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全てのマイノリティは新しいマジョリティである
The All Minority Are The New Majority
2011年10月30日 - アンジェラ・デイヴィス
原文:
http://pastebin.com/9sEVQv2K
http://www.youtube.com/watch?v=HlvfPizooII


 この午後に、あなた方の中に加わるのは本当に名誉なことです。なぜなら、あなた方は私たちの政治的な世界を再発明したのですから。あなた方は、私たちの集団的な情熱を新たにしました。あなた方は、抵抗の共同体を築くことは未だ可能だと私たちに思い起こさせてくれました。あなた方は、私たちに、その参与、献身、協働の姿勢を示し続けています。階級的ヒエラルキー、人種的ヒエラルキー、ジェンダー・ヒエラルキー、セクシャル・ヒエラルキーを容認することを拒否するあなた方の姿勢を。

 あなた方の運動は、マイノリティに対して立ち上がることを、マジョリティに呼びかけるものです。あらゆるマイノリティは、今や新たなマジョリティとなったのです。

 そうして、私たちはウォール街に対して「ノー」と言うのです。大銀行に対して「ノー」と言うのです。年に数百万ドルも稼ぐ大企業の経営陣に対して「ノー」と言うのです。学生の抱える負債に対して「ノー」と言うのです。強制排除に対して「ノー」と言うのです。警察の振るう暴力に対して「ノー」と言うのです。グローバルな資本主義に対して「ノー」と言うのです。刑務所産業複合体に対して「ノー」と言うのです。レイシズムに対して、階級的搾取に対して、ホモフォビアに対して、ゼノフォビアに対して、トランスフォビアに対して、身体障碍者への差別に対して、環境汚染に対して「ノー」と言うのです。そして、私たちは、軍隊の占拠に対して「ノー」と言うのです。戦争に対して「ノー」と言うのです。

 私たちは「九九%」として団結しています。この場所に共同体として集うという決断をしたことに関して、あなた方には重大な責任があります。いったいどうすれば、私たちはともに結びつくことができるのでしょうか?どうすれば私たちは、過度に単純化されたものでなく、抑圧的なものでもない統一の中で結びつくことができるのでしょう?どうすれば私たちは、複雑でありながら、解放するような統一において、結びつくことができるのでしょうか?

 ここでアフリカ系のフェミニスト、オードリー・ロードの言葉を喚起したいと思います。「ことなりは単に容認されるべきものではなく、私たちの創造性が誘電体のように火花を散らすために必要な、極性の元となるものとして見なされなくてはならない」。

 このような複雑な統一の中において、私たちは、人生に対して「イエス」と言うのです。幸福に対して「イエス」と言うのです。共同体に対して「イエス」と言うのです。教育に対して、教育の無償化に対して「イエス」と言うのです。経済的な、人種的な、ジェンダー的な、セクシャルな平等に対して、「イエス」と言うのです。そして、私たちは想像力に対して「イエス」と言うのです。創造性に対して「イエス」と言うのです。希望に対して、未来に対して「イエス」と言うのです。

 最後に、私の故郷であるカリフォルニア州オークランドについて、少し述べたいと思います。「オークランドを占拠せよ」での警察の襲撃については、ご存知ですね。スコット・オルセンはまだ病院にいます。オークランドのジェネラル・アセンブリーは、改名されたオスカー・グラント広場で集会を開き、警察の襲撃に応答すべく、一一月二日のゼネストを呼びかけました。ゼネストは革命的なことです。

 オークランドの抗議者たちの言葉を、あなた方と分かち合いたいと思います。「オークランドを非植民地化せよ」「我々は九九%だ」「我らは団結し立ち向かう」「二〇一一年一一月二日」「ゼネスト」「労働を拒否せよ」「学校を拒否せよ」「あらゆる場所を占拠せよ」。


 どうもありがとうございました。



訳者コメント:
 アンジェラ・デイヴィスが、昨年10月30日にワシントン・スクエア公園で行った講演の前半部分。時間的な問題と分量の問題から、質疑応答は省いてまずスピーチ部分だけをアップロードすることにした。後半の質疑応答部分は、明日以降に投稿する予定(あくまでも予定)。

 アンジェラ・デイヴィスについて、私は偉そうに語れる者ではないのだが、アメリカ共産党とブラック・バンサー党の両者に深く参与した彼女は、傍らに置くことが許されない、多様な方向性を指し示す現代アメリカ史の一つのイコンであるように思われる。

 例によって、書き起こしと動画の両方を参照しつつ、より正しいと思われる語句を選んで訳していった。不明瞭な点は思い切って意訳した。こうした問題について、読者からの指摘があれば幸いである。なお、このスピーチで「フェミニスト」と呼ばれているオードリー・ロード(Audre Lorde)は、ニューヨーク生まれの詩人、作家、アクティヴィストで『Zami: A New Spelling of My Name』などの著作がある。

7/18の変更点:
 「a unity that is complex, and emancipatory」の部分を訳し忘れていたので追加。その他この翻訳を元に日本語字幕付き動画を作成する際に気になった箇所を二、三修正。

by BeneVerba | 2012-07-17 15:16 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
新しい資本主義
I Want A New Capitalism
2011年09月19日 - ロザンヌ・バー
原文:
http://feministing.com/2011/09/21/rosanne-barr-speaks-at-occupy-wall-street-protest/
http://www.youtube.com/watch?v=ZyoRcEF6ox8





 私がほしいのは新しい資本主義です。戦争によって経済を活性化するのではない資本主義です。生み出された富をほんの一握りの白人の手に握らせて、それを「自由貿易だ」などと呼ぶことのない資本主義です。お年よりが実際に退職金の支払いを受けられる資本主義です。私たちはそうした資本主義を得ることでしょう、そうすれば社会主義もまた得ることになるのです。教育、基本的な憐れみの感情、ヘルスケアもです。私が言っているのは辛い仕事と野心とが報われ、か弱い子どもたちに思いやりを持って接することのできる体制のことです。フェミナチと呼ばれる人々は、こうしたことを指して反逆罪だと言いつのることでしょう。

 私たちは資本主義と社会主義を組み合わせ、様々な理想が手を携えて実際に機能する体制、民衆主義(peopleism)とでも呼ばれるべき体制を築くのです。増長したでぶっちょのラジオ番組の司会者たちが、飢えた人々に暮らしを切り詰めるように説くからといって、もしくは、あの忌々しいアイン・ランドの本があるからといって、たった一つの頑固なイデオロギーへとむやみにしがみつく人はいないでしょう。私たちは実際に折衷的であり、順応的であり、合理的な判断を下すでしょう。私たちは、良識に基づいた解決策を生み出すことでしょう。

 ここにいるあなたたちのことを嬉しく思います。これほど多くの私たちが、私たちを制御するプログラムを実際に破壊したことに、まさに今わくわくしています。長年に渡って私たちがその中に住んでいた、私たちの精神をコントロールするプログラムです。あなたたちに敬意を表します。あなたたちが自由に志向していることに対して、敬意を表します。

 (抗議者のサインを読みながら)「腐敗せる者は我らを恐怖し、誠実なる者は我らを支持し、勇敢なる者は我らに参加する」。あなたの仮面気に入ったわ。あなたたちみんなのことが気に入った。

 私たちはみな自由を愛しています。素晴らしい作家であり、素晴らしい女性であるメアリー・ダリーの言葉を引用したいと思います。彼女は私のアイドルなのです。「真実のない自由というものはない」。

 私たちが何をしなければならないのかを、述べたいと思います。私たちは小さなエゴを集めて、大きなエゴを形作らねばなりません。それが六〇年代頃に最初に左派がしたことです。私はその時代に、みんなが結束と団結のために、小さなエゴを慎むようにしていたのを見ていました。それこそが私たちがしなければならないことです。エゴを脇に置くのです。「新しく自分のウェブサイトを作ったんだ」なんて言わないでください。既にウェブサイトを運用して仕事をなしている人々を探し出して、その仕事に参加し、自発的に活動するのです。

 それが私たちのしていることです。私たちには味方としてチームスターがいます。後はあらゆる支店とあらゆる道路を封鎖するのです。それは困難な仕事です。どうすれば成し遂げることができるのでしょうか?単にそこまで歩いて行って、そうするまでです。彼らの退職金を盗んでいる人々に反対している警察官たちもまた、私たちの味方です。私たちは警察だけでなく、軍隊に対しても団結を求めていくことでしょう。

 最初に集まったあなたたちのような人々は、そう、あなたたちのことです、どうしようもなく行き詰まっている。つまり、私たちはみなどうしようもなく行き詰まっているということです。アメリカで年収が二五万ドル以下の人間はみなどうしようもなく行き詰まっているし、強制労働に送られるか、無給で働くしかない。

 そして、そここそがこれから向かう先なのです。それを止めることはできません。あなたたちがしなければならないことが何であるにせよ、また、それが困難に見えようとも、私たちにはそれがわかっています。それが容易なら、やる価値はないのです。私にはあなたたちの声が聞こえているし、あなたたちには私の声が聞こえている。そして、私はそのことを知っているということを、知っておいてほしいのです。それほど間もないうちに、人々は五〇〇人ほどになるでしょう。二者択一などないでしょう。なぜなら、そここそが向かっている先だからです。

 他に選択肢はないのです。より多くの人々が権利を剥奪された状態にあります。私たちは既に、途方もない数によって勝利を収めています。私たちは、警察や軍隊にいる人々に参加を呼びかけています。なぜなら私たちは同じ敵に抗する同じ側の人間だからです。同じ状況に立たされた同じ人々なのです。そのことをよく考えてみましょう。

 何か他に付け加えることはありますか?



訳者コメント:
 女優でコメディアンのロザンヌ・バーが、「ウォール街を占拠せよ」で、昨年9月19日(つまり占拠開始の二日後)に行ったスピーチ。ロザンヌ・バーはエイミー賞とゴールデングローブ賞両賞の受賞者。

 原文として提示した動画と書き起こしを参照したが、書き起こしはやや不正確であり、彼女の語彙は口語的でくだけたものだ。そのためもあって(あるいはそれにかこつけて)、意訳した部分が多い。なお、動画には一箇所だが乱れる部分がある。読者からの誤訳等の指摘を歓迎したい。

 それにしても、この継続中の運動は可能性に充ちている。

by BeneVerba | 2012-07-17 04:49 | 翻訳 | Trackback | Comments(1)
公式声明:私たちはウォール街を占拠する
First Communiqué: We Occupy Wall Street
2011年09月18日 - ウォール街を占拠せよ
原文:http://occupywallst.org/article/first-communique-we-occupy-wall-street/


 これは九九%からの最初の公式声明である。私たちはウォール街を占拠中である。

 二〇一一年九月一七日、およそ二〇〇〇人の私たちが金融街にデモをかけた。正午には私たちの先鋭がウォール街の先端へと向かい、ニューヨーク市警に逮捕するように促して、自発的な封鎖を行った。ストップ・ショッピング教会のビリー牧師と女優のロザンヌ・バーを含む話し手たちが、国立アメリカン・インディアン博物館の階段から群衆に話しかけた。その中には、コンシャスなラッパー、ルーペ・フィアスコやイモータル・テクニークもいた。

 大量に配備された警察をくぐり抜けながら、千名以上の私たちが、ボウリング・グリーン公園を出発し、「ウォール街は私たちの街だ!」「銀行ではなく民衆に力を!」などとシュプレヒコールを上げて、金融街を横切ってデモ行進して行った。多くの者がリバティ広場のところに残り、その後夜になると食事と水が振る舞われた。歌、踊り、操り人形などの芸術活動が、広場中に歓喜の声をもたらした。

 二〇〇〇人ほどの私たちは、コンセンサスによる意志決定プロセスに基盤をおく集会、ジェネラル・アセンブリーを開いた。一団は、ウォール街の回廊に囲まれたリバティ広場を、夜を徹して占拠することを決定し、寝袋の中や寄付された毛布に入り込んで眠った。東部時間の午前七時、日曜日の朝、絶え間のない警察の配備の中、私たちは依然として広場を保持している。次のアセンブリーが本日午前一〇時に予定されている。

 私たちは一つの声として語る。ウォール街へのデモ行進からリバティ広場での野営まで、私たちの全ての決定は、集団による、集団のためのコンセンサスを基板としたプロセスによるものである。



訳者コメント:
 昨年に発表された「ウォール街を占拠せよ」の最初の公式声明文。OccupyWallSt.orgにアップロードされた日付は9月19日になっているが、内容と曜日から判断して、占拠開始の翌日である18日日曜日に発表されたものではないか。原文中で「One Liberty Plaza」とある箇所は、通常ではマンハッタンにある高層ビルディングを指す固有名詞だが、文脈から判断して「リバティ広場」のことだと判断した。

[同日の変更点]
 いくつかの語句の変更。題名を「公式声明:私たちはウォール街を占拠する」に変更(以前は「公式声明文」としていた)。@mitra_mauryaさんの指摘を受けて、誤変換を修正。あらためて、どうもありがとうございました。

by BeneVerba | 2012-07-16 17:04 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
自律性についての宣言
Statement of Autonomy
2012年03月03日 - ウォール街を占拠せよ
原文:http://www.nycga.net/resources/statement-of-autonomy/

*この文書は、二〇一一年一一月一〇日に、「ウォール街を占拠せよ」ジェネラル・アセンブリーを通過した。また、改訂版が、二〇二二年三月三日に、「ウォール街を占拠せよ」ジェネラル・アセンブリーを通過した。


 「ウォール街を占拠せよ」は、人民の運動である。この運動は、党もない、指導者もいない、人民による、人民のための運動である。この運動は金儲けでもなく、政党でもなく、広告キャンペーンでもなければ、ブランドでもない。これは売り物ではないのだ。

 私たちは、誠意があり、非暴力によって不当な扱いを糺すことを願うあらゆる人々を歓迎する。私たちは、諸個人が参加型民主主義に携わり、平和的に集うためのフォーラムを提供する。私たちは、異議を歓迎する。

 ジェネラル・アセンブリー及び www.nycga.net でオンライン上に公表されたあらゆる声明及び宣言は、「ウォール街を占拠せよ」とは無関係だとみなされるべきである。

 私たちは、「ウォール街を占拠せよ」が、あらゆる既存の政党、候補者、組織と連携しておらず、したこともないことを明らかにしておきたい。私たちが連携しているのは、人民とのそれのみである。

 この運動を作るために共に働いている人々は、この運動だけに属する共同の管理人である。もしあなたが、この運動を築くために資源――とりわけ、あなたの時間と労力――を、捧げることを選ぶのなら、それはあなたのものである。

 私たちを、そうすることがあなた方自身の仕事の階層の制度的枠組みを問うことになり、私たちの原則をあなた方の行動様式に統合することになる知識で支えるあらゆる組織を歓迎する。

 私たちと語ろうではないか。私たちに言葉をかけるのではなく。

 「ウォール街を占拠せよ」は、集団的な資源、尊厳、統合、そして自律を金銭よりも高く評価する。私たちは、保証を受けていない。全ての寄付は匿名で受け付けられたものであり、ジェネラル・アセンブリーまたは運営的スポークス・カウンシルによって、コンセンサスを通して、透明に分配される。

 私たちは、私たちの世界をより良いものにするために働く、職業的活動家の存在を認める。もしあなたが、私たちのプロセスに参加している間に、代表者であるか、独立した財源によって報酬を得ているのなら、あなたの関係をまず始めに明らかにしてほしい。この運動を利用してお金儲けをしようとしているか、メッセージやシンボルを着服することによって運動を損なおうとしている人々は、「ウォール街を占拠せよ」の一部ではない。

 連帯を込めて。私たちは「ウォール街を占拠せよ」である。

by BeneVerba | 2012-06-15 02:05 | 翻訳 | Trackback | Comments(3)
占拠運動が次になすべきことは?
Noam Chomsky: What next for Occupy?
Noam Chomsky interviewed by Mikal Kamil and Ian Escuela
2012年04月30日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://chomsky.info/interviews/20120530.htm


Q:チョムスキー教授、占拠運動は第二段階を迎えています。私たちの三つの主な目標は、1) 主流派を占拠して、テントから大衆の意識へと移行すること、2) 九九%の集会の自由と言論の自由を守り、暴力的な攻撃を避けて、運動を弾圧から守ること、そして、3) 企業の法人格を終わらせることです。これら三つの目標は、重なりつつ相互に関係しています。

 私たちがお訊きしたいのは、主流派による情報選別、人権に対する弾圧、カネと企業の役割に対するあなたの意見です。なぜなら、それらは占拠運動とアメリカの未来に関連しているからです。


A:占拠運動に関する報道は、混乱しています。当初それは拒否的で、まるでお遊びをしている馬鹿な子どもたちであるかのように、参加者たちを笑いものにするものでした。しかし、その後報道姿勢は変化しました。実際に、占拠運動のもっとも顕著でめざましい成功の一つは、多くの問題に関して議論の全体的枠組みを全く変えたことです。知られているはずなのに、余白に追いやられ、隠されていた事柄が、今では前面へと出てきました。実際に人口の一%という少数に、富が集中したことを原因とする、九九%と一%のイメージ、過去三〇年間で格差が劇的に拡大した事実などです。

 多数派にとって、実質収入は相当に停滞したものであるか、時には減少しています。給付金もまた減少しており、労働時間は長くなっています。第三世界的な窮状ではありませんが、豊かな社会、世界でもっとも豊かな国家に、ふさわしい状態でもありません。実際、人々が見て取れるように、多くの富がそこら中にあるのですが、ただ私たちのポケットにはないのです。

 これらの問題の全てが、今では前面化しています。今では、ほとんど標準的な議論の枠組みとなったと言っても、過言ではありません。占拠運動の用語法さえ、受け入れられています。これは大きな移行です。

 この月の初め頃、ピュー基金が、人々が、アメリカの生活において、何がもっとも大きな緊張と衝突の源だと考えているかを調査する、例年行われている世論調査の一つを発表しました。これまでで初めて、収入格差に対する関心がトップに躍り出ました。この調査は収入格差そのものを測定するものではなく、この問題に関する一般大衆の認知、受容、理解の程度が上昇したことを示すものです。これは占拠運動の貢献によるものです。現代生活における著しく重要な事実を議題に乗せて、個人的な経験からはこの事実を知らないかもしれない人々が、自分たちが一人ではなく、みんながそうだということを示したのです。実際に、アメリカはこの問題に関心を寄せる傾向にあります。史上前例がないほどに、格差が拡大しています。この報告の言葉によればこうです。「『ウォール街を占拠せよ』運動は、もはやウォール街を占拠していない。しかし、階級対立の問題が、全国的な意識のますます大きな割合を占めるようになっている。二〇四八人の成人を対象とした、ピュー調査センターの新しい調査によると、一般大衆の三分の二(六六%)が、富裕層と貧困層に、「非常に強い」もしくは「強い」対立があると考えている。これは二〇〇九年に比べて一九%の増加である」。

 一方で、占拠運動自体に関する報道は、多様なものです。いくつかのメディアにおいて――例えば経済誌の一部で――は、時々それなりに同調的な報道がなされています。もちろん、一般的な図式としては、「やつらはなんで家に帰って、私たちが仕事に取りかかれるようにしないんだ?」「政治的プログラムはどこだ?」「どうやって彼らは、どういう風に物事を変えるかという主流派の枠組みに合わせるのか?」などといったものですが。

 それから弾圧がやって来ましたが、これはもちろん不可避なものでした。これが全国的に協調した動きであることは明白です。それらのいくつかは暴力的で、その他はそれ程でもありませんでしたが、対立は続いています。いくつかの占拠地は、事実上排除されました。別の場所では、異なる形態で巻き返しています。それらのいくつかは報道されました。ペッパー・スプレーの使用などです。ですが、ほとんどは、またもや、ただの「なんでやつらは立ち去って、私たちを放っておかないんだ」といったものです。それは予想通りです。

 それらにどう対応するかという問題、それへの主要な取り組みは、あなた方が指摘した点の一つです。すなわち、比喩的な意味で、占拠の全面化へと至ることです。人口のより幅広い層を参入させることです。占拠運動の目的と目標に対して、大きな共感があります。それらは実際世論調査にもはっきりと現れています。しかし、人々を参加させるには、大きな努力が必要です。それには人々の生活の一部となることです。人々が自分にも何かができると思える何かになることです。ですから、人々が実際に生活している場へと出かけていくことが必要です。それはメッセージを送るという意味ではなく、もし可能ならば、そして難しいことでしょうが、この運動が真に達成したものの一つであるにもかかわらず、メディアでは充分に議論されていない――少なくとも、私は見たことがありません――ものを、広めるとともに、深化させようとすることです。それは、この運動の主要な達成の一つである、共同体を作ろうとする試みのことです。相互扶助、民主的な交流、お互いへの配慮などに基づいた、実際に機能する共同体です。これは非常に意義のあることです。特に私たちの社会のような、人々が孤立しがちで、近隣社会が壊れ、共同体が壊れ、人々が孤独に陥っている社会ではそうです。

 それを植え付けるためには、多大な努力を必要とするあるイデオロギーがあります。あまりにも非人間的であるために、人々の意識に注入するのが困難なイデオロギーです。それは、自分のことだけを気にかけて、他のあらゆる人々のことは忘れてしまえというイデオロギーです。その極端な例は、アイン・ランドです。実際のところ、文字通り一五〇年間に渡って、こうした思考法を人々に強制するための努力が行われてきたのです。

 一九世紀中葉、産業革命の初期に、東部マサチューセッツで、労働者の運営による非常に活動的な新聞が出現しました。工場で働く若い女性や、製作所の熟練工などによってです。彼ら自身が所有する新聞は、非常に興味深いもので、広く読まれるとともに、大きな支持がありました。そして、彼らは、産業システムが彼らから自由を取り上げ、硬直した階層的な構造を課していることを、辛辣に非難しました。彼らの主な苦情の一つは、彼らが「時代の新しい精神:利益以外の全てを忘れて、富を追求すること」と呼ぶものでした。一五〇年間にわたり、この「時代の新しい精神」を人々に強制するための尽力がなされてきたのです。しかし、それがあまりにも非人間的であるために、多くの反乱が起きました。そして、それは今も継続中なのです。

 私が思うに、占拠運動が真に達成したものの一つは、非常に目立つやり方で、この「時代の新しい精神」への拒否を発現させたことです。占拠運動に参加している人々は、自分たちのために参加しているのではありません。お互いのために、より幅広い社会のために、未来の世代のために参加しているのです。結束とつながりが形成されつつあり、もし、それらを維持することができ、より広い共同体に発展させることができるなら、時に暴力的な形を取るであろう不可避の弾圧に対して、真の防衛となることでしょう。


Q:それらに携わるには、占拠運動はどうするのが最善だと、どのような手法を採用すべきだとお考えですか?また、運動の拠点を分散化するために、実際の場所を持つことに、慎重であるべきだと思いますか?


A:公共の場所でもそうでなくとも、実際の場所を持つことは、確かに意味のあることです。それらがどの程度そうであるべきなのかは、状況の詳細な検討、支持の度合い、反対の度合いに基づいてなされるべき一種の戦術的な判断です。異なる場所で異なる判断が必要でしょう。私には、一般的な言明はわかりません。

 方法に関して言えば、この国の人々は問題と懸念を抱えており、それらの問題と懸念が、彼らを支持し、彼らから支持される人々による、より広い運動の一部だと感じるようになれば、そう、それは軌道に乗るでしょう。それをするのに、唯一の方法があるわけではありません。一つの答えはないのです。

 おそらくは近所を訪ねて、人々の懸念が何であるかを、知らなければならないでしょう。それは、子どもたちが学校へ行く途中で渡る交差点に、信号機が欲しいといった単純な問題かもしれませんし、差し押さえで人々が家から放り出されるのを、防ぎたいといったことかもしれません。

 もしくは、共同体を基盤とする企業を発展させることかもしれません。それは全く考えられないことではありません。どこか遠くの多国籍企業と銀行家からなる取締役会が、生産拠点をどこかに移すのを防ぐことのできる、労働者と地域社会が所有し管理する企業です。それらはいつでも起きている本物の、生きた問題です。そして、可能なことなのです。実際、散発的なやり方でそうしたことは起きています。

 警察の暴力や市政の腐敗といった、その他の全てに対処することも可能です。メディアを共同体に根ざしたものに再構築することも、全く可能です。人々が、共同体、エスニック、労働者などの集団に基盤を置いたメディアを持つことは可能なことです。それらの全てはなすことができます。そうしたことは、人々の労働を必要とし、人々を結びつけることができます。

 実際に、私は様々な場所で、その後追求されるべきモデルとなれる、そうした事例がなされるのを目撃しました。一つ例を挙げましょう。私は、数年前にブラジルに行き、ルラ元大統領と時間を過ごす機会がありました。といっても、当時は、彼が大統領に選ばれる以前のことです。彼は、労働問題の活動家でした。私たちは、あちこちを訪ねました。ある日、彼は私をリオの郊外へと連れ出しました。ブラジルの郊外は、もっとも貧しい人々が住む地域です。

 そこは亜熱帯気候で、その晩ルラは、多くの人たちが広場に集まっているところに、私を案内しました。午後九時頃、ゴールデン・アワーの時間です、メディアの専門家からなる少数の集団が、街からやって来て、広場の中央にトラックを設営しました。そのトラックは上にTV画面が載せてあり、その地域の人々によって演じられる寸劇や芝居を、それが映し出しました。そのうちのいくつかはただ楽しみのためのものでしたが、その他のものは、負債やエイズといった深刻な問題を取り扱っていました。広場に人々が集まるにつれ、役者たちがマイクを持って歩き回り、人々に映し出された劇へのコメントを求めました。それらは録画され、他の人々が見られるように、画面に映し出されました。

 近くの小さなバーに座っていた人々や、通りを歩いていた人々が反応し始め、それらの人々の間で、すぐに極めて深刻な問題、彼らの生活の一部である問題に関する、興味深い交流と議論が起こりました。

 もしそうしたことが貧しいブラジルのスラムで可能ならば、間違いなくその他の多くの場所でも可能です。私は、まさにそれをやるべきだと言っているのではありませんが、そうしたことが幅広い層を参入させ、人々に対して、ふさわしい需要が何であれ、共同体の形成と深刻なプログラムの発展に加わっているのだと、感じる理由を与えるために可能なことなのです。

 非常に簡単な事柄から、労働者と共同体が運営する企業による新しい社会的経済的システムを始めることまで、あらゆることが可能です。より積極的な大衆からの支持があれば、弾圧と暴力に対してより望ましい防衛が可能になります。


Q:占拠運動を利用することに関して、民主党の目標をどのように評価なさいますか?また、私たちが、用心し、気を付けなければならないことはなんでしょうか?


A:共和党について言えば、何年も前に、政党のふりをすることさえ放棄しています。彼らが打ち込んでいるのは、画一的かつ相当な熱意で、ごく少数の権力と利益に奉仕することであり、もはや政党であるとはほとんど言えません。彼らには、まるで古い時代の共産党のカリカチュアのような、想定問答集があります。彼らは、有権者から一票を獲得するために何かをしなければならないのですが、もちろんそれを――このイメージを用いるならば――一%から得ることはできません。なので、彼らは、いつでも存在しているが、政治的にはまとまっていない人口の各層を結集しようとします。キリスト教の宗教的熱狂主義、権利と国家が奪われているとする排外主義などを利用してです。

 民主党は、少しだけ共和党と異なっており、異なる有権者を抱えていますが、彼らも共和党と全く同じ道をたどっています。実質的に党を運営している今日の民主党中道派は、全く一世代前の共和党穏健派であり、彼らが今現在ある種の民主党主流派なのです。彼らは、自分たちの利益に基づいて、有権者をまとめ上げ、結集しようと――この表現がお望みなら、利用しようと――するでしょう。彼らは、全く白人労働者階級を見捨ててしまいました。それははっきりと見て取れます。なので、それらの人々は、かろうじて民主党の抱える選挙民の一部であるだけです。これは悲しい発展です。民主党は、ヒスパニック、黒人、進歩派を結集しようとするでしょうし、占拠運動にも手を伸ばすでしょう。

 組織化された労働者たちは、依然として民主党の選挙民であり、他の全ての集団と全く同様に、民主党は彼らを利用しようとするでしょう。政治的リーダーシップは、人々の頭を撫でてこう言うのです。「私は、あなた方のために働く。だから、私のために投票してほしい」と。占拠運動の参加者たちが理解しなければならないのは、彼らはあなた方のために何かするかもしれませんが、それは選ばれたリーダーシップに対して、何かをするように実質的な圧力を維持できた場合に限るということです。しかし、ごくまれな例外を除けば、彼らが独力でそれをすることはありません。

 カネと政治に関する限り、偉大なる金融家マーク・ハンナの言葉を打ち負かすのは困難です。約一世紀前、彼は政治において何が重要かを訪ねられ、こう答えたのです。「一番はカネだ。二番目もカネだ。三番目が何かは忘れた」。

 それは一世紀前のことですが、現在ではさらに極端になっています。集中化した富は、当然にも、その富と権力を、可能な限り政治システムを乗っ取り、運営し、望み通りのことをやらせるのに使うでしょう。一般大衆は、それに抗う方法を見つけなければなりません。

 数世紀前に、デイヴィッド・ヒュームのような政治理論家たちは、政府の基礎付けの一つとして、権力は統治する者ではなく、統治される者の手にあることを正確に指摘しました。これはまさしく封建社会、軍事国家、議会制民主主義にとって真実でした。権力は、統治される者の手にあるのです。支配者がそれに打ち勝つには、世論と意見をコントロールすることによってのみ可能です。

 一八世紀中葉において、ヒュームは正しかった。そして、彼の言ったことは、現在でも真実であり続けています。権力は、全民衆の手にあるのです。現在では、より少ない人々が、それをコントロールしようとする多大な努力があります。なぜなら、多くの権利が勝ち取られて来たからです。現在の方法は、プロパガンダであり、消費主義であり、エスニックな憎悪をかき立てることであり、あらゆる方法が採用されています。もちろん、それは今後も続くでしょうし、私たちはそれに抵抗する術を見つけるべきです。

 その人物があなたの望むことをやる限り、特定の立候補者に仮初めの支持を与えることは、何も間違ったことではありません。しかし、もし多大な努力なしに彼らをリコールできれば、より民主的な社会となるでしょう。他にも立候補者に圧力をかける方法はあるでしょう。そうしたことをやるのと、利用されること、誰か他の人物の利益に仕えるために結集されることの間には、細い一線があります。しかし、それらはなされるべき不断の判断と選択によるのです。



訳者コメント:
 例外はあるだろうが、論理的な人の文章ほど、読みやすく訳しやすいと思っている。実際、英文記事より、(それほど読むわけではないが)学者の書いた本の方がわかり易かったりする。その点チョムスキーの文章は、その多くが彼のスピーチに基づいているせいもあるだろうが、把握し易い。

 このインタビューは、今年4月末日に発表されたもので、彼の著書『オキュパイ』にも収録されており、そこからの抜粋であるとのこと。興味深く読んだのは、後半三分の一ほどで、共和党も民主党も政党としての(つまり有権者を代表するという)役割を放棄したと語る部分だ。

 たまたま、チョムスキーの『現代世界で起こったこと』を再読する機会があったが、そこで彼がレーガン元大統領について述べているのは、いかにアメリカ大統領が、実際の権力者たち(資本あるいは企業と言ってもいい)の傀儡と化したかということだった。彼によれば、こうした事態はアメリカ史上初めてのことではないかと言う。

 もちろんこれは、その後登場したブッシュ・ジュニアについて、はるかに良く当てはまる。現在の日本では、こうした例は、橋下大阪市長や野田首相に見られる。それ程注意深い観察者でなくとも、彼らに政治的信念がなく、実際の権力のエージェントとして機能していることが、見て取れるだろう。新自由主義とは、おそらく政治的には民主主義の限りなき空洞化である。

by BeneVerba | 2012-06-07 20:41 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――不可避の未来に希望を広げるために


 気候保護派の一部は、融和戦略に対して激しく押し返している。ティム・デクリストファー――石油とガスの賃貸のオークションを妨害したためにユタ州で二年の投獄の判決を受けた――は、五月に、気候保護活動は経済を転覆させるとする右派の主張に対してこう述べた。「私たちはその非難を甘んじて受けなければならないと思う」と、彼はインタビュアーに語った。「私たちは経済を破壊しようとしているわけではない。だが、そう、私たちはそれを逆さまにひっくり返すことを望んでいる。私たちは、何を変えたいのかという、自分たちのヴィジョンを隠そうとすべきではない――私たちが創造したいと願っている世界は健康なものだ。私たちは小さな移行を求めない。私たちが望むのは、経済と社会のラディカルな見直しだ」。さらに彼はこう付け加えた。「私たちがいったんこのことを語り始めれば、予想よりも多くの仲間たちを見つけることができると思う」。

 デクリストファーが、気候保護活動が深い経済的な変容と結びつくという、このヴィジョンをはっきりと表明した時、それは確かにほとんどの人にとって、白昼夢のように聞こえた。しかし、その五ヶ月後、「ウォール街を占拠せよ」の人々が数百の都市で広場や公園を占拠すると、それは予言的に聞こえるようになった。アメリカ人の大部分は、実際的なものから精神的なものまで多くの面において、この種の変容をずっと求めていたのだ。

 この運動の初期の文書では、気候変動は後知恵のような扱いこそ受けているが、環境保護意識は、当初からOWSに織り込まれていた。ズコッティ公園での台所の排水を植物の灌漑に用いる洗練された「排水(gray water)」濾過システムから、オキュパイ・ポートランドの寄せ集めの共同体庭園まで。オキュパイ・ボストンのラップトップ・コンピューターと携帯電話は、自転車発電機で電力を供給され、オキュパイDCは太陽光パネルを設置した。また、OWSの究極の象徴である人間マイクロフォンは、まさしく脱二酸化炭素の解決策に他ならない。

 そしてまた、新しい政治的つながりが形成されつつある。石炭産業に出資しているバンク・オブ・アメリカを標的とする「熱帯雨林行動ネットワーク(Rainforest Action Network)」は、差し押さえに関して銀行に狙いを定めているOWSの活動家たちと、共通の大義を生み出した。反水圧破砕法の活動家たちは、ガスが流れるようにするために、地球の岩盤を破壊しているのと同じ経済的モデルが、利益が流れるようにするために、社会的な岩盤を破壊していると指摘した。そして、キーストーンXLに反対する歴史的な運動は、この秋に、気候保護活動を、ロビイストの事務所から決定的に引きずり出し、街頭へと(また監房へと)連れ出した。反キーストーンの運動家たちは、汚染度の高いタールサンド石油を、この国でももっとも脆弱な土地を越えて運んでいるパイプラインには「限定的な環境的逆行インパクト」があると、国務省に結論させた腐敗したプロセスを、企業による民主主義の乗っ取りに関心がある全ての人は、これ以上見つめる必要はないと述べた。350.org のフィル・アロノーが言ったように、「もしウォール街がオバマ大統領の国務省と国会議事堂を占拠しているのなら、今度は民衆がウォール街を占拠する頃合いだ」。

 だが、これらのつながりは、企業権力の共有された批評を超えている。占拠者たちが、私たちのまわりの全てを破壊するそれを取り除いて、どのような種類の経済を築くべきかを自らに問うとき、多くの者たちは、この一〇年間で根づいてきたグリーン経済オルタナティブのネットワークから、インスピレーションを受けることだろう。その共同体管理による再生可能エネルギー・プロジェクト、共同体支持による農業と農民市場、実体経済を生き返らせた経済的地域化政策、そして協同組合部門の中に。既にOWSのあるグループが、この運動初のグリーン労働者の協同組合(印刷機)を発足させようと計画している。地域の食料活動家たちは、「食料システムを占拠せよ!」という呼びかけを行った。そして一一月二〇日には、共同体の建物のためにクラウドソースを用いてソーラーパネルを買う試み「屋上を占拠せよ」が始まった。

 これらの経済モデルの利点は、排出を削減しつつ、雇用を創出し、共同体を生き返らせるだけでない。それらはまた、そうすることで体系的に権力を分散させるのだ。これは一%による、一%のための経済へのアンチテーゼである。南ブロンクスのグリーン労働者協同組合の創設者の一人、オマル・フレリア(Omar Freilla)は、広場や公園で数千の人々が参加している直接民主主義の経験は、多くの人にとって、「自分が持っていたとは知らなかった筋肉を使うようなものだ」と語る。そして、彼が言うには、人々はさらに民主主義を求めている。集会においてだけでなく、共同体の計画や職場においても。

 別の言葉で言えば、文化は急速に移行しつつある。そして、これがOWS運動を真に特異なものにしている理由である。「貪欲がはびこっている」とか「あなたを気にかけている」といったプラカードを掲げた占拠者たちは、初めから、彼らの抗議運動を、狭い政策的な要求に閉じ込めないことに決めた。その代わりに彼らが選んだのは、経済危機を作り出した原因である蔓延する貪欲と個人主義の基礎となる価値観に狙いを定め、その一方で、お互いを取り扱い、自然界と関わり合うための根本的に異なるやり方を――非常に目立つ方法で――体現することだった。

 文化的価値観を移行させようとするこの意図的な試みは、「現実」の闘争からの逸脱ではない。私たちがその到来をもはや不可避にした困難な未来において、全ての人に平等な権利があり、深い同情の能力があるという確固とした信念は、人間性と野蛮の間に立つ唯一のものとなるだろう。気候変動は、私たちに厳格な締め切りを課すことによって、まさにこの重大な社会的生態学的変容のための、触媒としての機能を果たすことができる。

 結局のところ、文化とは流動的なものだ。文化は変わることができる。常に文化の変容は起きてきた。ハートランド会議の代表者たちもこのことを知っており、それこそ彼らが、自分たちの世界観が地球の生命にとって脅威であることを示す証拠の山を隠蔽しようと、固く決意している理由なのだ。残りの私たちに課せられているのは、同じ証拠に基づいて、全く異なる世界観が私たちの救済となることを信じることである。



訳者コメント:
 彼女のTwitterによれば、ナオミ・クラインの次回作の一部もしくはその草稿のようなものであるらしい「〈資本主義〉対〈気候変動〉(Capitalism vs. the Climate)」と題された長文論説の全訳を分割して公開。文字数制限のためコメントは割愛。目次はこちら

by BeneVerba | 2012-06-03 11:08 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――気候変動が導くヴィジョンと左派の役割


 この場所こそが、極右イデオロギーと気候変動否定論が、真に危険なものになる交差点だ。これらの「冷たいやつら」が気候科学を否定するのは、単にそれが彼らの優位を基盤とした世界観を転覆する脅威であるからではない。彼らの優位を基盤とした世界観は、発展途上国の膨大な人類を帳消しにできる知的な道具なのだ。共感を拒絶するこうした思考様式が提示する脅威を認識することは、とてつもなく緊急の問題だ。なぜなら気候変動は、少し前のように、私たちの道徳的性格を試すだろうからだ。環境保護庁の二酸化炭素排出規制を防ごうと活動する、アメリカ商工会議所は、地球温暖化の最中にも「人々は、行動的な、生理学的な、技術的な適応などによって、暖かな気候に順応することができる」と、請願書で述べた。そうした適応こそが、私がもっとも心配するものだ。

 どのように私たちは、ますます強烈かつ頻繁になる自然災害によって、ホームレスや失業者を作り出した人々に順応するのだろうか?どのように私たちは、海岸に穴の空いたボートでやって来る、気候難民を取り扱うのだろうか?私たちが、彼らが逃亡してきた危機を作り出したことを認識して、国境を開放するのだろうか?それとも、ハイテク要塞を築いて、厳しい反移民法を採用するのだろうか?どのように私たちは、希少な資源を取り扱うのか?

 私たちは答えを既に知っている。希少な資源を求める企業は、より略奪的かつ暴力的になるだろう。アフリカの耕地は、豊かな国に食料と燃料を供給するために、略取され続けるだろう。干魃と飢饉は、遺伝子操作された種子を押し付けるための口実として、使われ続け、農民たちを更なる負債へと押しやるだろう。私たちは、最後の一滴を絞り出すとてつもなく危険な技術を用いて、ピークに達した石油とガスを乗り越えようと試み、地球のさらに大きな一帯を犠牲地に変えるだろう。私たちは、国境を要塞化し、海外の資源紛争に介入するか、自らそうした紛争を始めるだろう。「自由市場による気候変動の解決」と彼らが呼ぶものは、二酸化炭素排出量取引とカーボン・オフセットとしての森林の使用に関して既に見られるように、投機、詐欺、縁故資本主義を引き寄せるだろう。そして、気候変動が貧困層だけでなく、富裕層にも悪影響を及ぶようになると、気温を下げるために、大きな未知のリスクを無視して、私たちは加速度的に、その場しのぎの技術を探し求めるだろう。

 世界が温暖化するにつれて、犠牲者は彼らの運命だったのだ、私たちは自然を克服することができる、全員に責任があると説く支配的イデオロギーが、実際に私たちを寒冷地に連れて行くだろう。それは寒くなり続け、否定運動の一部の表面下にかろうじて存在する人種的優越性の理論が、猛威を振るって復活するだろう。これらの理論は選択的なものではない。南半球やニューオーリンズのようなアフリカ系アメリカ人が人口の多くを占める都市で、大部分は非難するところのない犠牲者たちに対する、心情の硬化を正当化するために必要なのだ。

 『ショック・ドクトリン』の中で、私は、危機を生み出した原因を解決するよりも、はるかにエリートを富ませるようにデザインされた、暴力的イデオロギー的アジェンダを押し付けるために、右派がいかに体系的に危機――本物であれでっち上げであれ――を利用してきたかを探求した。環境危機が悪化し始めると、例外はないだろう。これは全く予想可能である。私たちの現体制は、共有財を私有化し、災厄から利益を得る新しい方法を求めるべく築かれたものである。このプロセスは既に進行中である。

 唯一のワイルド・カードは、何らかの相殺的な民衆運動が立ち上がり、この冷酷な未来に対する実行可能なオルタナティブを提示することだ。それは、オルタナティブな一連の政策を提案するというだけでなく、環境危機を生み出した世界観に匹敵するオルタナティブな世界観を提示するということだ。今度は、超個人主義よりも相互依存性が、優先権よりも相互利益が、階層秩序よりも協働体制が組み入れられなければならない。

 文化的価値観の移行は、間違いなく、困難な注文だ。一世紀前に諸運動が闘ったような野心的なヴィジョンが要求されるだろう。あらゆるものが単一の「問題」に砕け散り、職業意識を持ったNGOの適当な部門によって、取り組まれるようになる以前の話である。気候変動は、「気候変動の経済学についてのスターン・レビュー」の言葉を借りれば、「私たちがこれまで見た中でも最大の市場の失敗」なのだ。あらゆる面から見て、この現実は進歩派にとって確信的な追い風であり、自由貿易から、金融投機、産業的農業、そして第三世界の債務までの全てに対する長年の闘いに、新たな活気と緊迫性を吹き込むものでなければならない。その一方で、これらの闘争を優雅な織物として、地球の生命をどう守るかという、首尾一貫した物語に仕立てなければならない。

 だが、そうしたことは起こっていない。少なくとも今はまだ。ハートランドの人たちが、気候変動は左翼の陰謀だとせわしなく呼びかける一方で、ほとんどの左翼はまだ、気候科学が彼らにウィリアム・ブレイクの「闇のサタンの工場(dark Satanic Mills)」以来、資本主義に抗するもっとも強力な論議を手渡したことに気付いていないことは、苦しい皮肉である(もちろん、それらの工場は気候変動の始まりだったのだ)。デモの参加者たちが、アテネ、マドリッド、カイロ、マディソン、ニューヨークで政府と企業のエリートたちの腐敗を非難している時、気候変動は、資本主義に対するとどめの一撃であるべきにもかかわらず、しばしば脚注に毛が生えた程度の扱いしか受けていない。

 問題の半分は、進歩派――高失業率やいくつもの戦争などの問題で手一杯だとはいえ――に、巨大な環境保護グループたちが気候変動の問題を担当してくれると、思い込む傾向があることだ。残りの半分は、それらの巨大な環境保護グループの多くが、恐怖症的な正確さで、まばゆいほどに明白な気候危機の原因――グローバリゼーション、規制撤廃、永遠の成長を求める近代資本主義(経済の残りの破壊に対して責任があるのと同じ力である)――に関するあらゆる真剣な議論を避けていることだ。小規模だが立派な気候正義運動――レイシズム、不平等、環境的脆弱性のつながりを描き出そうとしている――が、揺らぐ橋を両者の間に架けようとしているものの、結果的には、資本主義の失敗と闘う者たちと気候変動と闘う者たちは、互いに孤立したままである。

 他方で右翼には、地球規模の経済的危機を利用して、環境保護運動に、経済的アーマゲドンのレシピ役を割り当てる自由がある。住宅費を上げ、石油採掘やパイプライン建設の雇用を阻止する必勝法である。経済的かつ環境的な危機から抜け出すための新しい経済的パラダイムに、競合するヴィジョンを提供する大きな意見が、実質的に存在しないため、この恐怖を利用した政策は、既に支持者を得ている。

 過去の過ちから全く学ぶことなく、環境保護運動の中の強力な党派は、気候変動で勝利するための方法は、抗議を保守的な価値観にも合うようにすることだと主張して、同じ破滅的な道をさらに遠くまで強行している。これは熱心な中道派であるブレイクスルー協会(Breakthrough Institute)から聞こえてくる意見だ。同協会は、有機農業と再生可能エネルギーの代わりに、産業的農業と原子力を受け入れるように環境保護運動に呼びかけている。こうした意見はまた、気候変動否定論者の増加を研究している研究員の何人かからも聞いた。例えば、エール大学のカーンのような人々は、「階層秩序的」で「個人主義的」だと調査結果が出た人たちは、規制へのあらゆる言及に反発する一方で、人類は自然を支配できるという彼らの信念を確かなものにする、大規模で中央集権的な技術を好む傾向がある。そこで、彼やその他の人々は、環境保護主義者たちは、国家安全保障への懸念を重視するだけでなく、原子力や地球工学(地球温暖化を中和するために、意図的に気候系に介入すること)といった反応を強調することから始めるべきだというのだ。

 この戦略の第一の問題は、これがうまくいかないということだ。何年間も、巨大な環境保護グループは、アメリカにおいては「自由市場による解決」だけが実質的に唯一の提案である中で、気候保護活動は「エネルギーの安全保障」を強化する方法だと主張してきた。その間に、否定論は急増した。このアプローチのさらに問題ある点は、否定論を動機付けている歪んだ価値観に挑戦するよりも、それを強化してしまうことだ。原子力は地球工学は、環境危機に対する解決法ではない。それらは、私たちをこの惨状に追いやったものと同じ種類の短期的で傲慢な思考を、さらに倍加したものである。

 自分たちが宇宙の支配者だと未だに考えている、パニックを起こし、誇大妄想に陥ったエリートの一員たちを安心させるのは、変容力のある社会運動の仕事ではないし、その必要もない。「冷たいやつら」の共同研究者マクライトによれば、もっとも極端で強情な気候変動否定派(その多くは保守派の白人男性)は、アメリカの人口では少数派であり、およそ一〇%である。実際、この人口統計は、権力者の地位に過剰な代表があることを示している。しかし、問題の解決法は、民衆の多数派が思想と価値観を変えることではない。解決法は、この小規模だが不釣り合いにも影響力のある少数派――そして無謀な世界観も代表している――が行使する力を著しく削ぐことである。

  * * *



訳者コメント:
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by BeneVerba | 2012-06-03 11:07 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――階級的特権と気候変動否定論の関係


 ハートランド会議――アイン・ランド協会からヘリテージ基金までの全員が、書籍とパンフレットを呼び物にしたテーブルを構えていた――では、それらの心配が表面の近くまで達していた。バストは、ハートランドの気候科学反対キャンペーンは、科学的事実が要請する政策に対する恐怖から生まれたものだという事実を明かにした。「私たちがこの問題を眺める時、これは政府の役割を大幅に増大させるためのレシピじゃないか、と言います……。私たちがこの段階を踏む前に、科学に対して別の見方をしてみましょう。そこで、保守派とリベラル派の集団は、私が思うに、立ち止まってこう言ったのです。信念の問題として、単にこれを受け入れないことにしようと。私たち自身で本物の調査を始めようじゃないかと」。これは彼らを理解するための重要な点だ。否定論者を駆り立てているのは、気候変動の科学的事実への反対というよりも、それらの事実が現実世界で意味する政策への反対なのだ。

 バストが述べた――例え不注意であっても――のは、気候変動の原因に関する劇的な移行を説明しようと、増え続ける社会科学者たちの集団から、最近大きな注目を集めている現象のことだ。エール文化認知プロジェクト(Yale’s Cultural Cognition Project)の研究員たちは、政治的/文化的な世界観が、「個人の地球温暖化についての信念を、他の全ての個人的性格よりも強力に」説明することを発見した。

 「平等主義的」で「コミュニタリアン」的な世界観(集団行動や社会的正義への傾向、不平等への関心、企業の権力への疑念によって特徴付けられる)を強く持つ人々は、気候変動についての科学的コンセンサスを圧倒的に受け入れている。それに対して、「階層秩序的」で「個人主義的」な世界観(貧困層やマイノリティへの政府の援助に対して反対、産業界を強く支持、自分にふさわしいものは自分で手に入れるとする信念を強く支持)を強く持つ人は、科学的コンセンサスを圧倒的に拒絶していた。

 たとえば、もっとも強く「階層秩序的」世界観を示すアメリカの人口層では、たったの一一%のみが、気候変動を「高リスク」と評価するに過ぎない。もっとも強く「平等主義的」世界観を示す人々の層の六九%と比べるといい。この研究の指導者エール大学の法学教授ダン・カレンは、この「世界観」と気候科学の受容の間の緊密な相関関係を、「文化的認知」に結びつけている。これは、自らの抱く「良い社会の選好的ヴィジョン」を守るための方法に従って、私たちの全て――政治的傾向にかかわりなく――が、新しい情報をフィルターにかけるプロセスのことを意味する。カーンが『ネイチャー』誌で論じているように、「高貴だとみなされる振る舞いが、そうであるにもかかわらず社会にとって有害であり、卑しいとみなされる振る舞いが社会にとって有益だとわかると、人々は当惑する。なぜなら、そうした主張を受容すれば、自分の仲間との間にくさびが入るかもしれないからだ。人々はそれを拒絶する強力な感情的傾向を持っている」。言葉を換えるなら、自分の世界観が崩壊するのを見つめるよりも、現実を否定する方がいつでも簡単だということだ。頑迷なスターリン主義者が粛正の絶頂にあった時に真実だったように、今日ではリバタリアンの気候変動否定論者がそうだということである。

 強力なイデオロギーは、現実世界の動かしがたい証拠によって脅かされても、完全に死ぬことはまれである。それどころか、カルト的で周縁的なものへと変容する。わずかな本物の信奉者たちは、いつもお互い同士の間で、問題はイデオロギーにあるのではなく、充分に厳格な規則を適用できない指導者たちの弱さにあると語る。これらのタイプ人物像は、スターリン主義左派に見て取れるが、ネオナチ右派についても同様に存在している。歴史のこの時点において、自由市場原理主義者たちは、『選択の自由』と『肩をすくめるアトラス』を密かに愛でるために残して置き、似たような周縁的地位へと追放されるべきである。彼らがこの運命から逃れている唯一の理由は、単に彼らの最小政府というアイディア――いくら現実と矛盾していることが明らかであっても――が、チャールズとデビィッド・コークや、エクソンモビルなどのシンクタンクに面倒を見て貰っている、世界中の百万長者たちにとって、大変に有益であり続けているからである。

 これは「文化的認知」のような理論の限界を指し示している。否定論者は、彼らの文化的世界観を守るためによくやっている。彼らは、気候変動に関する議論を混乱させて、利益を得るために、強力な利害関係を守ろうとしている。否定論者と利害関係者の絆は、よく知られており、はっきりと記録されている。ハートランド協会は、コーク兄弟とリチャード・メルソン・スカイフに連なる財団とともに、エクソンモビルから一〇〇万ドル以上のお金を受け取っている(他にもいるかもしれないが、このシンクタンクはそうした情報が「私たちの立場の利点」を逸らすと主張して、寄付者の名前の公表を止めてしまった)。

 そして、ハートランドの気候会議に出席する科学者たちは、ほとんど全員が化石燃料のドル箱に足を突っ込んでおり、ほとんどその臭いを嗅ぐこともできるほどだ。二つの例を引用すると、会議で基調講演を行ったカトー協会のパトリック・マイケルは、かつてCNNに対して、彼のコンサルタント会社の収入の四〇%は、石油会社からのものだと述べたことがある。そして、残りのどれだけが石炭会社からのものだと誰が知っているだろう。会議でのもう一人の講演者、天体物理学者のウィリー・スーンに対するグリーンピースのある調査は、二〇〇二年以来の新調査の補助金が化石燃料関係からだと明らかにした。また、気候科学を損なおうとする強い動機を持つ経済的利害関係者は、化石燃料会社だけではない。もし、この危機を解決するために、私が概要を述べたような、種々の根本的な経済秩序の変革が必要なら、規制緩和、自由貿易、低い税率から利益を得ている全ての大企業はそれを恐れる充分な理由がある。

 これらの論点からすると、気候変動否定派が、全体的に見て、私たちのひどく不平等で機能不全の経済的現状に、もっとも投資している人々だというのは、少しばかりの驚きかもしれない。気候変動の受容に関する研究でもっとも興味深い発見の一つは、気候変動の科学の拒絶と社会的経済的特権の間に明らかなつながりがあることだ。圧倒的にも、気候変動否定派は保守派であるだけでなく、白人男性――平均よりも高収入の集団――なのだ。そして彼らは、どれほど明白な間違いであれ、他の成人集団よりも自分たちの見方について自信を持っている。かなり話題になったアーロン・マクライトとライリー・ダンロップによる(忘れがたくも「冷たいやつら(Cool Dudes)」という題名の)この問題に関する論文は、自信に満ちた保守的な白人男性は、集団として、残りの調査対象の成人に比べておよそ六倍ほど、気候変動が「決して起きないだろう」信じる傾向があることを発見した。マクライトとダンロップは、この違いについて簡単な説明を提示している。「保守的な白人男性は、偏ったことに、私たちの経済システムの中で権力を持つ地位を占めている。気候変動が産業資本主義経済体制に提示する広範な挑戦によって、保守的な白人男性の持つシステムを強く正当化する態度が、気候変動を否定する要因となるのは、驚くべきことではない。

 しかし、否定論者の相対的な経済的社会的特権は、新しい経済秩序によって、より多くのものを失う理由を与えるだけではない。何よりもそれは、彼らに気候変動のリスクについて、楽観的な態度を取る理由を与えるものでもある。これは、ハートランド会議で講演者のまた一人が、気候変動の犠牲者への共感の完全なる欠如と呼ぶしかないものを示すのに、耳を傾けていた時に私が体験したことだ。自己紹介に「宇宙建築家(space architect)と記すラリー・ベルが、群衆に少しの温暖化はそう悪くないといって多くの笑いを誘った。「私はわざわざヒューストンに引っ越したんだ!」(当時ヒューストンは、アメリカ史上最悪の一年間の干魃と後に判明するものの真っ最中だった)。オーストラリアの地質学者ボブ・カーターは、「私たち人類の見地からすれば、温暖化時代において、世界は実際良くやっている」と提示した。そして、パトリック・マイケルは、気候変動を心配する人々は、一万四〇〇〇人の市民が死んだ二〇〇三年の壊滅的な熱波の後に、フランス人たちがやったことを見習うべきだと発言した。「彼らは、ウォルマートとエアコンを発見したんだ」。

 これらの冗談に耳を傾けている間にも、「アフリカの角」〔アフリカ最東北端の地域〕で、一千三〇〇万人と見積もられる人々が乾いた大地の上で飢餓に直面していることは、深く心をかき乱す事実である。彼らの無関心を可能にしているのは、もし否定論者が気候変動について間違っていたとしても、数度の温暖化は先進国の豊かな人々が心配するほどのものではないという固い信念だ(「雨が降れば、避難所を見つける。暑くなれば、日陰を見つける」と、エネルギーと環境小委員会の聴聞会で、テキサスの議員ジョー・バートンは述べた)。

 その他のあらゆる人々はと言えば、つまり、彼らは施しを求めるのを止め、貧乏から抜け出すのに忙しくすべきだった。気候温暖化に彼らが適応するための費用を支払って、貧困国を助ける責任が富裕国にはあるか、とマイケルに尋ねた時、彼は、それらの国々にお金を与える理由は何もない、「なぜなら、いくつかの理由で、彼らの政治体制には、温暖化に適応する能力がないからだ」と、嘲笑した。本物の解決策は、彼の主張によれば、もっと自由貿易をすることだった。

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by BeneVerba | 2012-06-03 11:06 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――気候変動への対応策と資本主義


 さて、要約しよう。気候変動に対応するには、私たちは自由市場のルールブックに記載されているあらゆる規則を破る必要があり、それも緊急にそうする必要がある。私たちは公共圏を再建し、私有化を逆転させ、経済の大部分を再地域化し、過剰な消費を縮小し、長期的な計画を復活させ、企業を厳しく規制して高い税率を課し(そのうちのいくつかはおそらく国有化し)、軍事費を削減し、南半球に対する私たちの債務を認識する必要がある。もちろん、企業が政治プロセスに与えている影響力を減らそうとする、大規模かつ広範な努力なしには、これらの一つにさえ全く望みはない。つまり最低でも、公的資金を受けた選挙を実施し、企業から法の下にある「人〔法人〕」としての地位を剥奪することだ。手短に言うなら、気候変動とは、実質的に本に書かれた全ての進歩的な要求を、以前から存在した事例に詰め込んだものであり、明白な科学的要請に基づいて、それらを合わせて一貫した議題に仕立て上げたものである。

 さらに気候変動は、ケインズがヴェルサイユ条約からドイツの反動を予言して以来最大の、政治的な「だから言っただろ」を含んでいる。マルクスは資本主義の「生命それ自体の自然法」の「修復不可能な断絶」について書き、左派に位置する多く人々が、資本の飽くことなき欲望の解放に基づくシステムは、生命が拠って立つ自然体系を圧倒してしまうだろうと主張してきた。そして、もちろん先住民たちは、はるか以前から「母なる大地」を軽視することとの危険に対して、警告を発してきたのだ。産業資本主義が大気中に廃棄する物質が、地球を温暖化させているという事実は、潜在的な大激変の結果によって、そう、否定論者が正しかったことを示している。そして、「よし、規制を全部撤廃して、魔法が起きるのを見てみようじゃないか」と、言った人々たちは、どうしようもなく壊滅的に間違っている。

 これほど恐ろしい何かについて、正しい意見を持つことは喜ばしいことではない。だが、進歩派には、その責任がある。なぜなら、これが意味することは、私たちの思想――産業国家社会主義の失敗からも、先住民の教えからも学んだもの――が、これまでになく重要だということだからだ。それはつまり、単純な改良主義を拒否し、私たちの経済の利益の中心に挑戦する、環境保護的な左翼の世界観が、それらの多重危機を克服するための、人類にとっての最善の希望を提供しているということだからだ。

 しかし、しばらくの間、想像してみてほしい。これらの全てはどうして、シカゴ大学で経済学を学び、自らの個人的使命は「人々を他の人々の専政から解放すること」と述べる、ハートランドの会長バストのような男に見えるのだろう。まるで世界の終わりのようである。だが、もちろんそうではない。しかしそれは、あらゆる面から考慮して、彼の世界の終わりなのだ。気候変動は、その上に現代の保守派が乗っかっている、イデオロギー的な足場を爆破させた。前代未聞の規模で集団行動を要求する問題と、また、危機を作り出し深化させている市場の諸力を劇的に抑制することと、集団行動を中傷し完全な市場の自由を崇拝する信念体系を、調和させる術は単に存在しない。


  * * *



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〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
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――六つの領域における新経済への移行



1.公共圏の再生と再発明

 リサイクルとカーボン・オフセット、そして白熱電球の取り替えの年月が過ぎ去った後では、個人的な行動が気候危機への適切な反応ではないことは明白だ。気候変動は集団的な問題であり、集団的な行動を要求する。集団的な行動が行われるべき重要な領域の一つは、排出量を大幅に削減するべくデザインされた高額投資だ。つまり地下鉄、市街電車、ライトレールといった、どこにでもあるだけでなく、誰にとっても手ごろな交通機関のことだ。それらの輸送経路に沿って並ぶ、エネルギー効率に優れた手ごろな住宅。再生可能エネルギーを供給するスマート・グリッド配電。そして、私たちが可能な限り最善の方法を使っていることを確かめるための大規模な研究努力。

 民間部門は、これらのサービスのほとんどを提供するには、不向きである。なぜなら、それらには高額の先行投資が必要であるし、もしそれらが真に万人に開かれたものであるならば、成功する事例のいくつかは、おそらく儲からないからだ。しかしながら、それらは明らかに公共の利益に適っており、したがって、それらは公共部門によってもたらされるべきである。

 伝統的には、公共圏の保護のための闘いは、際限なき支出を望む無責任な左翼と、私たちが経済を超えた暮らしを営んでいることを理解している、実務的な現実主義者との間の紛争という役回りを与えられてきた。しかし、深刻な気候危機が強く求めているのは、自然の持つ限界についてのこれまでと全く異なる理解であり、ラディカルな新しい現実主義の概念である。政府の財政赤字は、生きている複雑な自然のシステムに対して、私たちが与えた損害ほどに危険なものではない。私たちの文化を、自然の限界を尊重するものに変革するためには、私たちの集団的力量の全てが要求されるだろう――化石燃料から抜け出し、来るべき嵐に備えて、共有インフラストラクチャーを補強するために。


2.経済計画の復興

 三〇年間にも及ぶ私有化の流れを反転させることに加えて、気候変動の脅威へ真剣に対応するために要求されるのは、市場原理主義のこの数十年の間絶え間なく中傷されてきた、ある技術を取り戻すことである。すなわち、計画である。非常にたくさんの計画である。それも国家的なレベルや国際的なレベルだけではない。世界中の全ての共同体は、化石燃料からの移行のための計画を必要とする。トランジション・タウン運動は、それを「エネルギー下降行動計画」と呼んでいる。この責任を真剣に受け止めた都市や街では、直接参加民主主義のための貴重な空間が、このプロセスによって切り開かれている。やがて来る困難な時代に備えて、隣人たちと市庁舎での協議会に詰めかけ、排出量削減のために、回復力を組み込むために、自分たちの共同体をどう再編成するかについてアイディアを分かち合っている。

 気候変動はまた、他の形態の計画も要求する。とりわけ、化石燃料から脱却するにつれて、彼ら仕事が時代遅れになるであろう労働者たちのための計画を。わずかばかりの「グリーンな職業」訓練を施すだけでは充分ではない。それらの労働者たちが知るべきなのは、向こう側では、本物の仕事が彼らを待っているということだ。つまり、企業利益よりも集団的優先度を基盤として、経済を計画するというアイディアを取り戻すのだ。レイオフされた自動車工場や炭鉱の被雇用者たちに、雇用を生み出すための道具と資源を与えるのだ。例えば、クリーブランドの労働者の運営によるグリーン生活協同組合がモデルとなるだろう。

 もし私たちが、土壌浸食、異常気象、化石燃料への依存という三重の危機に対処しようとするなら、農業もまた計画を再生しなければならないだろう。カンザス州サライナにある土壌研究所(Land Institute)の予言的な創設者であるウェス・ジャクソンは、「五〇年農場法」の成立を求めてきた。五〇年の長さは、彼と彼の協力者たち――ウェンデル・ベリー、フレッド・キルシェンマン(Fred Kirschenmann)ら――が、研究を実施し、土壌を流出させる単一栽培の一年生穀物を、同時栽培の多年生作物で置き換えるための、インフラストラクチャーを整えるのに見積もった時間だ。多年生作物は、毎年植え替える必要がないため、長い根は少ない水をたっぷりと蓄え、土壌をしっかりと保持し、二酸化炭素を隔離するのに優れている。同時栽培はまた、害虫や異常気象による死滅にも強い。他にもボーナスがある。こうしたタイプの農業は、産業的農業に比べてはるかに多くの労働力を必要とするために、農業は再び雇用の大きな源となることが可能だ。

 ハートランド会議や似たような趣旨の集会の外側では、計画の復権は全く恐れるべきことではない。私たちは、権威主義的な社会主義の復権について語っているのではない。つまりは、本当の民主主義を目指して方向を変えるということだ。三〇年間に渡る規制撤廃による開拓時代的経済の実験は、世界中の人々の大半を落伍者に変えた。これらの組織的な欠陥こそ、多くの人々が生活賃金を要求し、腐敗を終わらせようとして、公然とエリートたちに反逆している理由である。気候変動は、新しい種類の経済を求める要求と矛盾しない。どころか、気候変動はそれらの要求に実存的要請を付け加えるのだ。


3.企業部門の再規制

 私たちが着手すべき計画の重要な部分は、企業部門の迅速な再規制を要求する。インセンティブにより、多くのことを成し遂げることができる。例を挙げるならば、再生可能エネルギーや土地の受託責任への助成金などである。しかしまた私たちは、危険かつ破滅的な振る舞いを徹底的に禁止する習慣へと、復帰しなければならない。それはつまり、企業が排出可能な二酸化炭素総量の厳格な規制から、石炭火力発電所の新設の禁止、産業肥育場の取り締まり、アルバータ州タールサンドのような汚染度の高いエネルギーの抽出計画の閉鎖(延長計画が決定したキーストーンXLのような石油パイプラインから始めて)まで、様々な面で企業の活動を妨げるということだ。

 企業の活動や消費者の選択へのいかなる規制も、ハイエクの説く「隷従への道」につながるとみなすのは、人口のうちでもごくわずかな人々だけだろう。そして、それらの人々が、まさしく気候変動否定論の最前線にいるのは、決して偶然ではない。


4.生産の再地域化

 もし、気候変動に対応するための企業への厳しい規制が、どこかしら過激に響くならば、それは、一九八〇年代の初めから続いている、政府の役割は企業部門への規制を撤廃することだとする、信仰箇条のせいである。国際貿易の分野においては、とりわけそうである。製造業、地域産業、農業に対して、自由貿易が与えた壊滅的な衝撃はよく知られている。だが、全ての中でもっとも打撃を受けたのは、おそらく大気だろう。地球のあらゆる場所で、資源や製品を輸送する貨物船、ジャンボ・ジェット、重トラックは、化石燃料を貪り食い温室効果ガスを吐き出している。そして、修理のためではなく、買い換えのために製造される安価な製品群は、他の再生不可能な資源を大量に消耗しながら、安全に吸収できる以上の廃棄物を生み出している。

 このモデルがあまりにも浪費的なため、実際のところ、排出量削減を目指す慎ましい努力は、何倍も相殺されている。例を挙げれば、全米科学アカデミーの会報が、京都議定書に署名した先進国の排出量についての研究を最近発表した。それによれば、それらの国々の排出量は安定しているが、その理由の一部は、国際貿易が、中国のような場所に、汚い製造を移動させることを許しているからだという。研究者たちは、発展途上国において製造による排出量が増加しているが、先進国での消費による排出は、それらの国々での排出抑制量の六倍にもなると結論づけている。

 自然の持つ限界に対して敬意を払うべく組織化された経済においては、エネルギー大量消費型の長距離輸送は、製品がその地域では製造できない場合や、その地域での製造が二酸化炭素をより多く排出してしまう場合などを除き、制限されなければならない(例えば、アメリカの寒冷地帯での温室による食品の生産は、南部で食品を育てて経便鉄道で輸送するよりも、大量にエネルギーを消費するのが通例である)。

 気候変動は、貿易の終焉を要求するものではない。しかし、それは、あらゆる二国間貿易協定と世界貿易機関(WTO)を支配している、無謀な形態の「自由貿易」の終焉を要求する。失業中の労働者にとって、安い輸入品と競争できない農家にとって、製造業が海外に移転してしまったために、地域経済が巨大小売店に取って代わられた共同体にとって、これは良い知らせである。だが、資本主義の計画に対するこの挑戦的態度を、過小評価すべきではない。それは企業の持つ権力に課せられた、可能な限り全ての制限を取り除こうとするこの三〇年間の潮流を、逆転させることを意味するからである。


5.買い物カルトの終焉

 自由貿易、規制撤廃、私有化の過去三〇年間は、欲深い人々がより多くの企業利益を望んだ結果というだけではない。それはまた、一九七〇年代の「スタグフレーション」――それは、急速な経済発展のための方策を見つけようという、強烈なプレッシャーを生み出した――に対する応答でもあるのだ。その脅威は本物だった。私たちの現在の経済モデルでは、製造の落ち込みは、その定義上危機――停滞と呼ばれるにしろ、もっと深刻ならば、不況と呼ばれるにしろ、それらの言葉が暗に意味するあらゆる絶望と困難――なのだ。

 こうした経済成長への要請が、「着実なGDP成長を維持しながら、どうやって排出量を削減することができるのか?」と問いかけつつ、伝統的なエコノミストたちが、頼もしくも気候危機に接近している理由だ。通常の回答は「切断(decoupling)」である。つまり、再生可能エネルギーの普及と大幅な効率化の進展が、その環境的影響から、経済成長を切り離すという考え方だ。そし、てトーマス・フリードマンのような「グリーン成長」の支持者たちは、新しいグリーンな技術の開発とグリーンなインフラストラクチャーの設置というプロセスが、巨大な経済成長をもたらし、GDPを上昇させ、「アメリカをより健康に、より豊かに、より革新的に、より生産的に、より安全にする」ために、必要な富を生み出すと述べている。

 しかし、ここで話は複雑になる。ヨーク大学のピーター・ヴィクター、サリー大学のティム・ジャクソン、環境法と環境政策の専門家ガス・スペスらの他、メリーランド大学の生態学的エコノミスト、ハーマン・ダリーが率いる、経済成長と堅実な環境政策との衝突に関する、経済学的研究の一群がある。それらの全てが投げかける真剣な問いは、先進国の実行可能性と科学が要求する大幅な排出量削減(少なくとも二〇五〇年までに一九九〇年のレベルの八〇%)が衝突する一方で、ただでさえ不景気な経済を、成長させ続けなければならないというものだ。ヴィクターとジャクソンが主張するように、大幅な効率化は成長の速度に単についていけない。その理由の一部は、大幅な効率化は、ほとんど必ずより大量の消費を伴い、利益を減少させるか、打ち消してしまうからだ(しばしばジェヴォンズのバラドクスと呼ばれる)。そして、エネルギーの効率化と物質的な効率化がもたらす蓄えは、単により急激な経済の拡大に再投資されてしまい、排出量の総量の削減は妨げられてしまう。ジャクソンが『成長なき繁栄(Prosperity Without Growth)』で論じているように、「『切断』を成長のジレンマからの脱出口として奨励する人々は、歴史的な物証――そして成長の基礎的算術――をもっと詳細に観察する必要がある」のだ。

 結論としては、天然資源の過剰な消費がもたらす生態学的危機は、私たちの経済の効率性を改善することだけではなく、私たちが生産し消費する物質の総量を減少することによって対処しなければならない。とはいえこの考えは、グローバル経済を支配する大企業にとっては禁忌である。それらの企業は、毎年より多くの利益を求める自由気ままな投資家によって、コントロールされているのだ。ゆえに私たちは、ジャクソンが表現したように「体制を崩壊させるか、地球を破壊するか」という、支持しがたい苦しい立場に追い込まれている。

 打開策は、上記で議論されたあらゆる計画の手段を用いて、別の経済的パラダイムへの管理された移行を受け入れることである。経済成長は、今なお貧困から抜け出そうとしている世界の部分のために、保持されなければならない。一方先進国においては、毎年の利益の増加へと駆り立てられていない部門(公共部門、生活協同組合、地域産業、非営利団体)が、最低限度の環境的衝撃しか持たない部門(介護業など)と同様に、経済活動全般におけるシェアを拡大させなければならないだろう。このやり方なら、大量の雇用を生むことができるはずである。しかし、企業部門の役割は、構造的な理由から、売上げと利益の増加を要求するために、縮小しなければならない。

 したがって、ハートランドの人々が、気候変動は人類が引き起こしたという証拠を、資本主義そのものに対する脅威であるかのようにみなして反応していた時、彼らはパラノイアなどではなかったのだ。ただ単に、彼らは注意深かったということを、意味するだけである。


6.富裕層と守銭奴の税率引き上げ

 そろそろ、ここまでを読んだ賢明な読者は、こう訊ねることだろう。一体どうやって、私たちはそれら全てに支払う金を捻出するんですか?古くからある答えは、簡単なものだ。私たちが成長することで、生み出すのだ。実際、エリート向けの成長を基盤とする経済の主要な利点の一つは、社会的正義を求める要求を、彼らが継続的に先延ばしにするのを、それが許すことにある。もし私たちがパイを大きくしていくならば、やがては全員分のパイが得られるというわけだ。現在の不平等危機が暴いているように、それは常に嘘だった。だが、複数の環境的限界にぶつかっている世界では、この案に成功の見込みはない。したがって、環境的危機に対する有意義な反応に、資金を調達するための唯一の方法は、金のある場所へと向かうことだ。

 それはつまり、金融投機のみならず、二酸化炭素にも税を課すということだ。それにまた、企業と富裕層の税率を引き上げるということだ。膨大な軍事予算を削減し、化石燃料産業への馬鹿げた助成金を中止するということだ。そして、各国政府の役割は、企業が税金逃れをしないように、彼らの反応を調整することだ(この種の非妥協的な国際的調整機構は、ハートランドの人々が、気候変動は忌まわしき「世界政府」の先導役を務めるだろうと警告していた時に、意味していたものだ)。

 しかしながら、何よりも私たちは、私たちをこの惨状へと追いやったことについて、もっとも責任の重い諸企業の利益を追求しなければならない。上位五つの石油会社は、この一〇年間で九〇〇〇億ドルの利益を上げている。エクソンモービル単独で、四半期に一〇〇億ドルの純益を上げることが可能だ。数年間、これらの会社は、自分たちの利益は、再生可能エネルギーへの移行に投資されるだろうと誓約してきた(BPの「石油の超克」戦略は、そのもっとも人目を引く例だ)。だが、「アメリカの進歩のためのセンター(Center for American Progress)」の調査によれば、五大会社の二〇〇八年の利益を合計した一〇〇〇億ドルのうち、「再生可能エネルギー及び代替エネルギーに関する事業」に支出されているのは、わずか四パーセントのみである。その代わりに、彼らは自分たちの収益を、株主たちのポケットに、途方もない役員給与に、そして化石燃料よりも汚染度が高く危険な抽出技術に注ぎ込み続けている。大量のお金はまた、頭角を現してきた環境立法のあらゆる断片を撃退する目的でロビイストたちに、それにマリオット・ホテルに集まった気候変動否定派運動に資金を提供するために支払われている。

 タバコ会社が人々に、禁煙のための費用を支払うことを義務づけられるようになったのと同じく、BPがメキシコ湾の石油汚染を洗浄するために支払わなければならないのと同じく、現在は「汚染者が支払う」という原則を気候変動に関して適用する絶好の時だ。汚染者に対する高率の税金に加えて、各国政府は、化石燃料の抽出が少なくなるほど国庫歳入が増大するように、私たちの脱二酸化炭素を果たした未来への移行(と既にある気候変動の急激なコスト)をまかなえるように、より高いロイヤリティー率を取り決めなければならない。利益を削減するあらゆる新規則に、企業が抵抗することが予想される以上、国有化――自由市場最大のタブー――を、提案から除外することはできない。

 ハートランドの人たちが、しばしばそうするように、気候変動は「富の再配分」と階級戦争を目指す陰謀だと主張する時、それらの言葉が意味するのは、彼らがもっとも恐れている政策がそれらだということだ。彼らはまた、いったん気候変動の現実が認識されるようになると、富裕国の内部だけでなく、その排出が危機を作り出した富裕国から、危機の最前線にある貧困国へと、富が移送されることを理解している。実際、国連の気候変動に関する交渉を葬り去るべく、保守派(と多くのリベラル派)をそんなにも熱心にさせている理由は、発展途上世界の各地域でポストコロニアルな勇気が復活し、多くの思考が永遠に消え去ったからである。誰に地球温暖化の選任があり、誰が最初かつ最悪にその影響に苦しむのかという、反駁不可能な科学的事実で武装した、ボリビアやエクアドルといった国々は、世界通貨基金と国際銀行の融資による数十年間によって、彼らに押し付けられた「債務国」という外套を脱ぎ捨てようと試み、今や自らを「債権国」と宣言するようになった。気候変動に対処するための財源と科学技術だけでなく、開発のための「大気圏」にも貸しがあるのだ。

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訳者コメント:
 彼女のTwitterによれば、ナオミ・クラインの次回作の一部もしくはその草稿のようなものであるらしい「〈資本主義〉対〈気候変動〉(Capitalism vs. the Climate)」と題された長文論説の全訳を分割して公開。文字数制限のためコメントは割愛。目次はこちら。続きはこちら

by BeneVerba | 2012-06-03 11:04 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)