変えるのにそれを使用することが必要だという考えに固執した――そのようなメカニズムが、究極的には余分なものになって消え失せるだろうという地点まで。一九世紀においてさえ、アナーキストたちは、これをただの白昼夢だと言っていた。彼らの議論によれば、戦争を訓練することによって平和を作ることはできないし、トップダウン型の指揮系統によって平等を作ることはできないし、ついでに言うのなら、全ての個人的な自己実現と自己達成を大義に捧げる厳めしく喜びに欠けた革命家になることによって、人間の幸福を達成することはできない。

 目的が手段を正当化しないというだけではない(正当化しないが)、目的それ自体が達成したいと望む世界のモデルでない限り、目的は決して達成されないのだ。それゆえに、有名なアナーキストの呼びかけは「旧世界の殻の中で、新しい社会を築き」始めようというものなのだ。フリー・スクールから、ラディカルな労組、田舎でのコミューンまでの平等主義的な実践において。

 アナーキズムもまた革命的イデオロギーである。そして、その個人の良心と自発性への強調は、革命的アナーキズムの最初の最盛時であったおよそ一八七五年から一九一四年の間には、多くが国家と資本家のトップに対して爆弾や暗殺で直接戦うことを意味した。それゆえに、一般的なアナーキストのイメージは爆弾魔なのだ。おそらくアナーキズムが、テロリズムが――たとえ無実の者を対象としなくとも――うまくいかないことに気付いたおそらくは最初の政治運動だったことは注目に値する。一世紀近くたった今、実際のところアナーキズムは、その主導者が誰も暴力的に排除しようとしない数少ない政治哲学の一つである(実に、アナーキストの伝統を利用した二〇世紀の政治的指導者は、マハトマ・K・ガンジーである)。

 一九一四年から一九八九年の期間――世界が絶え間なく世界戦争を行っていたか、その準備を行っていた期間――には、アナーキズムはまさにその理由で陰に隠されてしまった。そのような暴力的な時代においては、政治運動は軍隊、海軍、弾道ミサイルシステムを組織化する能力を保持していなければならなかった。それはマルクス主義者が優れているところのものだ。だが、信用に関わるからというよりも、アナーキストは決してそれをうまくやることができないだろう。アナーキズムの諸原理に基づくグローバルな革命的運動――グローバル・ジャスティス運動――が急速に再出現したのは、大規模な戦争終結が終わったように見えた一九八九年のことである。

 それでは、どのようにOWSはアナーキズムの諸原則を具現化しているのだろうか?論点ごとに述べた方がよいだろう。

1.既存の政治的諸制度の正統性を承認することの拒絶

 喧しく議論された要求を出すことの拒絶の理由は、要求を出すと言うことは、要求が宛名として作成された人々の正統性を――少なくとも権力を――認めるということだからだ。アナーキストはよく抗議活動と直接行動の違いを強調する。いくら戦闘的であっても、抗議活動は権威者に対して異なる振る舞いを要求するものだ。直接行動は――井戸を掘ることであれ、法律を無視して塩を作る(これもガンジーが好例だ)といった共同体の問題であれ――既存の権力構造が存在しないかのように振る舞うことなのだ。直接行動は、究極的には、人は既に自由であるかのように行動するという反逆的な主張なのだ。


2.既存の法秩序の正統性を受け入れることの拒絶

 第二の原則は、明白なことに、第一の原則から導かれる。占拠運動の当初、計画のための集会をニューヨークのトンプキンス・スクエア公園で開いていた時から、オーガーナイザーたちは、公共公園での警察の許可のない一二人以上の集まりを禁止する市の条例を承知の上で、無視していた。単に彼らの見地からは、そのような法律は存在すべきではなかった。同じ見地によって、もちろん、私たちは公園を占拠したのだ。中東から南欧までの先例が息吹を与えていた。その見地からすれば、公衆として、私たちは公共の空間を占拠するのに許可を必要とするべきではなかった。これは、とてもささやかな形態の市民的不服従かもしれないが、私たちが法的ではなく道徳的な秩序に答えたことで始めたのは決定的なことだった。


3.内部に階層秩序を作ることの拒否,その代わりにコンセンサスを基盤とする直接民主主義を作ること

 占拠運動の当初から、また、オーガーナイザーたちは、指導者のいない直接民主主義によるのみならず、コンセンサスによって運営するという大胆な決定をしていた。最初の決定は、私物化や強制の可能性のある公式のリーダーシップ構造がないことの確認だった。二番目の決定は、マジョリティはマイノリティを意志に従わせてはならない、全ての重要な決定は全体の同意によるものでなければない、というものだった。アメリカのアナーキストは長い間、強制なしに運営できる唯一の意志決定の形態だという理由で、コンセンサスの過程――フェミニズム、アナーキズム、クエーカー教徒のような精神的な伝統、などの合流点に形成された伝統――が重要だと見なしていた。したがって、もしマジョリティがマイノリティにその命令に従わせる手段がないなら、全ての決定は必然的に全体の同意によってなされなければならなかった。


4.予見的な政治を抱擁する

 結果として、ズコッティ公園とそれに続く全ての野営地は、新しい社会の諸制度を築く実験場となった――ジェネラル・アセンブリーだけではなく、キッチン、図書館、診療所、メディア・センターなども。全ては、相互扶助や自己組織化といったアナーキズムの市世原則に基づいて運営されていた。新しい社会の諸制度を古い社会の殻の中で作ろうとする真の試みだ。

 なぜそれはうまくいったのか?なぜそれは広まったのか?一つの理由は、明らかに、既存のメディアがそうするよりも多く、はるかに多くのアメリカ人がラディカルなアイディアを進んで受け入れたからだった。アメリカの政治的秩序は絶対的かつ矯正不可能なほど腐敗している。どちらの党も人口の最も豊かな1%によって売買されている。真に民主主義的な社会に住みたいのなら一から築き上げなければならない――といった基本的なメッセッージは明らかにアメリカの魂の奥深いコードをかき鳴らしたのだ。

 おそらくこれは驚くべきことではない。私たちは一九三〇年代に比肩するような状況に直面しているのだから。主な違いはと言えばメディアが断固としてそれを認めようとしないことだ。アメリカ社会におけるメディア自体の役割について、興味深い疑問が持ち上がる。ラディカルな批評家は、通常企業に支配されたメディア(corporate media)を、彼らが呼ぶ通り、主に既存の制度が健全で、妥当で、公正だと公衆に確信させるために存在するとみなしている。彼らがこれが可能だと本当には見ていないことは、ますます明らかになっている。それよりも、メディアの役割は単にますます怒れる公衆たちに、他の誰もが同じ結論には達していないと確信させることにある。結果は、誰もが本当には信じていないイデオロギーである。しかし、ほとんどの人々は、少なくとも他の人々は疑っているのではないかと疑っている。

 普通のアメリカ人が本当には何を考えているのかと、メディアと政治的エスタブリッシュメントが彼らはこう考えていると言うこととの乖離は、民主主義について語る時により明瞭になる。


アメリカの民主主義?

 公式の物語によれば、もちろん、「民主主義」とは建国の父たちによって創設されたもので、大統領、議会、司法のチェック・アンド・バランスに基づく制度だ。事実として、独立宣言の中でも憲法の中でも、アメリカが「民主主義」であるとは一言も述べられていない。それらの文書の起草者たちは、ほとんど一人残らず、「民主主義」を民衆集会による集団的自己統治の問題と定義していた。そして、そのようなものとして彼らはそれに断固とした態度を取っていた。

 民主主義は群衆の狂気を意味していた。血なまぐさく、騒々しく、筋道のないものを。「自殺しなかった民主主義はなかった」とアダムスは書いた。ハミルトンは「裕福で生まれの良い者」が民主主義の「軽率」をチェックする恒常的な総体を作り出すのに必要だとして、下院で許可されている限定的な形態さえも含め、チェック・アンド・バランスの体制を正当化した。

 その結果がリパブリックだった。アテネではなく、ローマをモデルとしたそれである。それが一九世紀初期には「民主主義」として再定義された。なぜならアメリカ人は今と違ったものの見方をしており、自らを「デモクラッツ」と呼ぶ候補者に対して、投票することに――投票することが許された者はだが――執拗なまでに傾きがちだったからだ。しかし普通のアメリカ人はその言葉で何を意味していたのだろうか?そして、今のアメリカ人は何を意味しているのだろうか?アメリカ人は本当に、自分も一枚加わって政治家が政府を運営する体制をただ意味していたのだろうか?それはありそうもないようだ。結局、ほとんどのアメリカ人は政治家を嫌悪しているし、政府というアイディアそのものに懐疑的な傾向がある。もし、彼らが政治的理想として普遍的に「民主主義」を抱いているのなら、曖昧ではあれ、彼らがそれをまだ――自己統治として――見ているからに他ならない。建国の父たちが非難する傾向にあった「民主主義」として、あるいは、彼らが時にはまたそう表現したように「アナーキー」として。

 もし他に何もないのなら、これがアメリカのメディアと政治階級の横並びの軽蔑的無視にもかかわらず、直接民主主義の原則に基づいた運動を人々が熱狂とともに迎え入れた理由を説明するものだろう。

 実際、アナーキズムの諸原則――直接行動、直接民主主義、既存の政治的制度の拒否、そしてもう一つのそれを作ろうとする試み――に深く基づく最初の運動がアメリカに出現したのは、これが初めてではない。市民権運動(少なくともそのラディカルな分派)、反核運動、グローバル・ジャスティス運動などは全て似た方向を目指している。しかしながら、決してこれほどまでに驚くほど急速に拡大した例は他にはない。オーガナイザーたちが今度こそ根本的矛盾に立ち向かったのが理由の一つだろう。彼らは、支配的エリートが民主主義を主宰しているという見せかけに挑戦したのだ。

 もっとも基本的な政治的感覚について、ほとんどのアメリカ人は深い葛藤を抱えている。ほとんどの人が、個人の自由に対する深い敬意と軍隊や警察といった制度に対する信仰にも近い自己同一化とを併せ持っている。ほとんどの人が、市場への熱狂と資本家への憎悪を併せ持っている。ほとんどの人は、心の奥からの平等主義者であると同時に、根深いレイシストだ。実際にアナーキストである者はごくわずかであり、「アナーキズム」が何を意味するのかを知る者は、ごくわずかである。どれ程多くの人が――例え彼らが学んでいたとしても――最終的に国家と資本主義を完全に破棄したいと望んでいるのかは定かではない。

 圧倒的な数のアメリカ人が感じている一つのことは、彼らの国はとてつもなくどこかが間違っているということなのだ。主要な機関が傲慢なエリートによって操作されているということなのだ。何らかのラディカルな変化が訪れるべき機が熟してからもう長くなる。彼らは正しい。これほど体系的に腐敗した政治体制を想像するのは難しい――あらゆるレベルの収賄が合法になされているというだけでなく、賄賂の売り込みと分配が全てのアメリカの政治家の全時間の仕事なのだ。憤慨は適切なものだ。問題は、九月一七日までは、それが何であるにせよラディカルな解決策を提案しようとしたのが、右側だけだったことだ。

 過去の運動の歴史を見るとはっきりしているように、民主主義の勃発ほどアメリカを運営している者たちを恐れさせるものはない。民主的に組織された市民的不服従の控えめな閃きに対してさえ、即座の反応は混乱した譲歩と不当な暴力の混合なのだ。いったい他に、最近の数千の機動隊の集結、殴打、化学的攻撃、大量逮捕――市民たちはまさに民主的な集会に参加していた。それは権利の章典が守るように指定していた――を説明する理由があるだろうか。そして誰の犯罪――もし少しでもあればだが――が、地域の野営規則に違反していると言うのだろうか?

 我らがメディアの識者たちは、もし平均的なアメリカ人が「ウォール街を占拠せよ」におけるアナーキストの役割にいったん気付けば、衝撃と恐怖で逃げ出すだろうと主張するかもしれない。しかし、私たちの支配者たちは、それよりも、もしそれなりの数のアメリカ人がアナーキズムが本当には何であるかを見出せば、彼らはあらゆる種類の支配者など不要だと決定するかもしれないことを恐れているようだ。


by BeneVerba | 2012-05-04 13:37 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
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