翻訳:黄之鋒 - 行進する学民思潮 [1/2]
行進する学民思潮
Scholarism On The March
2015年03月 - 黄之鋒
原文:http://newleftreview.org/II/92/joshua-wong-scholarism-on-the-march

e0252050_2325361.gif


――ご家族のバックグラウンドについて、語ってもらえますか?

 私の両親は香港へ、そのほとんどが公営住宅や村落に住む下層階級の出身として、やって来ました。しかし、両親は、献身的に学習に取り組み、試験でも良い成績を残して、香港大学に入学しました。学位を得て、彼らはミドルクラスの職を探すことが可能になったのです。私の父はIT企業に勤め、母はカウンセリングの仕事をしていました。そういうわけで、私は、典型的な香港の中産階級で育ちました。

 私は、香港返還の前年となる一九九六年に、生まれました。私の両親はキリスト者で、私は、クリスチャン・スクールに通いました。香港の文化はとても保守的で、個人の成功を基盤とする通念がありました。一度、教師に、「私たちはいったいどうすることで社会に貢献できるのでしょうか?」と訊ねると、彼女はクラスでこう言いました。「あなたが多国籍企業に入って、お金持ちになれば、貧しい人々に寄付することができる」。実に、典型的な見解というものです。

――ご家族のキリスト者としてのバックグラウンドや、ご家族が教会に属していることが、あなたの人生にどのような影響を与えましたか?

 私の家族は、香港の基督教香港崇真会に所属しています。教会の宗派は、重要ではありません。なぜなら、香港の人々は、神学的な理由で教会への所属を選ばないからです。私の両親がこの教会に通っているのは、家から近かったからです。その結果、私も協会の関連施設である幼稚園に通っていました。私は、三歳になって教会に通うようになりました。

 キリスト教は、もっとも力がある存在は神である、と私に教えてくれました。どんな人間も他の人間に対して超越的な力を持ちえないこと、原罪があるために、どんな人間も完璧ではないことも教えてくれました。官僚や政治家の多くも、キリスト者です。ですので、宗教は、全ての人に同じ影響を及ぼすわけではありません。私にとってキリスト教の教えは、独りで住んでいる年配の人々を気にかけることなど、社会的正義の問題に関わるための良い基盤となっています。

 それに加えて、私は、映画『中国のイエスキリスト』を観ました。小学校にいたその時から、共産主義政権下で宗教的自由を得るのは非常に難しいことに気付き、限りのある物質的なものは、私たちの人生の目標ではないことを知りました。むしろ、私たちは、価値や信条のために、自らを犠牲にする覚悟をすべきなのです。

 それにまた、教会は、私の組織運営能力にも、大きな影響を及ぼしました。毎年クリスマスとイースターには、パーティーやショウ、班単位での活動など、大規模な活動がありました。高校生だった頃、聖書のクラスで中学生を指導しなければなりませんでした。小さなグループやゲームをどのように率いるかを、演説と同じくらい学びました。私は、そうした技術を、教会の活動に関わることによって得たのです。数百人の高校生か大学生が教会にいて、千人ほどしかメンバーがいないということが、よくありました。なぜなら教会は中西区にあって、「有名校」と呼ばれるものが、密集している地域だったからです。

――いつ、どうやって政治化したのですか?

 一四歳の時、中国と結ぶ高速鉄道に対する反対運動がありました。それは二〇〇九年から二〇一〇年のことで、それに興味を抱いたのです。ニュースを読み、インターネットでの議論を追い掛けましたが、その時の私は観察者であって、参加者ではありませんでした。転機となったのは、二〇一一年の春に、「徳育及び国民教育」を、二年後に学校のカリキュラムに導入するという発表があった時です。六月に、私はこれと闘うために、すぐに「学民思潮」と呼ぶことになる組織を、数人の友だちと創設しました。私たちはアマチュアっぽいやり方で、鉄道の駅でそれに反対するビラを配ることから始めました。しかし、すぐに反応が現れ、反対の世論が形成されました。この時に、香港史上初めて中学生が、活発に政治に関わることになったのです。

 私たちは、新しいカリキュラムに反対していました。なぜなら、それは中国共産党を「進歩的で、無私の団結した組織」と見なして、私たちに教義を吹き込むものだったからです。中学生たちは、このような種類の洗脳を望んでいませんでした。しかし、彼らはまた、既に重荷となっている教科に加えて、どのような種類の追加カリキュラムも、望んでいなかったのです。そういうわけで、「徳育及び国民教育」の中身をよく知らない学生たちさえ、それには反対していました。そうして、大規模なデモが組織化されたのです。

――反応の速さと規模には、驚きましたか?

 ええ。学民思潮が始まってから三ヵ月後、私たちは、プログラムの撤回を求める請願を組織しました。二〇〇名からなるボランティアのチームが、一〇番街の駅の外に立って、一日に六時から八時間、三〇度の暑さの中で、署名を集めました。一〇日間で、一〇万人もの人が請願書に署名してくれました。当初、学民思潮に注目するメディアはありませんでしたし、教職員組合すら私たちのことを気にとめてはいませんでした。ですが、それも短期間のうちに変わりました。特に、私が多くのマイクを前にして、テレビのインタビューに応じてからは、そうでした。私たちの目的からすると、いくぶん政治的なパーティーめいたこうした出来事は、香港の一般の人々からも支持を得ました。

――学民思潮は、チュニジアとエジプトでの「アラブの春」と、その秋の「ウォール街占拠」の間、二〇一一年六月に生まれましたね。これらの運動は、あなたに影響を与えましたか?

 いいえ。それらの出来事は、私に影響を及ぼしませんでした。そうした人々のことは気付いていましたが、彼らの要求と方法は反国民教育運動とは異なるものだったので、私たちの政治的な想像力の一部とはなっていません。二〇一一年、香港の一般大衆は「市民的不服従」の意味を理解していませんでしたし、私たちは「アラブの春」や「ウォール街を占拠せよ」にも、興味を持っていませんでした。学民思潮が最初に創設された時、私たちが考えていたのは、単に街でビラを配ろうということだけです。

――二〇一二年三月には、梁振英が香港特別行政区長官に選ばれましたね。運動への影響はありましたか?

 ええ。選挙は、香港の非民主主的な体制を、大げさに演出したものと言えました。有力候補の二人はどちらも百万長者で、二人の間にはわずか一二〇〇票差しかありませんでした。梁は最後の票を北京から得たのです。それに、二人のうちでも悪い候補だ――ずる賢くて無慈悲だ――と広く見なされていました。それにまた、中国共産党それ自身の秘密のメンバーだとも考えられていました。彼の当選は、疑いもなく多くの不安と怒りを呼び起こしました。それはオフィスでの彼の実績を確認しただけだったのです。民衆の雰囲気は、おかげでラディカルなものとなりました。

 二〇一二年の七月には、種々様々な民衆団体や市民団体を統一した巨大なデモが、国民教育法の撤回を要求して、行われました。政府は耳を傾けませんでした。そこで、九月にはあらゆる路地を抗議者たちが埋め、私たちは直接行動を起こしたのです。一二〇万人もの人々が結集して、香港政府に対して抗議しました。私たちのメンバーのうち三人は、向かい側の公園でハンガーストライキを行いました。九月の中旬には、香港特別区立法会の選挙が予定されており、ハンガーストライキの二四時間後でした。政府は屈服し、予定を保留したのです。

――あなたはその時わずか一五歳で、この巨大な民衆運度を率いていましたね。政治的な教育を受けた経験が、あなたをそうさせたのですか?それとも本を読んだり、パンフレットを読んだりしたことが?

 四年前には、私は全く本というものを読みませんでした。他の香港のティーンエイジャーと同様に、ただコンピューター・ゲームをしていました。私は、政治をオンラインで学んだのです。活動家の議論を追い、異なる民主派の政党が効果的な反対派を組織化するのに、失敗するのを観ていました。フェイスブックが私の図書館だと言ってもいいでしょう。王丹の著作を読むのが好きですね。台湾に行った時に会ったことがあるのです。

――一九八九年の学生蜂起は、どの程度、今日の民衆運動の背景となっているのでしょうか?二五年後の今、六月四日の天安門事件に対する、民衆規模の追憶はありますか?

 ええ、確かに。六月四日の記憶は、今でも生きています。ですが、その政治的意味を過大評価してはいけません。ろうそくを灯した寝ずの番は、儀式のようなものになりました。それは、彼らの起こした行動への連帯と言うよりも、一九八九年の犠牲者たちへの感情的な追悼の念に、強く動かされているのです。香港政府の前の公園でハンガーストライキをしている三人に対しても、同じような反応が得られると思います。全く同じ「学生たちを守れ!」という叫びです。それは大人が若い人々を守るべきだという信念なのです。ですが実際には、私たちが彼らを守っているのです。その逆ではありません。

――学民思潮の次の一歩はなんでしょうか?政府に徳育と国民教育を諦めさせたその後は?

 カリキュラムは、引っ込められました。しかし、その隠された企図――中国共産党の香港における影響力を、ビジネス、メディア、教育に広げること――はまだそうではないことは、一目瞭然です。もし、私たちが行動を起こさなければ、再び蘇ることでしょう。それを止めるには、立法会での直接選挙が必要となるでしょうし、全ての市民に、行政長官を選ぶ権利が与えられなければなりません。そういうわけで、私たちはこの二つの要求をとりまとめたのです。

――この政治運動を立ち上げたことに対して、成功する見込みをどう見ていますか?北京に対して、伝統的な一線を越えたことを?

 ええ、もちろん前もって勝算を計算できたわけではありません。それに、民主派が、ハードルを低くすることも知っていました。基本的に、彼らの要求は、行政長官を選ぶ際には、全ての人が同じ一票であるべきだという、選挙に対して必要最低限のものでした。彼らは闘争を起こす度に、いつも負けてばかりいて、悲観的になっていたのです。彼らは、非常に限られた望みしか、持っていませんでした。

 しかし、私は自分の経験に基づいて、楽観的だったのです。大きな勝利を収めたと感じていたし、次の目標を定めるべきだと思っていたのです。行政長官に直接投票する権利だけではなく、候補者を直接選ぶ権利です。民主派は、そんなこと不可能だと見なしていました。二〇一三年の初頭に、香港大学の法学教授、戴耀廷が「愛と平和で中環を占拠しよう(Occupy Central with Love and Peace)」という運動を始めました。彼に食事に招かれて、昼食をともにしながら、彼は私にそれは理想的すぎると語ったのです。行政長官を民主主義的な選挙で選ぶというのは、香港の人々は受け入れないだろうと。

――そうした違いは、雨傘革命においてどのように現れましたか?

 戴と二人の同僚は、政府に「メッセージを送る」ために、一〇月一日に中心業務地区での平和的なデモを呼びかけました。私たちは、それを意義あるものだとも適切なものだとも思いませんでした。中心業務地区は、大量の人間が占拠するには適していないし、歩道橋から近づくことも困難ですし、週末には人気がなくなってしまいます。そこで、四日前の九月二六日に学民思潮が、政府関連施設の真ん中にあるシビック・スクエア(圓方)を取り囲む、セキュリティ・バリアを突破する役割を果たし、空間を占拠したのです。中にいた学生とともに、すぐに警官によって封鎖されたのですが、私たちによるその行動が、その後に続く運動の引き金となりました。

 バリアを突破したことで、他の何人かと一緒に、九月二七日に私は逮捕されました。私たちのうちほとんどはすぐに釈放されたのですが、私は、他の人々よりも長く、四六時間勾留されました。私が勾留されている間、警察は金鐘の学生たちを催涙ガスで攻撃していたのです。これは香港では前例のない仕打ちで、抗議者たちに民主的な態度を吹き込みました。溢れんばかりの途方もない連帯表明があり、学生たちはすぐに、運動に参加している専門家や務め人に数で優るようになりました。そして、香港の分かれた三つの場所を覆い尽くすようになり、それが八〇日間続いたのです。



訳者コメント:
 「New Left Review」誌最新号に掲載された、黄之鋒のインタビュー記事(NLR誌了承済み)。黄之鋒は、昨年二〇一四年のいわゆる「雨傘革命」の中心人物の一人と見なされている。文字数制限のため二分割して掲載する。後編はこちら。誤訳その他の指摘歓迎。

by BeneVerba | 2015-05-05 23:33 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://beneverba.exblog.jp/tb/23061029
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。