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カイロからの連帯表明
Solidarity Statement From Cairo
2011年10月24日 - カイロの同志たち
原文:http://occupywallst.org/article/solidarity-statement-cairo/

 合衆国の公園、広場、その他の場所で現在占拠を実行している全ての人々へ。あなた方のカイロの同志たちは、あなた方を連帯の意志と共に見守っている。あなた方の民主主義への移行からとても大きな助言を受けとりつつ、今度は我々がいくつかの助言を伝える番だと考えた。

 実に、様々な点において、我々は同じ闘争に巻き込まれている。ほとんどの識者たちが「アラブの春」と呼ぶところのものは、デモ、暴動、ストライキ、そして世界中で行われている占拠にルーツがあり、その基礎に横たわるのは、長年に渡る人民による闘争であり、民衆運動である。我々が自分たちのような存在は何も新しいことではないのだと気付いたのは、エジプトやその他の場所で、我々が抑圧と公民権剥奪の体制と、またグローバル資本主義の野放図な破壊と闘っている時だった(そう、我々は「資本主義」と言ったのだ)。世界をその住民にとって危険で過酷なものへと変えてきた単一の体制のことだ。政府の利害がますます民間の国境を越えた資本の利害と快適さに仕えるにつれ、我々の街や家はますます抽象的で暴力的な場所と化し、次の経済開発のための気まぐれな荒廃や都市再開発計画に、従属させられて来た。

 全地球にまたがる一つの世代が、現在の物事の秩序においては我々に未来がないのだと、理性的かつ情熱的に自覚して育った。構造調整政策と国際組織の専門家とされている世界銀行やIMFの下に育ち、我々は、我々の資源、産業、公共サービスが売り払われ解体される一方で、「自由市場」が、外国の商品や更には外国の食物への依存を押し付けるのを見てきた。それら自由化された市場の利益と公益がどこかへと行ってしまった一方、エジプトやその他の南の国々では自分たちの窮乏化が、警察の抑圧や拷問によって著しく追い打ちをかけられている。

 現在のアメリカ及び西ヨーロッパにおける危機は、この現実をあなた方の元へともたらしつつある。我々がみな裸にされるまで働かされ、個人的な負債と公共部門の削減で背骨が折られるであろうと同様に。公共圏と福祉国家の残り物を削り取るだけでは飽きたらず、資本主義と緊縮財政国家は今や私的な領域と人々のまともに生活する権利に攻撃すらかけている。差し押さえられた家の持ち主が、今やホームレスであり、彼らを路上へと追いやった銀行に借金を持っているように。

 ゆえに、我々はあなた方を支持する。その古いものを打倒しようとする試みにおいてだけではなく、新しいものをもたらそうとする実験において。誰か抗議せずにおられないものがいるだろか?彼らの行為が当然だと思わないでいられるだろうか?我々は占拠する。我々は商品化されて来たそれら公共のための空間を取り戻す。顔のない官僚制によって、不動産のポートフォリオと警察の「保護」によって、私有化され閉鎖されて来た空間を。これらの空間を固守し、育み、占拠の境界を広げていこう。結局のところ、一体誰々がそれらの公園を、広場を、ビルディングを築いたのだ?一体誰々の労働がそれらを現実のものとし、居心地の良いものとしているのだ?我々を抜きにして、どうしてそれらが自然なものに見えているのか?警察によって警備され、規律を与えられて?それらの空間を正当かつ集団的に取り戻し運営することは、我々の正当性の充分な証である。

 タハリールにおける我々の占拠では、我々は毎日涙を流しながら広場へとやってくる人々を迎え入れた。なぜなら、彼らが警察の嫌がらせなしにそれらの通りや空間を歩くのは、それが初めてだったからだ。占拠というアイディアは重要であると言うだけでなく、それらの空間は新しい世界を築く可能性の基礎となるものだ。それらは公共の空間である。人々が集うための、楽しむための、お互いに出会い、お互いに交わるための空間である。それらの空間は我々が都市に生きている理由であるべきなのだ。国家や所有者の利害によって、立ち入ることができず、また排他的で危険になっている場所においては、それらを安全なものに、そして包摂的で適正なものにする手段を講じることは、我々の務めなのだ。我々はそれらの場所を、より良い世界を築きたいと願う全ての人々にとって、開かれたものにし続けなければならない。特に、周縁化され排除された人々のために、最も苦しんでいる集団のために。

 あなた方がこれらの空間で行っていることは、自惚れたものとしてでも観念的なものとしてでもないし、またありふれた「本物の民主主義」としてでもない。占拠により生み出された実践と社会参加の萌芽的な形態は、空疎な理想を、そして、民主主義という用語がその名前において代表されるようになった賞味期限切れの議会政治制度を退ける。ゆえに、占拠は継続するべきだ。改革を求めようとするものなどもはや誰もいないのだから。それらは継続されるべきだ。なぜなら、我々は我々がもう待てないものを、自ら作り出しているのだから。

 だが、所有と専有のイデオロギーはもう一度自らを明らかにするだろう。土地所有者や首長の野営への明白な反対であれ、交通規制や反野営法や医療と安全の規則などの空間を制御しようとするより微妙な試みであれ。そこには、我々の都市と空間の理解への模索と、法律とその背後にいる警察制度が我々になそうとしていることの間の直接的な衝突がある。

 我々はそのような直接的間接的な暴力に直面しており、これからも直面し続けるだろう。エジプト革命は平和的なものだったという人々は、警察が我々になした恐怖を見ていないし、レジスタンスや、暫定的な占拠と空間の防衛のために革命側ですら警察に対して使った力を見ていない。政府の許可の元に、99の警察署に火が付けられ、数千のパトカーが破壊され、エジプト中の与党の事務所が焼き討ちされた。バリケードが築かれ、我々に催涙ガスと実弾を発射してもなお警察官は撃退され、石つぶてを投げつけられたのだ。しかし、1月28日の終わりには、彼らは退却し、我々は自分たちの都市を勝ち取った。

 暴力を用いることは我々の欲するところではなかったが、我々の負けることを欲する思いより勝っていた。積極的に抵抗しなれば、彼らが我々が勝ち取り戻したものを奪おうとしてやってきた時に、我々は間違いなく負けるだろう。我々が「平和的に」と叫ぶ際の戦略を、非暴力を物神化する態度と混同しないでほしい。もし、この国家が即座に諦めていたら我々は大喜びしただろうが、彼らが我々を虐待し、叩きのめし、殺害しようとしている時に、我々は反撃する以外に他の選択肢はないことを知っていた。我々は諦めて、我々の「主張をはっきりさせる」ため、逮捕されるに、拷問されるに、殉教させられるに任せているべきだったのだろうか。そうしたとしてもなお、我々は血を流させられ、打ちのめされ、殺されていただろうに。だから、あなた方が占拠している場所、そしてそこで築き上げているものを守るために備えるのだ。なぜなら、あらゆるものが我々から奪われた後で、それらの取り戻された空間こそはとても貴重なものであるからだ。

 結論に代えて、我々のあなた方への本物の助言を一つ申し上げるならば、それは続けよ、前進し続け、決して止まるなということだ。もっと多くの場所を占拠し、お互いを見い出し、より大きな大きなネットワークを構築し続け、社会生活における、合意における、そして民主主義における新しい実験の方法を発見しようと努めることだ。それらの空間の新しい使い方を発見し、それらの空間を固守する新しいやり方を発見し、決してそれらを諦めないことだ。攻撃された際には、果敢に抵抗するべきだ。だがそれ以外では、自分たちがしていることから楽しみを得るのだ。気楽にやるように、更には愉快にやるようにしたまえ。我々は今やお互いを見守っている。そして、カイロから我々が言いたいことは、我々はあなた方と連帯し、我々はあなた方の全てをその行いのために愛しているということだ。


カイロの同志たちより
2011年10月24日



訳者コメント:
 特にこの文章に対しては、(私の中東への無知のせいもあるが)あまり多くのコメントを付けたくない。この文章自体が雄弁にさまざまなことを語っているからだ。ただ、これがグローバルな資本主義の問題であることと、以前に私も書いたように「占拠」とは私有化されたものを取り戻す行為だということは確認しておきたい。それは「全地球にまたがる一つの世代」の問題なのだ。

 技術的には、意味の取りにくい箇所が多かった。誤訳などがあれば指摘を歓迎したい。また前述の通り訳者は中東に無知なため、知識の上でも助言がいただけたら幸いだ。

 また、いつものやり方ではあるが、この文章と前回翻訳した文章は、あらためて見直す機会があるだろうことをお断りしておきたい。

11/22の更新:
 ようやく訳文の再チェックを行い、若干の語句を修正。致命的な誤訳はないと思う。この文章が11月15日未明のニューヨーク市警による強制排除を予言していたことに気付く。そして、今現在エジプトではタハリール広場やその他の地に再び人々が集結し、軍政に反対している。ニューヨークからカイロまで闘いは継続中だ。

by BeneVerba | 2011-11-03 09:39 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
(合意に基づく政策決定における)不可能事をやってのける
Enacting the Impossible (On Consensus Decision Making)
2011年10月29日 - デヴィッド・グレーバー
原文:http://occupywallst.org/article/enacting-the-impossible/

 2011年8月2日に開かれた、「ウォール街を占拠せよ」がどういうものになるかについての最初の会合において、数十名の人々が車座になってボウリング・グリーンに座っていた。私たちが、ただいつの日にか存在すればいいと望んでいた社会運動のための自薦の「手続き委員会」が、重大な決定について熟慮を重ねていたのだ。私たちの夢は、「ニューヨーク総会(New York General Assembly)」を作ることにあった。私たちがアメリカ中に現れることを望んでいた、民主的な集会のモデルとなるものだ。しかし、そうした集会は、実際にはどのように運営されるものなのだろうか?

 車座の中にいたアナーキストたちが、その時には常識外れなまでに野心的に見えた提案を行った。それらの集会もこの委員会と同じように運営すればいいじゃないか?――つまり合意によって。

 それらは、控えめに言っても、とんでもない大ばくちだった。なぜなら、私たちが知る限りでは、そのようなものを上手くやってのけて運営した人など、それまでに誰もいなかったからだ。合意形成の過程は、これまで代表議会(spokes-councils)において成功を収めてきた――活動家たちが類縁性を持つ集団に分けられ、それぞれの集団が一人の代表者(spoke)によって代表されるというものだ――が、ニューヨーク市において期待されていたような大規模な集会では成功した例を知らなかった。ギリシアやスペインの全体集会においてすらそうした試みは企てられなかった。だが、合意こそが最も私たちの原則に適ったアプローチだった。そうして、私たちはその無謀な試みに乗った。

 三ヶ月後の今アメリカ中で、大きなものから小さなものまで数百もの総会が、今や合意によって運営されている。決定は民主的に、投票なしで、全員の同意の下に行われている。世間一般の通念によれば、これは不可能なことだった。しかし、今や実際に起きていることなのだ――ちょうど愛や革命、そして生命それ自体といった他の説明不可能な現象が(言うなれば素粒子物理学の見地からすれば)起きているのと同じように。

 「ウォール街を占拠せよ」によって採用された直接民主主義的な方法は、アメリカのラディカルの歴史において、深いルーツを持っている。それは公民権運動において、また民主社会のための学生たち(the Students for a Democratic Society)によって広く用いられたものである。だがその現在の形態は、アナーキズムそれ自身においてと同じくらいに、フェミニズムのような運動や(クエーカー教徒とネイティブ・アメリカンの両方を含む)精神的な伝統において培われたものなのだ。直接的な、合意の形成を基礎にした民主主義が、アナーキズムによって迎え入れられ、その名前と固く結びついている理由は、それがおそらくアナーキズムの最も根本的な原理がなんであるかを具体化しているからだ。子どものように扱われた人間が子どものように振る舞う傾向があるように、人間を成熟し責任を持った大人として振る舞うように励ますための方法とは、彼らが既にそうであるかのように取り扱うことなのだ。

 合意は全会一致の投票方式ではない。「ブロック(block)」が意味するのは反対投票ではなく、拒否権の発動なのだ。それは、基本倫理原則の違反への提案を宣言する最高裁の調停のようなものだと思ってほしい――ただしこの場合、裁判官のローブはそれを着る勇気がある者全てのものなのだ。参加者はみな、自分にとって原則的な問題だと感じた時には、その場で即座に審議を止めることができることを知っている。それは、実際にそうすることがまれになるというだけでなく、より重要でない点における歩み寄りを容易にする結果をもたらすのだ。創造的な統合へ向かうための過程こそがその本質である。結局は、最終決定がどのようになされたのか――それは、ブロックのかけ声かもしれないし、多数派による挙手かもしれない――はより重要ではなくなり、合意の形成や再形成を促す役割において、全ての人がその一部を演じることができる、ということが重要になってくるのだ。

 私たちが、論理によって、直接民主主義、自由、人間の連帯の原則に基づく社会は可能なのだと証明できることはおそらくないだろう。私たちは行動することによって、それを実際に示して見せることができるだけなのだ。アメリカ中の公園や広場で、人々は、実際に参加し始めることによってその目撃証人となっている。アメリカ人は、自由や民主主義こそ私たちの根本的な価値観だと、自由と民主主義への愛こそが私たちを一つの人民(people)として規定するものだと教えられて育つ――にもかかわらず、微妙ではあるが一定の変わらないやり方で、本当の自由と民主主義は決して真に実在しないのだと教えられる。

 私たちがこの教えの誤りに気付いた瞬間、私たちはこう訊ね始めるのだ。他にいくつの「不可能な」事がらを私たちはやってのけることができるのだろう、と。その時から、この場所で私たちは不可能をやってのけ始めるのだ。


この記事は、「占拠済みウォール・ストリート・ジャーナル紙(the Occupied Wall Street Journal)」のために、デヴィッド・グレーバーによって書かれた。



訳者コメント:
 この運動については以前こう書いた。「私的に気になるのは、以前から感じていたことだが、『ウォール街を占拠せよ』運動はアメリカ建国の原点に(そこには先住民の問題もあるとはいえ)立ち返ろうとしているのではないかということ、そして、やはり代表制民主主義の機能不全が問題なのではないかということだ」。

 また、あるコメント欄ではこう書いている「ところで、本当にあなたの記事は面白く読みました。OWSには、これまでを変えようとする方向と、民主主義の原点に立ち返ろうとする方向があると感じているのですが、後者のさらに以前にまで遡って民主主義について考えさせてくれる内容でした。その二つが交差する場所で、先住民とそれ以外の両者に対していい解決法が生まれるかもしれません」

 それは、当然にも彼ら自身によって意識されていたことであるようで、この文章の中では、公民権運動を始めに、フェミニズム、アナーキズムといったラディカルなアメリカの歴史だけでなく、クエーカー教徒や「ネイティブ・アメリカン」までが組み入れられている。

 この文章は、1日の夜にに玄海4号機の再稼働を決めた九州電力と経産省、野田政権などへの憤りを鎮めようとして翻訳した文章だ。「ウォール街を占拠せよ」には、民主主義国家にすむはずの私たちが置かれている状況とは、全く正反対の民主主義があることがおわかりだろう。というよりは、今の日本に民主主義はない。おそらくは国策主義、そしてアメリカ主義だけだ。

 その意味において、今この文章を訳す行為は、はからずも玄海4号機再稼働への抗議の意味を持つこととなった。つまり、それは決して絶望してやるものかという態度であり、希望を持つこと、しかも、現在の醜悪な現実を批判するような種類の希望、それを人々と共有するという意味で抗議なのだ。

11/23の更新:
 脱字が一箇所あったので修正。また、江上賢一郎氏とイルコモンズ氏の推敲中の共訳を参照しつつ、次の部分を変えた。今回の更新では、その二点以外の変更は無し。
変更前:私たちは、論理によって、直接民主主義、自由、人間の連帯の原則に基づく社会を証明したわけではない。私たちはただそれを行動することによって、実際に示して見せたのだ。
変更後:私たちが、論理によって、直接民主主義、自由、人間の連帯の原則に基づく社会は可能なのだと証明できることはおそらくないだろう。私たちは行動することによって、それを実際に示して見せることができるだけなのだ。

 ところで、既にYouTubeやTwitterでは紹介したのだが、タハラレイコさんが字幕を付けた二本の動画、特に「コンセンサス(直接民主制@ウォール街占拠)」は直接民主主義によって運営される総会の様子がわかっておすすめだ。ブロックやその他のジェスチャーも登場する。もし、まだの方がいれば、ぜひご覧になっていただきたい。

by BeneVerba | 2011-11-02 17:56 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)