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〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――気候変動否定派から裏返しに学ぶ


 否定論者たちは、何らかの隠された社会主義的陰謀を暴き出した結果、気候変動は隠された左翼の陰謀だと判断したわけではない。彼らは、気候科学が要求する徹底的かつ急速な地球規模の排出量削削減を行えばどうなるか、詳細に検討した結果この分析に到達したのだ。彼らは、彼らの信念体系である「自由市場」とは逆向きに、私たちの経済的政治的システムを再編成した時にのみ、それは可能だと結論づけた。イギリスのブロガーでハートランド協会の常連、ジェイムス・デリングポール(James Delingpole)は、こう指摘する。「現代の環境保護運動は、左派が重視する主張の多くを、成功裏に前進させている。富の再分配、増税、より大きな政府の介入、規制の強化」。ハートランド協会会長のバストは、同じことをもっとあけすけに表現する。左派にとって、「気候変動は最高の逸品だ……。それこそ私たちが、[左派が]なんとしても成し遂げたいと思っていることを、全てやらなければならない理由だ」。

 私が見つけ出した都合の悪い真実はこうだ。彼らは間違っていない。これ以上話を先に進める前に、私の態度をきっぱりと明らかにしておきたい。九七%の世界の気候科学者が証明するように、ハートランドの人たちは科学について完全に間違っている。化石燃料を燃焼することで大気中に排出される温室効果ガスは、既に気温の上昇を引き起こしている。もし、私たちがラディカルに異なるエネルギーを選択しなければ、この一〇年の終わりまでには、私たちは苦しみに満ちた世界に住むことになる。

 だが、それらの科学的知見が実社会にもたらす結果に関して、とりわけ、必要とされるある種の根深い変化については――エネルギー消費ではなく、私たちの経済システムの基礎となるロジック――マリオットホテルに集まっていた聴衆たちの方が、多くの環境保護の専門家よりも、よほど現実から目を背けていない。地球温暖化ハルマゲドンを示して見せてから、「グリーン」な製品を買い、賢い汚染の市場を作ることで、私たちは破局を避けることができると保証する輩のことだ。

 私たちが排出する二酸化炭素の総量を、地球の大気が安全に吸収できないという事実は、より大きな危機の徴候である。私たちの経済モデルが基礎を置く中心的フィクションの一部は、資源は無限であり、私たちはいつでも必要なものを見つけだすことができ、もし何かの資源が尽きてしまっても、途切れることなく他の資源に置き換えることが可能なので、私たちは終わりなく資源を抽出できるというものだ。だが私たちが、自然の回復力を越えて搾取しているのは、大気だけではない。私たちは同じことを海に対して、水に対して、表土に対して、生命の多様性に対して行っている。だが、資源の抽出にとらわれた拡張論――この論理が、資源に対する私たちの関係を長いこと支配してきたのだが――は、気候危機が投げかける根本的な疑問に晒されている。私たちが、その限界を超えて自然を酷使してきたことを示す豊富な科学的研究は、グリーン・プロダクトと市場に基盤を置いた解決策だけを要求しているのではない。それは、新しい文明的なパラダイム――自然に対する支配に根ざした文明ではなく、再生する自然の循環に対する尊敬に根ざした文明――を、要求しているのだ。人間の知性を含む、自然が持つ限界に対して極めて敏感な文明を。

 したがって、ハートランドの仲間たちに、気候変動は「本当の問題ではない」といった時、クリス・ホーナーはある意味で正しかった。実際のところ、それは全くもって問題ではない。気候変動は、メッセージなのだ。私たちの文化がもっとも大切にしてきた思想の多くが、もはや有効ではないことを告げるメッセージである。そこにあるのは、啓蒙的な進歩の理想で育ち、自然の限界の中に自分たちの野心を留めておく習慣のない、私たち全てにとって、根本的な取り組みを必要とするいくつもの啓示である。そしてそれは、国家統制主義の左派にとってと同じく、新自由主義の右派にとっても真実なのだ。

 環境保護運動について、アメリカ人を震え上がらせるために、ハートランドの人々が共産主義の幽霊を召喚することを好む(ハートランド会議のお気に入りであるチェコ共和国大統領ヴァーツラフ・クラウスは、地球温暖化を防ごうとする試みは、「社会全体を統制したいという共産主義国の中央計画官の野望」に類似するものだと言う)が、現実にはソヴィエト時代の国家社会主義は気候への災厄だった。それは資本主義と同じくらいの熱意で資源をむさぼり喰らい、無謀なまでに廃棄物を吐き出したのだ。ベルリンの壁が崩壊する以前、チェコ人とロシア人は、彼らの西側の対照物であるイギリス、カナダ、オーストラリアといった国々よりも、一人当たりでより多くのカーボン・フットプリント値を保持していた。その一方で、何人かの指摘によれば、中国の再生可能エネルギー計画の目が眩むような拡張は、中央集権的な体制のみがグリーンな政策をやってのけることができることを示しており、破壊的な巨大ダムや、高速道路の建設、抽出に基盤を置くエネルギー計画(とりわけ石炭)を通して、中国の指揮統制型経済は、自然との全面戦争に対して抑制的であり続けている。

 気候変動の脅威に対処するためには、あらゆるレベルで強い政府の行動が要求されるというのは真実だ。しかし、気候変動に対する本物の解決策は、地域社会のレベルへと、そうした介入を組織的に分散し、権力と管理を委ねて行くことだ。地域社会が管理する再生可能エネルギーであれ、地域の有機農業であれ、正真正銘の使い手に納得のいく輸送システムであれ。

 そこにこそ、ハートランドの人々が恐れるべき、もっともな理由があるのだ。そうした新しいシステムの出現は、三〇年以上に渡って世界経済を支配して来た、自由市場のイデオロギーをずたずたに引き裂くことを必要とするだろう。以下に記すことは、気候変動という深刻な課題が、次の六つの領域で何を意味するのかさしあたっての概観である。公共インフラストラクチャー、経済計画、企業への規制、国際貿易、消費、そして課税。ハートランド会議に集まっていたような極右イデオローグたちにとって、これらがもたらす結果は、まさに知的な大変動に他ならない。

* * *



訳者コメント:
 彼女のTwitterによれば、ナオミ・クラインの次回作の一部もしくはその草稿のようなものであるらしい「〈資本主義〉対〈気候変動〉(Capitalism vs. the Climate)」と題された長文論説の全訳を分割して公開。文字数制限のためコメントは割愛。目次はこちら。続きはこちら

by BeneVerba | 2012-06-03 11:03 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――科学的合意の拒絶へと向かう世論


 大きな社会的政治的問題に関して世論が変わろうとする時、その傾向は相対的に漸進的なものになりがちである。突然の移行がやって来る場合は、劇的な出来事によって引き起こされるのが普通である。世論調査員たちが、たったの四年間で、気候変動に対する見方に一体何が起こったのか驚いている理由はそれだ。二〇〇七年のハリスによる世論調査では、七一%のアメリカ人が、化石燃料を燃やし続けることは気候の変動をもたらすと信じていた。二〇〇九年の統計では、それが五一%にまで下落した。そして二〇一一年六月には、それに同意するアメリカ人の割合は、四四%にまでに落ち込んでいる。人口の半分以下である。「民衆と報道のためのピュー調査センター(Pew Research Center for People and the Press)」の調査研究理事であるスコット・キーターによれば、これは「近年の世論調査の歴史では、短い時期における最も大きな移行」だという。

 更に目立つのは、この移行がほとんど全く政治的スペクトラムの一端について起こったことだ。二〇〇八年(ニュート・ギングリッチがナンシー・ペロシと共に気候変動に関するTVスポットを行った年)までは、この問題はうわべだけであれ、アメリカではまだ二大政党の両方から支持を得ていた。そうした日々は明白に終わりを告げた。今日では、七〇~七五%の民主党支持者もしくはリベラルを自認する人々が、人類が気候を変えていると信じている。過去一〇年間で安定しているか、わずかだけ上回った水準だ。それとは全く対照的に、共和党支持者、特にティー・パーティーの一員たちは、圧倒的に科学的な合意の拒絶を選んでいる。いくつかの地域では、わずか二〇%程の共和党支持者を自認する人々が、科学を受け入れているだけだ。

 感情的な強度における移行も同じく著しい。かつて気候変動は、誰もが気にかけていると口にする事柄だった。実際にはそれ程多くなかったにしろ。アメリカ人が政治的な関心事に優先度を付けるように訊ねられると、気候変動は確実なまでに最後になるのだ。

 だが、今では情熱的に、執拗なまでに気候変動を気にかけている相当数の共和党の一団がいる。もっとも、彼らが気にかけているのは、気候変動が、彼らに白熱電球を取り替えさせ、ソヴィエト流の安アパートに住ませ、SUVを諦めさせるために、リベラルのでっち上げた「虚報」であると暴露することだが。これらの右派にとって、気候変動に反対することは、低い税金や、銃器の所有権や、中絶への反対と同様に、彼らの世界観の中心をなすものになりつつある。多くの気候科学者たちが、殺害の脅迫を受け取ったと報告している。省エネルギーのような無害に見える題材の記事の著者ですらそうなのだ(エアコンを批判する本の著者であるスタン・コックスに届いた手紙によれば、「俺の冷えて死んだ手から、サーモスタットをもぎ取って見ろ」)。

 この強烈な文化戦争は、ニュースの中でも最悪のものだ。なぜなら、彼または彼女のアイデンティティの核になっている問題について、その人物の立場に挑戦しようとすると、事実や議論が攻撃に埋もれてしまい、簡単に逸脱してしまうからだ(否定論者は、地球温暖化の現実を確認する、部分的にコーク兄弟によって資金提供を受けた新しい研究や、「懐疑的な」立場に同調的な科学者による新しい研究をはねつける方法さえ発見している)。

 この感情的な強烈さがもたらす効果は、共和党をリードするレースにおいて余すところなく示された。大統領選に入ろうとする日々の中で、彼の故郷であるテキサス州が文字通り野火で燃えている最中に、テキサス州知事リック・ペリーは、気候科学者たちがデータを操作していることを明らかにする根拠を喜んで、こう言った。「そのために、彼らは何ドルもの金をプロジェクトにつぎ込んでいるのだ」。一方で、気候科学を一貫して擁護する唯一の候補者、ジョン・ハンツマンは、即死状態だった。また、ミット・ロムニーが選挙戦で救われたのは、部分的には、気候変動についての科学的合意を支持する初期の声明を遠ざけたためだった。

 だが、右派の気候陰謀論の効果は、共和党の外にも広がっている。民主党員のほとんどは、独立を疎外されることを恐れ、この件に関して沈黙を決め込んでいる。そしてまた、メディアと文化産業も、それに追従している。五年前には、有名人たちはハイブリッド・カーに乗ってアカデミー賞に現れ、『ヴァニティ・フェア』誌は例年グリーン特別号を発行していた。二〇〇七年には、アメリカの三大ネットワークで、一四七本の気候変動に関する番組が放送された。だが、それらはもはや存在していない。二〇一〇年には、三大ネットワークは三二本の気候変動に関する番組を放送しただけであり、アカデミー賞は本来のスタイルのリムジンに戻り、「例年」だったはずの『ヴァニティ・フェア』グリーン特別号は、二〇〇八年以来現れていない。

 この穏やかならぬ沈黙は、史上最大の暑さを記録した一〇年間の終わりまで存続し、更に変異種的な自然災害と世界的な記録破りの猛暑の夏を迎えている。一方で、化石燃料産業は、石油、天然ガス、石炭を、この大陸でもっとも汚染がひどくもっとも高リスクないくつかの資源から抽出する新しいインフラに対する、数十億ドルの投資に殺到している(七〇億ドルのキーストーンXLパイプラインがそのもっとも顕著な例だ)。化石燃料産業は、アルバータ州のタール・サンドで、ビューフォート海で、ペンシルヴァニアのガス田で、ワイオミングとモンタナの炭田で、環境保護運動は死んだも同然だという方に大きく賭けたのだ。

 これらのやる気満々のプロジェクトが、二酸化炭素を大気中に排出すれば、破局的な気候変動が起こる確率は劇的に上昇する(アルバータ州のタール・サンドの石油採掘だけで、NASAのジェイムズ・ハンソンに言わせれば、気候にとって「本質的なゲーム・オーバー」となるだろう)。

 これらの全てが意味するのは、環境保護運動は大々的に巻き返さなければならないということだ。それが起きるためには、左派は右派から学ばなければならない。否定論者たちは気候を経済に結びつけることで勢いを得てきた。環境保護は資本主義を破壊する、と彼らは主張する。雇用は生まれなくなり、物価は上昇するだろうと。しかし、今では、より数多くの人々が「ウォール街を占拠せよ」の抗議者たちに同意し、それら人々の多くが通常営業の資本主義そのものが、雇用喪失と借金奴隷の原因だと主張しており、経済の領域を右派から奪い返すユニークな機会が生まれているのだ。そのためには、環境危機へ本物の解決策はまた、より開化された経済システム――根深い不平等を終わらせ、公共圏を強化し変容させ、尊厳ある労働を大量に生み出し、ラディカルに企業の力を制御するそれ――を築く私たちの最良の望みでもあるのだという、説得力のある議論を組み立てることが要求されるだろう。それはまた、環境保護運動が、進歩派の注目を競い合う価値ある理念の一覧にある、たった一つの問題だという観念からの離脱を要求するだろう。気候変動否定主義が、力と富の現体制の防衛にすっかり絡みつつ、右派の重要なアイデンティティ問題となったのと同様に、気候変動の科学的現実は、進歩派にとって、縛りのない貪欲がもたらす災厄と真のオルタナティブの必要性に関する、首尾一貫した物語の中心部分を占めるべきなのだ。

 そうした変容力のある運動を築き上げることは、最初にそう思われるほどには、難しくないのかもしれない。実際のところ、ハートランドの人たちに訊ねるならば、気候変動は何らかの左翼革命を実質的に不可避にしており、それこそが彼らがその現実性を否定しようと、固く決意している理由なのだ。おそらく、私たちはもっと近寄って、彼らの理論を拝聴しなければならないのだろう。なぜなら、彼らは左派がまだ理解していない何かを、理解しているのかもしれないからだ。

* * *


訳者コメント:
 彼女のTwitterによれば、ナオミ・クラインの次回作の一部もしくはその草稿のようなものであるらしい「〈資本主義〉対〈気候変動〉(Capitalism vs. the Climate)」と題された長文論説の全訳を分割して公開。文字数制限のためコメントは割愛。目次はこちら。続きはこちら

by BeneVerba | 2012-06-03 11:02 | 翻訳 | Trackback | Comments(3)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


――ハートランド会議の四列目の紳士


 四列目にいた紳士が質問を投げかけた。

 自分はリチャード・ロスチャイルドだと、彼は自己紹介した。彼は、自分はメリーランド州のキャロル郡の郡行政委員会委員に立候補したと聴衆に語りかけ、なぜなら地球温暖化に取り組む政策は、実際のところ「アメリカ中産階級資本主義に対する攻撃」に他ならないという結論に達したからだと述べた。六月の下旬、ワシントンDCのマリオットホテルに集まったパネリストたちに、彼が投げかけた質問はこういうものだった。「一体どの程度までこの運動全体は、その腹の中に赤いマルクス主義者の社会経済的な教義を詰め込んだ、単なる緑色をしたトロイの木馬なのですか?」。

 ここハートランド協会(Heartland Institute)の第六回気候変動国際会議(International Conference on Climate Change)――人類の活動が地球温暖化を招いているという圧倒的な科学的合意を否定すべく血道を上げている人々の最たる集まり――では、これは修辞的な疑問と見なされた。それは、ドイツ連邦銀行の銀行家たちの集まりに、ギリシア人たちは信用ならないのかどうかを訊ねるようなものだった。にもかかわらず、パネリストたちは質問者に対して、彼がどれほど正しいのかを述べる機会を逃しはしなかった。

 クリス・ホーナー――競争的企業協会(Competitive Enterprise Institute)の上級研究員で、気候変動を調査する科学者たちを、やっかいな民事訴訟と情報公開法による法的尋問で困らせることが専門――は、テーブル・マイクを口元に曲げた。「あなたはこの会議が気候に関するものであることをご存じでしょう」。暗い影のある声で彼はこう言った。「多くの人がそれを信じている。だがそれは合理的な信念ではないのです」。ホーナーの年の割に早い銀髪は、彼を右翼版のアンダーソン・クーパーのように見せていた。彼は好んでソール・アリンスキーの言葉を引用した。「この問題は本当の問題ではないのです」。この問題は次のように見えるのだと言う。「自由社会はこの課題が要求するものを、独力で成し遂げることはできないのです……。障害となっているやっかいな自由を取り除くことが、そのための第一段階となるでしょう」。

 気候変動はアメリカの自由を盗むための陰謀だとする主張は、ハートランド協会の標準からすればむしろ穏健なものである。二日間の会議を通じて、私が知ることになるのは次のような主張だ。地域主体のバイオ燃料精錬所を援助するオバマの選挙公約は、本当は「緑色のコミュニタリアニズム」であり、「銑鉄の溶鉱炉を皆の裏庭に設置する」という「毛沢東主義者」の計画に類似するものだ(カトー協会のパトリック・マイケルズ)。気候変動は「国家社会主義の隠れ蓑だ」(元共和党の上院議員で引退した宇宙飛行士のハリソン・シュミット)。環境保護論者は、限りない人々を犠牲にして神を宥め、なんとか天候を変えようとするアステカの僧侶のようだ(否定論者の主要なウェブサイト ClimateDepot.com の編集者、マーク・モラーノ)。

 しかしながら、私がとりわけよく聴くことになったのは、四列目の郡行政委員会委員が表明した意見の異なるヴァージョンだった。気候変動は資本主義を廃止し、それを何らかのエコ社会主義と取り替えるために設計されたトロイの木馬である。会議の演説者ラリー・ベルが、彼の新著『崩壊する気候変動(Climate of Corruption)』の中で簡潔に述べているように、気候変動は「環境の状態とはほとんど関係がなく、資本主義を束縛することにより関係しており、グローバルな富の再分配のために、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを変えようとするものだ」。

 そう、確かに会議の代表者たちが見せる気候科学に対する拒否は、データについて重大な意見の相違があるような振りをして見せている。そして主催者たちは、集会を「科学的方法の復権」と呼び、組織名として気候変動における指導的な権威であるIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)の一文字違いであるICCCすら採用して、ある程度まで信頼のおける科学的な会議を真似ようとしている。だが、この会議で提示された科学的理論は古くて、もう長い間信用されていないものだった。そして、それぞれの演者が次の演者と矛盾するように見えることを説明する何の試みもなされなかった(温暖化が存在しないにしろ存在するにしろ、それは問題ではないではないか?もし、温暖化が存在しないのなら、これらの太陽黒点が気温を上昇させているとかいう話は一体何なのか?)。

 実際のところ、ほとんどが年輩の人々である聴衆の何人かは、気温のグラフが投影されている間、居眠りをしているようだった。彼らは、この運動の「ロック・スター」たちが登壇する時だけ活気づくのだ。Cチームの科学者たちではなく、モラーノやホーナーのような、Aチームのイデオロギー的闘士たちだ。これこそがこの集会の目的である。今後の年月に備えて、頑迷な保守派の否定論者たちに、それを使って環境保護論者や気候科学者たちをぶちのめすことのできる、修辞的な野球バットを収集するためのフォーラムを提供することが。最初にここで試された論題は、やがて「気候変動」や「地球温暖化」という言葉を含む、あらゆる記事と YouTube の動画のコメント欄を溢れさせることになるのだ。それらはまた、数百人の右派のコメンテーターと政治家たちの口からも飛び出すだろう。共和党の大統領候補であるリック・ペリーやミシェル・バックマンから、ぐっと下がってリチャード・ロスチャイルドのような郡行政委員会委員まで。会議外のインタビューで、ハートランド協会の会長であるジョセフ・バストは、誇らしげに「数千の記事や論説、演説が……これらの会議の一つに出席した誰かによって情報提供を受けているか、もしくは動機付けられている」ことは自分の手柄だと述べた。

 ハートランド協会――シカゴに拠点をおく「自由市場のソリューションを促進する」ためのシンクタンク――は、二〇〇八年以来、時には年に二度、これらの懇談会を開催してきた。そしてその戦略は功を奏しているようだ。一日目の終わりに、モラーノ――二〇〇四年の大統領選挙の時に、ジョン・ケリーを落とすための「真実のための退役快速船軍人の会(Swift Boat Veterans for Truth)」の話を、論破したことで有名になったこともある――が、一連のウィニングランで集会をリードした。キャップ・アンド・トレード方式?とっくに死んでる!コペンハーゲン・サミットのオバマ?とんでもない大失態!環境保護運動?ただの自殺行為!彼は環境保護活動家が自分を責めているいくつかの引用を(進歩派もよくやるように)投影すらした。そして、聴衆たちに断然として「祝おうじゃないか!」と勧めたのだった。

 そこには屋根の垂木から降りてくる風船も紙吹雪もなかったが、あった方がふさわしかっただろう。

 * * *


訳者コメント:
 彼女のTwitterによれば、ナオミ・クラインの次回作の一部もしくはその草稿のようなものであるらしい「〈資本主義〉対〈気候変動〉(Capitalism vs. the Climate)」と題された長文論説の全訳を分割して公開。文字数制限のためコメントは割愛。目次はこちら。続きはこちら

by BeneVerba | 2012-06-03 11:01 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
〈資本主義〉対〈気候変動〉
Capitalism vs. the Climate
2011年11月09日 - ナオミ・クライン
原文:http://www.thenation.com/article/164497/capitalism-vs-climate?page=full


〈資本主義〉対〈気候変動〉 [1/8] -- ハートランド会議の四列目の紳士
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [2/8] -- 科学的合意の拒絶へと向かう世論
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [3/8] -- 気候変動否定派から裏返しに学ぶ
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [4/8] -- 六つの領域における新経済への移行
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [5/8] -- 気候変動への対応策と資本主義
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [6/8] -- 階級的特権と気候変動否定論の関係
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [7/8] -- 気候変動が導くヴィジョンと左派の役割
〈資本主義〉対〈気候変動〉 [8/8] -- 不可避の未来に希望を広げるために



コメント:
 ナオミ・クラインの長文論説「〈資本主義〉対〈気候変動〉」の目次。2012年6月3日にようやく翻訳が完結。副題は内容の把握を容易にするために、私が勝手に付けたもの。一つの記事について投稿文字数に制限があるため分割して掲載。全8編。いつものように誤訳その他の指摘歓迎。

 ところで、『Democracy Now!』のこちらの動画「ナオミ・クライン:究極の危機『気候変動」を利用して軍国主義が台頭?」は是非おすすめ。

by BeneVerba | 2012-06-03 11:00 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
「ウォール街を占拠せよ」FAQ
Occupy Wall Street: FAQ
2011年09月29日 - ザ・ネイション(ネイサン・シュナイダー)
原文:http://www.thenation.com/article/163719/occupy-wall-street-faq


――アドバスターズが「ウォール街を占拠せよ」を組織化したと聞いたのですが?それともアノニマス?あるいは「アメリカ怒りの日」?

 それらの全てとその他と言える。アドバスターズは、七月中旬に最初の呼びかけを行うと同時に、機動隊を背景にチャージング・ブル像の上でポーズを取るバレリーナの素晴らしいポスターを産み出した。IT戦略家アレクサ・オブライエンの主にインターネットを基盤とした創造物アメリカ怒りの日も参加し、初期の肉体労働とツイッターの多くを担当した。アノニマスは、その多種多様な容貌で、八月下旬に参加した。とはいえ、ニューヨークその地では、計画のほとんどは、当初「予算削減に反対するニューヨーク市民の会」によって招集された、活動家、芸術家、学生たちの集団である、ニューヨーク市ジェネラル・アセンブリーに参加していた人々によって計画のほとんどが実施された。この学生と組合員会からなる会は、市長の予算削減とレイオフ計画に抗議し、ブルームバーグヴィルと呼ばれた市庁舎近くでの三週間の占拠活動を終えたばかりだった。彼らは、その経験から学んだことを生かして、もう一度やることを切望し、今度はより大きなインパクトを与えることを望んでいた。だが、ウォール街全体を占拠したいと思う人も集団もいなかった。

 ウォール街からわずか数街区北のリバティ広場(これはズコッティ公園の二〇〇六年以前の名称で、この地がブルックフィールド・プロパティによって再建された時、その会長の名前にちなんでこの名が付けられた)では、ジェネラル・アセンブリーが事実上の意志決定機関となった。さて専門用語の覚悟を。ジェネラル・アセンブリーは、水平的で、自律的で、指導者のいない、改善されたコンセンサスを基盤とした、アナーキストの思考にそのルーツを持つシステムだ。そしてそれは、アルゼンチン、エジプトのタハリール広場、マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場その他で実施されている世界中の集会に酷似している。コンセンサスを目指して働くのは本当につらく、欲求不満で、時間のかかる仕事だ。しかし、占拠者たちはゆっくり時間をかけて徐々に進めていた。しばしば何日間も続く試行錯誤の後で、ある問題について、ようやくコンセンサスに到達した時の雰囲気は、極めて賛嘆すべきものだ。割れんばかりの拍手感性が広場を満たした。何らかの同意に到達した情熱的で、反抗的で、創造的な数百人の人々にまぎれている時の気持ちを、言葉に表すのは難しい。


――で、責任者は誰もいないの?じゃあ、どうやって決定するんですか?

 幸運なことに、あらゆるものごとについて、コンセンサスに達しなければいけないわけではない。ジェネラル・アセンブリーとともに働いているのは、増え続ける小委員会と作業部会だ。食料、メディア、直接行動、公衆衛生などである。それらの一つに参加するのは自由で、ジェネラル・アセンブリーとの暗黙の協調の元に、それぞれの持ち分で働いている。最終的には、全ての個人にものごとを決定する権限が与えられ、彼または彼女が、グループの利益になるよう振る舞うことが理想だった。


――抗議者たちの要求は何ですか?

 あーっ!とんでもない質問を。まず、元々のアドバスターズの呼びかけも「私たちの要求は何だ?」と訊ねていた。技術的に述べるのならば、それはまだ一つもない。九月一七日に続く数週間、ニューヨーク市ジェネラル・アセンブリーは、まず最初に「要求」という言葉から逸脱することにしたようだ。主な理由としては、政府機関が既に企業からのお金に汚染されているために,運動が政治的に強力になるまで、特定の要求は無意味と思われたからだ。その代わりにまず、彼らは占拠それ自体を要求した。そして、そこでは直接民主主義が実施されて、人々は特定の事柄を要求することも、そうでないこともあった。そのことを考慮するのなら、この行動は実際、ウォール街が代表する腐敗に対するとても力強い宣言となっている。しかし、この考えはアメリカのマスメディアからの質問には過剰なため、要求に関する質問は、広報にとって大きな困難となった。

 ジェネラル・アセンブリーは目下、統一要求をどういうものにするか決定する最中にある。ざっくばらんで興味深い討論だ。だが、息を潜めて待たないように。

 もちろん広場にいるみんなは、何が起きてほしいかという、それぞれ自分の考え方を持ってやって来る。広場の北端沿いには、要求やスローガンを書き付けた何百もの段ボール製のプラカードによるコラージュがある。見物人たちは、立ち止まって見つめ、一日中釘付けになっている。メッセージはその場所の至る所にあるが、確かなことに、ある一貫性もそれらにはある。その中の一つ「利益よりも民衆を」が、一人の少女をかなり引き付けたようだ。しかし、討論中の話題もまた、死刑の廃止から、軍産複合体の解体、手ごろなヘルスケア、移民を増大させる政策などまで多様なものだ。混乱するかもしれないが、しかしこれらの問題はある程度相互に関係している。


――ニュースのいくつかは、抗議者たちを散漫であるか、より悪いことには絶望的に混乱して、知識もない人たちとして描き出しています。これには真実が含まれていますか?

 もちろん。私たちが住む複雑な世界では、私たちはみんな、少しばかり知っていたとしても、ほとんどの事柄について知識がない。初日と二日目に、抗議者に注意していた警察官のことを思い出す。「やつらは、何でも知っていると思い込んでやがる!」。若者とは概してそうしたものだ。しかしこの場合、ウォール街周辺の過剰な富の蓄積と、その政治に対する大きな影響に気付くためには、ヘッジファンドが何であるのかや、アップル社の株の売値が今いくらかについて、詳しい理解を必要としない。これらの抗議者を際立たせているものの一つは、まさしくより良い世界は可能だとする彼らの希望だ。付け加えるなら、多数のアメリカ人にとって、そうした非暴力直接行動は、政治的な意見を持つ唯一の機会であり、それはマスメディアにいる私たちが、真面目に受け止めるだけの価値がある。


――一体何人の人々がアドバスターズの呼びかけに呼応したのですか?グループの大きさはどれくらいですか?またどのくらいの大きさになったのですか?

 元のアドバスターズの呼びかけは、九月一七日に二万人で金融街に押しかけることを想定していた。おそらくは、その一〇倍がその日にやって来た。巨大な匿名の力を利用したソーシャル・メディアの電撃戦だったが、多く人々は単にそれを知らなかった。労働組合や平和団体といった伝統的な進歩的組織は、これほど不定形な行動に参加することに躊躇していた。困難な一週間を通して、ほとんど毎日誰かが逮捕され、休みのために抜ける者がいる一方で、新顔が現れ続けていた。先週末の大量逮捕と警察の暴行容疑以来、マスメディアは大きく報道するようになった。今では、日中も夜中になっても、五〇〇人以上の人々が広場におり、おそらくその半分が宿泊している。いかなる時点でも、世界中の数千人の人々が、毎日二四時間体制でインターネットの生中継を視聴している。

 始まった当初の大衆運動よりも、この占拠は、相対的に数の少ない若い活動家たちの肩にかかるようになった。喜んで屋外で眠り、警察の脅しに直面し、固い決意を持つ勇敢な若者たちだ。しかし、それも変わりつつある。噂が広まると、群衆は年かさになり、より多様になった。このどこかしら荒っぽい占拠戦略は既に、伝統的なデモ行進のそれよりも、はるかに多くの影響力を獲得した。結局のところ、二万人が、銀行救済と公務員への予算削減に抗議して、五月一二日にウォール街に行進したのだが、誰がそれを覚えているだろう。


――占拠にとって「勝利」とされるものは何ですか?

 これもまた、誰に訊ねるかによる。九月一七日が近づくにつれて、ニューヨーク市ジェネラル・アセンブリーが抱いていた目標とは、いくつかの法律を通過させることでも、革命に関する新種の運動を築くことでもなかった。彼らの望みは、似たような、同じ精神に基づくアセンブリーを、ニューヨーク市中で、そして世界中で促進することにあった。それらは、圧倒的な企業のお金の影響に対抗する、この国の政治的組織化の基盤となるかもしれなかった。それが始まると、似たような数十の占拠が他都市にも出現した。もう一つの大きな占拠が数ヵ月間建設中で、ワシントンDCのフリーダム広場で、一〇月六日に始まることが予定されている。その地のオーガナイザーたちは、リバティ広場を度々訪れており、その成功と失敗から、学べるだけのものを学ぼうとしている。リバティ広場がテレビカメラで溢れかえっている時に、複数の人から聞いたのは「私たちはもう勝った!」という声だ。一方で、ようやく始まったばかりだという人たちもいる。ある意味では、両者とも正しい。


――広場中に警官がいるのですか?警察の暴力はどれくらいひどいのですか?もし行くとしたら、そのリスクは?

 警察の配備は止むことがない。これまでに、彼らとの恐ろしい出会いがいくつかあった。それはまた抗議者たちに、途方もなく勇気のいる行為をなす機会を与えるものでもあったのだが。最悪の事件は、もちろんこの前の土曜日の出来事だ。だが、小さなトラブルなら開始以来ずっと存在する。抗議者たちの大部分には逮捕されるつもりはなく、ほとんど全員が無意味なリスクを冒すつもりも、人々や財産に対する暴力を扇動する気もない。ごく普通の人々が抗議に――スーザン・サランドン、コーネル・ウェスト、マイケル・ムーアらとともに――参加するようになるにつれ、警察は運動を抑圧しづらくなるだろう。ブロードウェイのあるスローガンが言うように、「数こそ安全!参加して!」なのだ。

 それでもなお、既存の権力に挑戦することは、それも礼儀的でないやり方で、許可を超えてそうすることは、決して一〇〇%安全とはならないだろう。この運動が効果的である限り、そこにはまたリスクもつきまとう。もしあなたが参加するのなら、万が一のため、全国弁護士会(National Lawyers Guild)の電話番号を腕に書いておくのも悪くないアイディアだ。


――ウォール街に来られないのですが、何かできることがありますか?

 多くの人が既に、遠方にいて重要な役割を果たしている。これが分散化の魔法である。インターネットでは、動画の生中継を視聴することができるし、寄付することもできるし、ツイッターでリツイートすることもできる。興味を持つように、友達を励ますのもいい。また、IRCでのチャットやその他のソーシャル・メディアを通して、適当な技術を持った人々が、ボランティアで運動のウェブサイトを運営する手助けをしているし、動画を編集している。間もなく、要求に関する公式の議論が、オンラインでも広場でも起こるだろう。オフラインでは、全国で始まったばかりの無数の似たような占拠に、参加することができる。もしくは、自分で始めてもいい。

 結局は、運動のマントラの一つとなったある言葉から、常にアドバイスを受け取ることができるだろう。火曜日の夜、ジェネラル・アセンブリーの会合で一人の女性が表明したように、「恐怖ではなく愛によって、汝の心を占拠せよ」。


ネイサン・シュナイダー



訳者コメント:
 日付にある通り、昨年のウォール街での占拠から間もない頃の「ザ・ネイション」による一問一答。今となっては、要求にこだわるなど実情に合わない箇所もある。

by BeneVerba | 2012-06-01 15:50 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
プルトノミーとプレカリアート/凋落するアメリカ経済の歴史について
Plutonomy and the Precariat: On the History of the U.S. Economy in Decline
2012年05月08日 - ノーム・チョムスキー
原文:
http://www.tomdispatch.com/archive/175539/
http://www.huffingtonpost.com/noam-chomsky/plutonomy-and-the-precari_b_1499246.html


 占拠運動は、極めてエキサイトな発展を成し遂げた。実際のところ、これには前例がない。私に思いつく限り、これに似たものはこれまでに存在しない。この運動が確立した結束とつながりを、この先の長く暗い時代にも持ち耐えることができるのなら――なぜなら、勝利はすぐにはやって来ないのだから――ば、それはアメリカの歴史における重大な瞬間となるだろう。

 占拠運動が前例のないものであるという事実は、非常にもっともなことである。結局、現在は前例のない時代であり、アメリカの歴史に大きな転換を記した一九七〇年代以来そうだからである。建国以来数世紀の間、常にうまいやり方ではなかったにしろ、社会はずっと発展してきた。それとは別の話だが、一般的な進歩は、富、工業化、発展、そして希望に向かっていた。この先もこのようであるだろうという、相当に一貫した見込みがあった。非常に暗い時代でさえもそうだった。

 私は大恐慌を覚えているほどの年齢に当たる。一九三〇年代の最初の数年間――客観的に見て、当時の状況は、今日のそれよりもはるかに過酷なものだったのだが――の後でさえ、人々の精神は全く異なるものだった。「これから抜け出してやる」という感覚が、私の親類たちも含め、失業者たちの中にあった。「やがて良くなるだろう」という感覚が。

 戦闘的な労働組合――特にCIO(産業別労働組合会議)傘下の団体――による、組織化が進行していた。座り込みストライキをして、実業界を恐れさせるところまで――当時の業界紙を見ればわかる――行っていた。なぜなら座り込みストは、工場を乗っ取り、自分たちで運営するのに後一歩だからだ。ついでに言えば、労働者による奪取というアイディアは、現在特に課題となっているものであり、私たちはそれを覚えておくように努めよう。また、民衆からの圧力の結果として、ニューディール立法が出現し始めていた。困難な時代にもかかわらず、どこかしら「私たちは、これから抜け出してみせる」という感覚があった。

 現在では全く様子が違っている。アメリカの多くの人々にあるのは、広く浸透した希望のなさの感覚であり、時には絶望の感覚である。私が思うに、これはアメリカの歴史において極めて新奇な事態であり、そしてそれには客観的基礎がある。


労働者階級について

 一九三〇年代には、失業した労働者階級の人々は、やがて仕事が戻ってくると見込むことができた。しかし今は、あなたが製造業の労働者――現在の失業率はおよそ大恐慌のそれなのだが――で、現在の傾向が続くのなら、それらの仕事は戻ってこない。

 変化が起きたのは、一九七〇年代である。それには多くの理由がある。主に経済歴史学者ロバート・ブレナーが論じているのは、その基礎となる要因の一つとして、製造業における利潤率の低下があるということだ。その他にも要因はあった。そして、それは経済における大きな変化を導いた。工業化と発展へ向かう進歩の数百年からの反転であり、脱工業化と脱発展のプロセスへの転換だった。もちろん製造業の生産は海外で続き、大きな利益を上げているが、労働力にとっては良いことではない。

 それとともに、生産的な事業――人々が必要とするか使用する物の生産――から、金融的な操作へと、経済の顕著な転換がなされた。経済の金融化こそ、この時代に起きたことである。


銀行について

 一九七〇年代以前には、銀行は銀行だった。それらは国家資本主義経済の中で、期待された役割を果たしていた。銀行口座の未使用の資金を使って、例えば、家族が家を購入するとか、子どもを大学に入れるとかを支援して、潜在的に有益な目的に振り向けていた。それが劇的に変わったのは、一九七〇年代だ。大恐慌以来、それまでに金融危機はずっと存在しなかった。一九五〇年代と一九六〇年代は、アメリカの歴史において、そしておそらくは経済史においても最高に、巨大な成長の時代だった。

 それに平等主義でもあった。最下層の二〇%と最上層の二〇%が、同様にやっていた。多くの人々が理に適った生活様式――この国で「中産階級」と呼ばれ、他国では「労働者階級」と呼ばれるもの――を送るようになったが、それは本物だった。一九六〇年代には、それが加速した。かなり憂鬱な一〇年間の後、これらの年代のアクティヴィズムは、恒久的な様々なやり方で、この国を真に文明化した。

 一九七〇年代になると、突然で急激な変化が訪れた。脱工業化、生産の海外移転、そして巨大に成長した金融機関への移行。また、言わなければならないのは、一九五〇年代と一九六〇年代には、数十年後にハイテク経済となるものが発展したということだ。コンピューター、インターネット、IT革命は、実質的に国有部門で発展した。

 一九七〇年代に起きた発展が、悪循環の原因となった。それは金融部門にますます富を集中させた。これは経済に益するものではない――どころか、おそらくは経済と社会を傷付けるものだ――が、途方もない富の集中を導いた。


政治と金

 富の集中は、政治権力の集中をもたらす。そして、政治権力の集中は、この循環を増大させ加速させる立法をもたらす。立法――本質的には二大政党が一致する分野――は、企業統治と規制撤廃の諸規則だけでなく、新しい財政政策と税制の変化をもたらす。とともに、それは選挙費用の急激な増加をもたらし、政党は企業部門のポケットに、さらに深く手を突っ込むことになる。

 多くの意味において、政党は解散した。かつては、国会にいる人物が、委員会の委員長のような地位を望むのなら、彼または彼女は、主に年功序列と功績によってそれを得た。主にトム・ファーガソンが研究したテーマによれば、数年の後には、昇進のためには、党の資金につぎ込まなければならなくなった。それは、全システムを、さらに深く企業部門(特に金融部門)のポケットに突っ込ませた。

 この循環は、主に人口の一%のトップ一〇分の一に、途方もない富の集中を生みだした。一方それは、不況、もしくは人口の多数派にとっては凋落の時代を開始した。より長い労働時間、高率の負債、近年の住宅バブルのような資産インフレーションへの依存といった、不自然な手段によって、何とか人々は生活していた。アメリカにおけるそれらの労働時間は、すぐに、日本や様々なヨーロッパの地域といった、他の先進国のそれよりも高くなった。つまり、多数派にとって不況と凋落の時代がある一方で、急激な富の集中の時代があった。政治システムは、溶解し始めた。

 政策と民意の間には常にずれがあったが、それは天文学的にかけ離れたものになった。実際、それは今すぐに見ることができる。ワシントンの誰もが注目している大きな問題は何だろうか。それは赤字である。大衆にとって、正しく、赤字は大きな問題とみなされていない。そして、実際にそれは大きな問題ではない。問題なのは失業である。赤字に対処する委員会はあるが、失業に対処する委員会はない。赤字に関する限り、大衆は意見を持っている。世論調査を見てみればいい。人々は、圧倒的に富裕層へのより高い課税を支持している。富裕層の税率は、不況と凋落、そして限られた社会的利益の保護の時代に急速に低下した。

 赤字委員会の結果は、おそらくその正反対となるだろう。占拠運動は、この国の心臓に突き付けられた短剣に等しいものを、回避しようとするための大衆的基盤を提供できるかもしれない。


プルトノミーとプレカリアート

 人口の大半――占拠運動が「九九%」とイメージする人々――にとって、状況はこれまで過酷なものだったが、更に悪化することもあり得る。反転不可能な凋落の時代となるかもしれない。一方、「一%」あるいはそれ以下の人々にとっては、何の問題もない。彼らはこれまでになく富んでおり、これまでにない力を手にしており、政治システムをコントロールし、大衆を無視している。彼らが関係している限り、それが続くことができるのならば、もちろん、そうしない手はない。

 例として、シティグループを挙げてみよう。数十年の間、シティグループはもっとも腐敗した主要な投資銀行だった。レーガン時代に始まって、今に至るまで繰り返し納税者から救済措置を受けてきた。その腐敗についてはここでは繰り返さないが、極めて驚くべきものである。

 二〇〇五年に、シティグループは、投資家に対して「プルトノミー:贅沢を買う、グローバルな不均衡の説明」というパンフレットを公表した。それは、投資家たちに「プルトノミー・インデックス」に、お金をつぎ込むように促すものだった。パンフレットによれば、「世界は二つのブロックに分かれつつあります。プルトノミーと残りです」。

 プルトノミーとは、高級品などを購入する富裕層を指し、そこにこそ本物の活動があるのだった。彼らはプルトノミー・インデックスが、株式市場よりはるかに効率が良いと主張した。残りはといえば、実際に社会を構成するものではなかった。彼らのことなどどうでもいいし、我々には必要ではない。我々が問題に巻き込まれた時に、我々を保護し救済する、強力な国家を提供するために、彼らの存在は必要だが、それ以上のことでは、彼らは本質的に何の機能も果たさない。最近では、それらの人々は、時に「プレカリアート」と呼ばれている。社会の周縁で、不安定な実存を生きる人々のことだ。ただし、それはもはや周縁ではない。それは実際、アメリカやその他のどこでも、社会の実質的な部分となりつつある。そして、それは良いことだと考えられている。

 例えば、FRBのアラン・グリーンスパン議長は、経済の専門家たちからもっとも偉大なエコノミストの一人と称えられ、未だ「聖アラン」でいられた当時(彼に実質的な責任がある金融崩壊以前のことだ)、クリントン時代の国会に対して証言し、自らが監督していた偉大な経済の不思議について説明した。彼は、その成功の大部分が、実質的に彼が「増加する労働者の不安定性」と呼ぶものに、基盤を置いていると述べた。労働者たちが不安定ならば、また彼らがプレカリアートに属し、不安定な実存を生きているのならば、彼らは要求を出さず、より良い賃金を求めようとはせず、よりましな利益を得ることはできない。必要でなくなったら、彼らは追い出すことができる。技術的に言えば、それが「健全な」経済と呼ばれるものだ。そして、彼はこの発言のために非常に賞賛され、大きな評価を受けた。

 そして、世界は今プルトノミーとプレカリアートに分裂しようとしている。占拠運動がイメージするように、一%と九九%に。これは実際の数字ではないが、正しく状況を描き出している。今では、プルトノミーこそ実際の活動がある場所であり、今後もそのように続くかもしれない。

 そうであるならば、一九七〇年代に始まった歴史的な転換は、反転不能なものとなる。私たちが向かっているのは、そこである。そして占拠運動は、これを回避するかもしれない、最初で、本物の、主要な、民衆による反応である。だが、長く困難な闘いになるという事実に、目を向けることが必要になるだろう。明日に、勝利を勝ち取ることはできない。維持することができ、困難な時代に耐えることができ、大きな勝利を勝ち取ることのできる構造を形成しなければならない。そして、なすことのできることは数多くある。


労働者による奪取に向けて

 先に述べたように、一九三〇年代にもっとも効果的な行動の一つは、座り込みストライキだった。そして、その理由は単純である。それが産業の奪取にあと一歩だからだ。

 一九七〇年代を通して、凋落がやって来るにつれ、いくつかの重要な出来事が起こった。一九七七年には、USスチールが、オハイオ州ヤングズタウンにある主な施設の一つを閉鎖することを決めた。従業員たちとコミュニティは、単に歩き去る代わりに、団結して会社からそれを買い取り、労働者に明け渡して、労働者が運営し管理する施設に変えることに決めた。彼らは、勝利することができなかった。だが、充分な支持を得れば、彼らは勝つこともできた。これはガー・アルペロヴィッツと、労働者たちとコミュニティのために弁護士として働いたストートン・リンドから詳しく聞いた話だ。

 彼らが敗北したとしても、部分的には勝利し、その他の努力の引き金となった。現在ではオハイオ中とその他の場所に、数百の、時にはそれほど小さくない、労働者管理に転換可能な労働者/コミュニティ所有の産業がある。そして、それは本物の革命の基礎となるものだ。それはどうやるべきかの見本だ。

 ボストン郊外のある場所で、約一年前に、よく似た何かが起こった。ある多国籍企業が、利益を生み出し、機能しているハイテク製造の施設を閉鎖することを決定した。明らかに、彼らにとっては充分に利益を生むものではなかったのだ。従業員たちと労組は、それを買い、引き取り、自分たちで運営することを申し出た。多国籍企業は、おそらく階級意識的な理由で、そうせず閉鎖することに決めた。思うに、彼らはこうしたことが起きてほしくなかったのだろう。民衆からの充分な支持があれば、関係することのできる占拠運動のような何かがあれば、彼らは成功していたかもしれない。

 他にもこのようなことは起きている。実際、そのうちのいくつかは有名である。そう遠くない昔に、オバマ大統領は自動車産業を引き取り、基本的にそれは市民によって所有されるものになった。なすことができたことは数多くあったが、そのうちの一つは実際になされたものだ。オーナーシップか、よく似たオーナーシップの元に返すことができるようにしておき、伝統的なやり方で続けるというものだ。

 他の可能性は、それを労働者たち――いずれにせよ彼らが所有しているのだ――の手に明け渡し、労働者の所有・管理により、経済の根幹となる主要な産業システムに変え、人々が必要とするものを生産することだった。そして、私たちが必要とするものは、多くある。

 私たちがみな知っているか、知っておくべきであるのは、世界的に見て、アメリカは高速輸送において極めて遅れており、それが深刻な問題だということだ。それは人々の生活だけではなく、経済にも悪影響を与えている。それについては、個人的な話がある。数ヵ月前にフランスで話す機会に恵まれたのだが、南仏のアビニョンから、パリのシャルル・ド・ゴール空港まで列車に乗らなければならなかった。ワシントンDCからボストンまでと同じ距離である。二時間だった。ワシントンからボストンまで列車に乗ると、私と妻がそれに初めて乗った六〇年前と同じ速度で運行しているのだ。これはスキャンダルである。

 ヨーロッパでなされているのと同じように、ここでもなされることが可能なはずだ。彼らにはそれをなす能力――熟練した労働力――があった。民衆からの支持が少しばかり必要かもしれないが、経済に大きな変革をもたらすことが可能だろう。

 事態をより超現実的にしているのは、この選択が避けられている一方で、オバマ政権が運輸省の長官を、アメリカのために高速鉄道を開発するという契約のため、スペインに派遣しているという事実だ。それは、現在操業停止中のラスト・ベルト〔斜陽化した工業地帯〕でなされるべきだったろう。それが起きないことを示す、経済的理由は何もない。階級的な理由ならばあり、それは民衆による政治的結集の欠如を反映したものだ。こうしたことは続くだろう。


気候変動と核兵器

 これまでは国内問題について話してきたが、国際分野では二つの危険な開発が行われている。それらは、これまでに議論してきたこと全てを覆う、影のようなものだ。人類の歴史において初めて、種のまともな(decent)生存に対する本物の脅威がある。

 一つの影は、一九四五年から垂れ込めていたものだ。私たちがそれを逃れることができたのは、ある種の奇跡だ。それは核戦争と核兵器の脅威である。多くは議論されていないが、実際、この脅威は、この政権とその同盟諸国の政策によって、拡大している。そして、それについて何かがなされなければ、私たちは深刻な問題に巻き込まれるだろう。

 もう一つは、もちろん環境的なカタストロフィだ。事実上、世界の全ての国が、それに関して何かをなそうとして、少なくともたどたどしい措置を執っている。アメリカもまた措置を執っているが、それは主に脅威を増大させる方向にである。この国は、環境を守るために建設的な何かをしていない唯一の主要国である。それは列車に乗ろうとしていないどころか、後ろ向きに動かしている。

 これは、巨大なプロパガンダ・システムと関係がある。実業界が誇らしげかつあからさまに宣言しているように、それは気候変動がリベラル派の作り話に過ぎないと、人々に思わせようとしている。「なぜ科学者なんかに注意する必要があるんだ?」というわけだ。

 私たちは本当に、暗黒時代へと逆行している。これは冗談ではない。それが史上もっとも強力で豊かな国で起きているのなら、このカタストロフィは避けられないだろう。一つか二つの世代のうちに、私たちが話している他のことは重要でなくなるだろう。特別かつ持続したやり方で、これについて何かがすぐになされなければならない。

 前進するのは、容易ではない。そこには、障壁、問題、困難、失敗があるだろう。それは不可避だ。だが、ここやその他の地で、そして世界中で持ち上がった昨年の精神が、広がり続けて社会的経済的な世界で主要な力とならない限り、まともな未来を得る可能性はそれほど高くはない。



訳者コメント:
 ハフィントン・ポストとトムディスパッチの両方に投稿されたチョムスキーの論考、それらによれば新著『オキュパイ』からの抜粋とのこと。その元は昨年10月のスピーチらしいので、おそらく「未来を占拠せよ」として翻訳したボストンでの講演だろう。

[同日の変更]
 千葉学氏からの指摘で、「vicious cycle」の訳語を「悪循環」に。単純ミス。その他ニ、三の語の見直し。

by BeneVerba | 2012-05-26 04:20 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
「ウォール街を占拠せよ」:次になされるべきは何か?
Occupy Wall Street: what is to be done next?
2012年04月24日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2012/apr/24/occupy-wall-street-what-is-to-be-done-next


 「ウォール街を占拠せよ」運動の余波の中で何をなすべきか、遙か彼方で始まった抗議――中東、ギリシア、スペイン、イギリス――が、中心へと到達し、増幅され、世界を席巻しているのだろうか?

 二〇一一年一〇月一六日のOWS運動のサンフランシスコでの反響において、一人の男が、まるでそれが一九六〇年代のヒッピー流のハプニングであるかのように、群衆に参加を呼びかけながら話しかけた。
「やつらは俺たちのプログラムは何だと訊いている。俺たちにプログラムなんてない。俺たちは楽しい一時を過ごすためにここにいるんだ」

 こうした表明は、抗議者たちが直面している最大の危険の一つを示している。彼らが、「占拠中」の場所で楽しい時間を過ごし、自分自身と恋に落ちるという危険である。カーニヴァルは安く付く――彼らの価値への真の試練はその後に何を残すか、我々の通常の生活がどの様に変わるのかだ。抗議者たちは辛く根気のいる労働と恋に落ちるべきなのだ――彼らは始まりであって、終わりではない。彼らの基本的なメッセージは、「タブーは破られた。我々は最善の可能世界に住んでいるわけではない。我々はオルタナティブについて考えることを許されている、義務付けられてさえいる」というものだ。

 ある種のヘーゲル哲学的な三つ組(triad)において、西側の左翼は元の場所へと回帰した。反レイシズムやフェミニズムなどの闘争との複数性のために、いわゆる「階級闘争の本質」を放棄した後、「資本主義」は現在明らかにその問題の名で再興隆している。

 最初に禁止しなければならない二つのことは、それゆえに、腐敗を批判することと金融資本主義を批判することである。第一に、人々と彼らの態度を非難してはならない。問題なのは腐敗や貪欲ではなく、腐敗へと駆り立てる体制である。解決策は、目抜き通りでもウォール街でもなく、目抜き通りがウォール街なしに機能しない体制を変えることだ。ローマ法王を始めとする著名人たちは、過剰な貪欲と達成の文化と戦えとの指令を、私たちに浴びせかけた――もしそうしたものがあるとしたら、この安っぽい道徳化のむかつくような光景は、まさにイデオロギー上の作戦である。体制それ自体に刻み込まれた(拡張された)衝動が、個人の罪、個人的な心理学的特質に翻訳されている。もしくは、法王に近い神学者の一人がこう述べたように。
「現在の危機は資本主義の危機ではなく、道徳性の危機なのです」

 エルンスト・ルビッチの『ニノチカ』の有名な冗談を思いだそう。カフェテリアを訪れた主人公が、クリーム抜きのコーヒーを注文する。するとウェイターがこう答えるのだ。
「申しわけございません、手前どもは現在クリームを切らしておりまして、ミルクしかございません。ミルク抜きのコーヒーならお持ちできますが?」

 一九九〇年の東欧の共産主義体制の解体において、よく似たトリックが働いたのではないだろうか?抗議した人々が求めていたのは、腐敗と搾取のない自由と民主主義だった。彼らが得たのは、連帯と正義のない自由と民主主義だった。同じ様に、法王に近いカソリックの神学者は用心深く、資本主義を攻撃することなしに、道徳的不正、貪欲、消費主義などを攻撃することを抗議者たちに求めている。資本の自己増進性は、これまでにないほど私たちの生活の究極の現実に食い込んでいる。資本主義は、その定義から言って、制御不可能な獣である。

 失われた大義に対するナルシシズムの誘惑、失敗する運命にあった蜂起の崇高な美を崇める誘惑は避けねばならない。蜂起の崇高な熱狂が終わったその後で、どのような新しい積極的な秩序が古いそれに取って代わるべきなのか?この重要な点において、我々は抗議の致命的な弱点に遭遇する。彼らは、最小限の積極的な社会政治的変革プログラムへと変容することのない真性の怒りを表明した。彼らは、革命なき反逆(revolt without revolution)の精神を示したのだ。

 パリでの一九六八年の抗議に反応して、ラカンはこう言った。
「革命家として、あなた方が切望するのは新しい主人である。あなた方はやがてそれを得るだろう」

 ラカンの評言は、スペインのインディグナドスに対しても(そればかりではないが)、その対象を見いだせるようだ。彼らの抗議が、古いそれを置き換える新しい秩序の積極的なプログラムを欠き、主人を求めるヒステリー的な憤激である限りにおいて、たとえ否認するにせよ、新しい主人を求める声として効果的に機能する。

 我々はこの新しい主人をギリシアとイタリアに見ている。おそらくスペインがそれに続くだろう。あたかも抗議者の専門的なプログラムの欠如に回答するかのように、政府の政治家を非政治的なテクノクラート(ギリシアやイタリアがそうであるように、ほとんどが銀行家)からなる「中立な」政府に取り替えるというのが、現在の傾向である。彩り豊かな「政治家」は外、灰色の専門家は内というわけだ。この傾向は明らかに、永続的な緊急事態と政治的な民主主義の停止に向かうだろう。

 したがって、我々はこの発展の中にまた挑戦も見出さなければならない。イデオロギーのもっとも冷酷な形態として、非政治的な専門家の支配を拒否するだけでは充分ではない。優勢な経済組織に替えて、何を提案すべきかもまた真剣に考え始めるべきなのだ。代わりとなる組織の形態を想像し実験するべきなのだ。新しいものの芽生えを探し求めるべきなのだ。共産主義は体制が停止した時の単なる、あるいは優勢な集団抗議のカーニヴァルではない。共産主義は何よりもまた新しい形態の組織であり、規律であり、重労働なのだ。

 抗議者たちは敵だけではなく、彼らを支持するふりをしているが、抗議を薄めようと忙しく働いている偽の友たちにも注意するべきだ。我々がカフェイン抜きのコーヒーを、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを渡されるのと同じやり口で、彼らは抗議を無害で道徳的な身振りに替えようとするだろう。ボクシングにおいて「クリンチ」が意味するのは、パンチを予防するか妨げる目的で、対戦者の身体を片方ないし利用法の腕でつかむことである。ビル・クリントンのウォール街抗議への反応は、政治的クリンチの完璧な例だ。クリントンは抗議を「全体的に考慮すれば……積極的なことだ」と考えているが、抗議の不明瞭さを心配している。クリントンは抗議者たちにオバマ大統領の雇用計画を支持するように示唆した。それによれば「次の一年半の間に数百万の雇用が創出されるだろう」。この段階で抵抗すべきなのは、まさにこうした抗議のエネルギーを一連の「具体的で」実用的な要求に素早く置き換えようとする行為だ。そう、抗議は真空を作り出した。真に新しいものの幕開けとなるものを。抗議者たちが街頭へと繰り出した理由は、コーラの空き缶をリサイクルすることで、チャリティとして数ドルを寄付することで、もしくはスターバックスのカプチーノを買うと、その一%が第三世界の抱える問題にいくことで、彼らを満足させて、それで良しとしているこの世界にうんざりしているからなのだ。

 経済のグローバリゼーションは漸進的に、だが容赦なく西側の民主主義の正統性を損なっている。それらの持つ国際的な性格のせいで巨大な経済的プロセスは、定義により国民国家に限られている民主的な機構によって制御することができない。そのために、人々はさらに制度的な民主的形態が彼らの死活問題をとらえることができないという事態を経験する。

 マルクスの重要な洞察がこれまでになく未だ有効なのはここだ。マルクスにとって、自由の問題は、厳密に政治的分野の第一に置くべきものではなかった。実際の自由への鍵は、市場から家族までの、社会的諸関係の「非政治的な」ネットワークに存するものだった。そこでは、我々が実際の改善を望むのなら必要な変化は政治的な改革ではなく、「非政治的な」生産の社会的諸関係を変えることだった。誰が何を所有するかについて投票したりはしないし、工場での関係について投票したりしない……などなど。こうした全てのものは政治的な分野の外側のプロセスに委ねられている。民主主義をこの分野にまで「拡張する」ことによって、ものごとを効果的に変えることができると期待するのは非現実的である。言うなれば、人々の管理下にある「民主的な」銀行を運営しようというようなものだ。そうした「民主的な」手続き(もちろんそれらは積極的な役割を果たすことができるが)においては、我々の反資本主義がいくらラディカルなものであっても、解決策は民主的な機構の適用を模索される。それは――決して忘れるべきではないことに――資本の再生産の円滑な機能を保証する「ブルジョワ」国家の国家機構の一部なのだ。

 一貫したプログラムのない国際的な抗議運動の出現は、それゆえに偶然の出来事ではない。それは明確な解決策のないより深刻な危機の反映である。状況は精神分析のそれに類似している。患者は答えを知っている(彼の症状がそのような答えだ)が、何に対する答えなのかを知らず、分析家が問題を構成しなければならない。そのような根気強い仕事を通してのみプログラムは出現するだろう。

 かつてのドイツ民主共和国の古い冗談にこういうものがある。ドイツの労働者がシベリアで働くことになった。全ての手紙が検閲官に読まれることを知っていたので、友人にこう言った。
「暗号を決めておこう。君が私から受け取った手紙が普通の青いインクで書かれていたら、それは真実だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ」

 一ヵ月後、彼の友人は全てが青い色で書かれていた最初の手紙を受け取った。
「ここは全く素晴らしいところだ。商店は品揃えが良い。食料は豊富にある。アパートメントは広々としてちょうど良い暖かさだ。映画館では西側の面白い映画をやっている。お楽しみが欲しければ美しい女の子たちだっている。……ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ」

 これが今まで私たちが置かれてきた状況ではないだろうか?私たちには望む全ての自由がある――ただ欠けているのは「赤いインク」だけだ。私たちが自由だと感じるのは、私たちの不自由を明確に現すその言語を欠いているからだ。この赤いインクの欠如が意味するものは、現在の紛争を示すために我々が用いる全ての主要な用語――「テロとの戦い」「民主主義と自由」「人権」など――が偽物であり、我々にそれを思考する代わりに、我々の状況認識を惑わすものだということだ。

 今日の課題は、抗議者たちに赤いインクを与えることである。



訳者コメント:
 ツイッターで翻訳のリクエストがあり、翻訳。このブログの読者ならおわかりのように、これまでに発表した文章やスピーチとの重複が多い。特に昨年の「ウォール街を占拠せよ」でのスピーチと重なる部分は明かであろう。

 付け加わった部分については、訳者がその能力に達していないこともあり(もっとマルクスを読まないと……)コメントを割愛させていただきたい。

by BeneVerba | 2012-05-18 03:06 | 翻訳 | Trackback | Comments(2)
「ウォール街を占拠せよ」のアナーキズムのルーツ
Occupy Wall Street's anarchist roots
2011年11月 - デヴィッド・グレーバー
原文:http://occupywallst.org/article/occupy-wall-streets-anarchist-roots/


 主流派メディアのジャーナリストから「ウォール街を占拠せよ」に関するインタビューを受けると、いつも受け取るのは、ほとんどいつも全く同じお説教のいくらか異なるバリエーションだ。

 「リーダーシップ構造も実践的な要求の一覧もなしに、いったいどうやってどこかにたどり着くなんてことができるのですか?それにこのアナーキスト的ナンセンスは何です――コンセンサスだとか、指先のひらひら〔ジェネラル・アセンブリーで用いられる身振り言語のこと〕だとか?こうしたラディカルな言語の全てが、みんなを遠ざけていることがわからないのですか?こんなものでは、平均的で主流派のアメリカ人に訴えかけることはできませんよ!」

 もし、これまでに受けた最悪のアドバイスを収集したスクラップブックを作成するのならば、こうした種類の意見は名誉ある地位を占めるに値するだろう。結局のところ、二〇〇七年の金融崩壊以来、アメリカの金融的エリートの略奪行為――そのようなジャーナリストがそそのかしたものなのだが――に対して全国的な運動をしかけようとする試みは、数十もあった。しかし、ようやく八月二日になって、アナーキストと若干の反権威主義者からなる小集団が、そのような集団の一つの呼びかけによって集会を開き、全員を計画されたデモ行進から、基本的にアナーキストの諸原則に基づく正真正銘の民主主義的な集会の作成に同意させた。その日こそが、ポートランドからタスカルーサまでのアメリカ人が、進んで支持する運動が定められ日だった。

 ここで、私は「アナーキズムの諸原則」という言葉で、何を意味しているのかをはっきりさせておくべきだろう。アナーキズムを説明するもっとも簡単な方法は、それは正真正銘の自由な社会をもたらすことを目的とした政治運動だと述べることだ――それは、恒常的な暴力に強制されることなしに、人間がお互いとの諸関係に入ることができる社会だ。歴史の示すところによれば、富の途方もない不平等、奴隷制のような制度、負債による奴隷労働、賃金労働などは、軍隊、監獄、警察の支えなしに存在することができない。アナーキズムは、参加者の自由な同意に基づいてのみ存在する、平等と連帯に基づいた社会を思い描く。


アナーキズム対コミュニズム

 伝統的なマルキシズムは、もちろん、同じ究極の目標を追い求めていたが、重要となる違いがあった。ほとんどのマルクス主義者は、まず国家権力とそれに付随する官僚的な暴力の全てのメカニズムを取得し、社会を変えるのにそれを使用することが必要だという考えに固執した――そのようなメカニズムが、究極的には余分なものになって消え失せるだろうという地点まで。一九世紀においてさえ、アナーキストたちは、これをただの白昼夢だと言っていた。彼らの議論によれば、戦争を訓練することによって平和を作ることはできないし、トップダウン型の指揮系統によって平等を作ることはできないし、ついでに言うのなら、全ての個人的な自己実現と自己達成を大義に捧げる厳めしく喜びに欠けた革命家になることによって、人間の幸福を達成することはできない。

 目的が手段を正当化しないというだけではない(正当化しないが)、目的それ自体が達成したいと望む世界のモデルでない限り、目的は決して達成されないのだ。それゆえに、有名なアナーキストの呼びかけは「旧世界の殻の中で、新しい社会を築き」始めようというものなのだ。フリー・スクールから、ラディカルな労組、田舎でのコミューンまでの平等主義的な実践において。

 アナーキズムもまた革命的イデオロギーである。そして、その個人の良心と自発性への強調は、革命的アナーキズムの最初の最盛時であったおよそ一八七五年から一九一四年の間には、多くが国家と資本家のトップに対して爆弾や暗殺で直接戦うことを意味した。それゆえに、一般的なアナーキストのイメージは爆弾魔なのだ。おそらくアナーキズムが、テロリズムが――たとえ無実の者を対象としなくとも――うまくいかないことに気付いたおそらくは最初の政治運動だったことは注目に値する。一世紀近くたった今、実際のところアナーキズムは、その主導者が誰も暴力的に排除しようとしない数少ない政治哲学の一つである(実に、アナーキストの伝統を利用した二〇世紀の政治的指導者は、マハトマ・K・ガンジーである)。

 一九一四年から一九八九年の期間――世界が絶え間なく世界戦争を行っていたか、その準備を行っていた期間――には、アナーキズムはまさにその理由で陰に隠されてしまった。そのような暴力的な時代においては、政治運動は軍隊、海軍、弾道ミサイルシステムを組織化する能力を保持していなければならなかった。それはマルクス主義者が優れているところのものだ。だが、信用に関わるからというよりも、アナーキストは決してそれをうまくやることができないだろう。アナーキズムの諸原理に基づくグローバルな革命的運動――グローバル・ジャスティス運動――が急速に再出現したのは、大規模な戦争終結が終わったように見えた一九八九年のことである。

 それでは、どのようにOWSはアナーキズムの諸原則を具現化しているのだろうか?論点ごとに述べた方がよいだろう。

1.既存の政治的諸制度の正統性を承認することの拒絶

 喧しく議論された要求を出すことの拒絶の理由は、要求を出すと言うことは、要求が宛名として作成された人々の正統性を――少なくとも権力を――認めるということだからだ。アナーキストはよく抗議活動と直接行動の違いを強調する。いくら戦闘的であっても、抗議活動は権威者に対して異なる振る舞いを要求するものだ。直接行動は――井戸を掘ることであれ、法律を無視して塩を作る(これもガンジーが好例だ)といった共同体の問題であれ――既存の権力構造が存在しないかのように振る舞うことなのだ。直接行動は、究極的には、人は既に自由であるかのように行動するという反逆的な主張なのだ。


2.既存の法秩序の正統性を受け入れることの拒絶

 第二の原則は、明白なことに、第一の原則から導かれる。占拠運動の当初、計画のための集会をニューヨークのトンプキンス・スクエア公園で開いていた時から、オーガーナイザーたちは、公共公園での警察の許可のない一二人以上の集まりを禁止する市の条例を承知の上で、無視していた。単に彼らの見地からは、そのような法律は存在すべきではなかった。同じ見地によって、もちろん、私たちは公園を占拠したのだ。中東から南欧までの先例が息吹を与えていた。その見地からすれば、公衆として、私たちは公共の空間を占拠するのに許可を必要とするべきではなかった。これは、とてもささやかな形態の市民的不服従かもしれないが、私たちが法的ではなく道徳的な秩序に答えたことで始めたのは決定的なことだった。


3.内部に階層秩序を作ることの拒否,その代わりにコンセンサスを基盤とする直接民主主義を作ること

 占拠運動の当初から、また、オーガーナイザーたちは、指導者のいない直接民主主義によるのみならず、コンセンサスによって運営するという大胆な決定をしていた。最初の決定は、私物化や強制の可能性のある公式のリーダーシップ構造がないことの確認だった。二番目の決定は、マジョリティはマイノリティを意志に従わせてはならない、全ての重要な決定は全体の同意によるものでなければない、というものだった。アメリカのアナーキストは長い間、強制なしに運営できる唯一の意志決定の形態だという理由で、コンセンサスの過程――フェミニズム、アナーキズム、クエーカー教徒のような精神的な伝統、などの合流点に形成された伝統――が重要だと見なしていた。したがって、もしマジョリティがマイノリティにその命令に従わせる手段がないなら、全ての決定は必然的に全体の同意によってなされなければならなかった。


4.予見的な政治を抱擁する

 結果として、ズコッティ公園とそれに続く全ての野営地は、新しい社会の諸制度を築く実験場となった――ジェネラル・アセンブリーだけではなく、キッチン、図書館、診療所、メディア・センターなども。全ては、相互扶助や自己組織化といったアナーキズムの市世原則に基づいて運営されていた。新しい社会の諸制度を古い社会の殻の中で作ろうとする真の試みだ。

 なぜそれはうまくいったのか?なぜそれは広まったのか?一つの理由は、明らかに、既存のメディアがそうするよりも多く、はるかに多くのアメリカ人がラディカルなアイディアを進んで受け入れたからだった。アメリカの政治的秩序は絶対的かつ矯正不可能なほど腐敗している。どちらの党も人口の最も豊かな1%によって売買されている。真に民主主義的な社会に住みたいのなら一から築き上げなければならない――といった基本的なメッセッージは明らかにアメリカの魂の奥深いコードをかき鳴らしたのだ。

 おそらくこれは驚くべきことではない。私たちは一九三〇年代に比肩するような状況に直面しているのだから。主な違いはと言えばメディアが断固としてそれを認めようとしないことだ。アメリカ社会におけるメディア自体の役割について、興味深い疑問が持ち上がる。ラディカルな批評家は、通常企業に支配されたメディア(corporate media)を、彼らが呼ぶ通り、主に既存の制度が健全で、妥当で、公正だと公衆に確信させるために存在するとみなしている。彼らがこれが可能だと本当には見ていないことは、ますます明らかになっている。それよりも、メディアの役割は単にますます怒れる公衆たちに、他の誰もが同じ結論には達していないと確信させることにある。結果は、誰もが本当には信じていないイデオロギーである。しかし、ほとんどの人々は、少なくとも他の人々は疑っているのではないかと疑っている。

 普通のアメリカ人が本当には何を考えているのかと、メディアと政治的エスタブリッシュメントが彼らはこう考えていると言うこととの乖離は、民主主義について語る時により明瞭になる。


アメリカの民主主義?

 公式の物語によれば、もちろん、「民主主義」とは建国の父たちによって創設されたもので、大統領、議会、司法のチェック・アンド・バランスに基づく制度だ。事実として、独立宣言の中でも憲法の中でも、アメリカが「民主主義」であるとは一言も述べられていない。それらの文書の起草者たちは、ほとんど一人残らず、「民主主義」を民衆集会による集団的自己統治の問題と定義していた。そして、そのようなものとして彼らはそれに断固とした態度を取っていた。

 民主主義は群衆の狂気を意味していた。血なまぐさく、騒々しく、筋道のないものを。「自殺しなかった民主主義はなかった」とアダムスは書いた。ハミルトンは「裕福で生まれの良い者」が民主主義の「軽率」をチェックする恒常的な総体を作り出すのに必要だとして、下院で許可されている限定的な形態さえも含め、チェック・アンド・バランスの体制を正当化した。

 その結果がリパブリックだった。アテネではなく、ローマをモデルとしたそれである。それが一九世紀初期には「民主主義」として再定義された。なぜならアメリカ人は今と違ったものの見方をしており、自らを「デモクラッツ」と呼ぶ候補者に対して、投票することに――投票することが許された者はだが――執拗なまでに傾きがちだったからだ。しかし普通のアメリカ人はその言葉で何を意味していたのだろうか?そして、今のアメリカ人は何を意味しているのだろうか?アメリカ人は本当に、自分も一枚加わって政治家が政府を運営する体制をただ意味していたのだろうか?それはありそうもないようだ。結局、ほとんどのアメリカ人は政治家を嫌悪しているし、政府というアイディアそのものに懐疑的な傾向がある。もし、彼らが政治的理想として普遍的に「民主主義」を抱いているのなら、曖昧ではあれ、彼らがそれをまだ――自己統治として――見ているからに他ならない。建国の父たちが非難する傾向にあった「民主主義」として、あるいは、彼らが時にはまたそう表現したように「アナーキー」として。

 もし他に何もないのなら、これがアメリカのメディアと政治階級の横並びの軽蔑的無視にもかかわらず、直接民主主義の原則に基づいた運動を人々が熱狂とともに迎え入れた理由を説明するものだろう。

 実際、アナーキズムの諸原則――直接行動、直接民主主義、既存の政治的制度の拒否、そしてもう一つのそれを作ろうとする試み――に深く基づく最初の運動がアメリカに出現したのは、これが初めてではない。市民権運動(少なくともそのラディカルな分派)、反核運動、グローバル・ジャスティス運動などは全て似た方向を目指している。しかしながら、決してこれほどまでに驚くほど急速に拡大した例は他にはない。オーガナイザーたちが今度こそ根本的矛盾に立ち向かったのが理由の一つだろう。彼らは、支配的エリートが民主主義を主宰しているという見せかけに挑戦したのだ。

 もっとも基本的な政治的感覚について、ほとんどのアメリカ人は深い葛藤を抱えている。ほとんどの人が、個人の自由に対する深い敬意と軍隊や警察といった制度に対する信仰にも近い自己同一化とを併せ持っている。ほとんどの人が、市場への熱狂と資本家への憎悪を併せ持っている。ほとんどの人は、心の奥からの平等主義者であると同時に、根深いレイシストだ。実際にアナーキストである者はごくわずかであり、「アナーキズム」が何を意味するのかを知る者は、ごくわずかである。どれ程多くの人が――例え彼らが学んでいたとしても――最終的に国家と資本主義を完全に破棄したいと望んでいるのかは定かではない。

 圧倒的な数のアメリカ人が感じている一つのことは、彼らの国はとてつもなくどこかが間違っているということなのだ。主要な機関が傲慢なエリートによって操作されているということなのだ。何らかのラディカルな変化が訪れるべき機が熟してからもう長くなる。彼らは正しい。これほど体系的に腐敗した政治体制を想像するのは難しい――あらゆるレベルの収賄が合法になされているというだけでなく、賄賂の売り込みと分配が全てのアメリカの政治家の全時間の仕事なのだ。憤慨は適切なものだ。問題は、九月一七日までは、それが何であるにせよラディカルな解決策を提案しようとしたのが、右側だけだったことだ。

 過去の運動の歴史を見るとはっきりしているように、民主主義の勃発ほどアメリカを運営している者たちを恐れさせるものはない。民主的に組織された市民的不服従の控えめな閃きに対してさえ、即座の反応は混乱した譲歩と不当な暴力の混合なのだ。いったい他に、最近の数千の機動隊の集結、殴打、化学的攻撃、大量逮捕――市民たちはまさに民主的な集会に参加していた。それは権利の章典が守るように指定していた――を説明する理由があるだろうか。そして誰の犯罪――もし少しでもあればだが――が、地域の野営規則に違反していると言うのだろうか?

 我らがメディアの識者たちは、もし平均的なアメリカ人が「ウォール街を占拠せよ」におけるアナーキストの役割にいったん気付けば、衝撃と恐怖で逃げ出すだろうと主張するかもしれない。しかし、私たちの支配者たちは、それよりも、もしそれなりの数のアメリカ人がアナーキズムが本当には何であるかを見出せば、彼らはあらゆる種類の支配者など不要だと決定するかもしれないことを恐れているようだ。

by BeneVerba | 2012-05-04 13:37 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
メーデー連帯共同宣言
May Day Declaration of Solidarity
2012年05月01日 - ウォール街を占拠せよ
原文:http://occupywallst.org/article/declaration-of-solidarity/

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 法律化せよ!組織化せよ!組合化せよ!

 私たちを聞いてほしい。私たちは聞かれる必要がある。私たちは聞かれるだろう!


 私たちはメーデーを祝うためにここにいる。私たちは目的の統一を見出した力として、私たちの力を祝うためにここにいる。私たちは世界中の人民との連帯を宣言する。私たちは、経済的な安定、意味のある労働、ヘルスケア、公共サービス、安全で健康的なコミュニティ、自由、幼稚園前から大学までの質の高い公立教育、そして市民的自由といった私たちの諸権利を確認する。今日私たちは、そうした諸権利を確かにするための、民衆行動を起こす全ての人々と連帯して立つ。また私たちは、不平等を育む体制に挑戦する正真正銘の同盟の結成を開始する。

 私たちがここにいるのは蔓延する社会的・政治的・経済的不平等を非難するためである。一握りの政治的経済的エリートたちが、民主主義の名の下に統治する時代の終わりを、私たちは探し求める。私たちは、私たちの人権への攻撃を終わらせたい。私たちは、富裕層の税金逃れを終わらせたい。私たちは、私たちの組織化する権利への攻撃を終わらせたい。私たちは、有色人の大量投獄を終わらせたい。私たちは全ての戦争を終わらせたいし、外交政策の軍国主義化を終わらせたい。私たちは、一%の人々によって売買されている現在の政治体制を終わらせたい。私たちは、法律化、平等の権利、公民権、そして移民労働者家族の市民権獲得への道を求める。私たちは市民権を求める。それは、そうあるべきなように、全ての民衆は政府によって正当に平等に取り扱われるべきだからだ。

 一世紀の間メーデーが、春の兆しが善良なる意志を持つ人々を、革命的な刷新のヴィジョンへと導く時であったことを思い起こそう。これらの夢を私たちから追い払おうとする、強い望みがある。しかし、決してそうなることはないであろう。地球規模で拡大中の正義を求める蜂起の余波を受けたこのメーデーの日に、私たちは恐れることなく、私たちを分断する境界が無意味になる世界を、共通の利益のために共同体が自らの資源を管理する正真正銘の民主主義的な文化の誕生を、そして地上におけるどんな人類の価値と尊厳が他の人類に比べて劣るものではないとする世界を前方に見つめるものである。

 我ら人民――組合に加入する者も、していない者も、被雇用者も失業者も、公務員も民間労働者も、不法滞在者もそうでないものも――いまここで、全世界の人民との連帯にあるという立場を再び明らかにしよう。私たちの革命的精神は拡大し深化し続けるであろう。

 私たちがここにいるのは、「もう一つの世界は可能であるだけではない。それはもうこちらに向かっている」と知らせるためである。私たちはタハリール広場である。私たちはシンタグマ広場である。私たちはプエルタ・デル・ソルである。私たちはウィスコンシンである。私たちはオハイオである。私たちはニューヨークである。私たちはプエルトリコである。私たちは、ロサンジェルスである。私たちはオークランドである。そして、この国と世界の都市の有象無象(multitude)である。


 自由を開化させよう!

 ¡Si se puede!



--joint declaration from May 1st Coalition, Labor union representatives, La Fuente, New York Immigration Coalition, New Immigrant Communities Empowered (NICE), El Centro de Inmigrante, National Institute for Latino Policy, Mothers on the Move, National Lawyers Guild, Occupy Wall Street Immigrant Worker Justice Working Group, Occupy Wall Street en Espanol, Occupy Wall Street Latin America, National Lawyers Guild, Community Farmworker Alliance, Adelante Alliance, Jornaleros Unidos, Restaurant Opportunities Center-NY, Domestic Workers United, New York Taxi Workers Alliance, Laundry Workers Center United, Brandworkers International, Independent Workers Movement, La Peña del Bronx, Centro Guatemalteco Tecun Uman, Philippine Forum

by BeneVerba | 2012-05-03 16:26 | 翻訳 | Trackback(1) | Comments(2)
メーデー/『オキュパイ』刊行に寄せて
May Day
2012年05月01日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://www.huffingtonpost.com/noam-chomsky/may-day_1_b_1461852.html

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 世界のどこであれ民衆はメーデーとは何かを知っているようだ。それが始まった地――ここアメリカ――を除けばだが。なぜならば、権力者たちがこの日の本当の意味を消すためなら何でもしてきたからだ。例えば、ロナルド・レーガンは、まるで労働運動に対する余分なナイフの一ひねりのように、「ロウ・デイ(Law Day)」なるものを制定した。愛国主義的ファナティシズムの日である。しかし、今日では、占拠運動によってエネルギーを与えられ、刷新された覚ざめがメーデーの周囲にある。そして、その改革とありうる革命への妥当性もだ。

 もし、あなたが革命のことを本気で考えているのならば、求めているのは専制的な革命ではなく、自由と民主を求めて進む民衆的な革命であるはずだ。多くの人々がそれを実践し、実行し、諸問題を解決した時に、それは起きうる。理解できるように、改革に限界があることを自ら発見しない限り、人々はそのような参与を引き受けはしないだろう。

 思慮深い革命家は、二つの妥当な理由に基づき、改革を限界にまで押しやろうとするだろう。第一には、もちろん改革それ自身に価値がありうるという理由で。人々は一日十二時間働くよりも、八時間働くべきなのだ。それに、概して言えば、我々はまともで倫理的な価値観を踏まえて振る舞うことを望むべきである。

 第二には、戦略的な見地から見て、改革に限界があることを示さなければならないという理由だ。時に、必要とされた改革に、体制側が適応することがあるかもしれない。もしそうであるならば、それは結構なことだ。だが、そうではないのならば、新しい疑問が持ち上がる。おそらくは、その瞬間こそ抵抗が必要とされ、正当な変化に対する障壁を打ち破ろうと踏み出す時なのだ。そして、おそらくは、自己防衛の形態として、権利と正義を防衛するための強硬手段に訴える時がやって来るだろう。そのような手段が自己防衛の形態であると大多数が認識しない限り、人々はそれらに参加しようとしないし、少なく見積もってもすべきではない。

 もし、既存の諸制度が民衆の意志に従おうとしない地点に達したのなら、それらの制度を廃棄しなければならない。

 メーデーはこの場所で始まった。だがそれは、残虐な暴力と司法の懲罰に服従していた、アメリカの労働者を支持する国際的な日となったのだ。

 今日、政治的指導者が定義した「ロウ・デイ」ではなく、民衆によってその意味が決まる日として、メーデーを祝う闘いは続いている。社会全体のより良い未来のために、組織化し労働することに根ざした日として。


訳者コメント:
 この数ヵ月ばかり忙しかったため、久しぶりの翻訳。以前から告知されていたノーム・チョムスキーの占拠運動に関する著作『オキュパイ』がメーデーの今日に刊行され、この文章はそれに合わせて著者がハフィントン・ポストに寄せたもの。刊行元は Zuccotti Park Press

 米アマゾンでは一部を試し読みすることができる。読むと、以前に翻訳を公開した「未来を占拠せよ」(厳密に同文であるかはチェックしていない)が収録されている。他のウェブサイトの紹介文を見ても、これまでに発表された占拠運動についての講演や論考を集めたものであるらしい。

by BeneVerba | 2012-05-01 21:40 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)