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ニューヨーク市占拠宣言
Declaration of the Occupation of New York City
2011年09月29日 - ニューヨーク市総会
原文:http://translation.nycga.net/?p=122


これの文章は、2011年9月29日、ニューヨーク市市民集会(NYC General Assembly) によって承認された。

われわれは、大規模な不正の数々に対する憤りを表明するために連帯し集まったのである以上、われわれを結びつけたものを見失ってはなりません。

世界の企業権力から不当に扱われたと感じるすべての人々に対して、われわれがあなたの味方であるということを知ってもらうために、これを記します。



ひとつの、団結した民衆<people>であるわれわれは現実をしっています。

人類の将来のためには、その構成員が協力しなければならないということを。

われわれの社会制度はわれわれの諸権利を守らなければならず、その制度が腐敗した時、自分自身の、そして隣人の諸権利を守るのは一人一人にかかっているということを。

また、民主的な政府の公正な権限は人々の同意に依るものだが、企業は人々と地球から富を引き出す際に何ら同意を求めないということを。

そして、諸般のプロセスが金力によって決定されている限り、真の民主主義は実現できないということを。

人間よりも利潤を優先し、正義よりも自らの利益を優先し、平等よりも抑圧を優先する企業というものが各国の政府を動かしているいま、以下の事実を人々に伝えるため、われわれは、われわれの権利として、平和裏にここに集まります。



企業や企業家たちは、そもそも抵当権などないにもかかわらず、不法な差し押さえによってわれわれの家を取り上げました。

かれらは、平然と公的資金の注入を受け、その一方で会社の幹部に莫大なボーナスを支払い続けています。

かれらは、年齢や、肌の色や、性別や、ジェンダーアイデンティティ、そして性的指向を言い訳として、職場における不平等と差別を固定化してきました。

かれらがその義務を怠った結果、食糧は汚染され、彼らの独占化により農業システムは蝕まれました。

かれらは無数の動物を拷問し、監禁し、残酷に扱うなかから利益を挙げる一方で、そういった行為の数々を積極的に隠してきました。

かれらは、よりよい賃金とより安全な労働条件の交渉権を従業員からはく奪し続けてきました。

かれらは、教育を受ける権利がそれ自体、人権の一部であるにもかかわらず、何万ドルもの教育ローンで学生を人質にしてきました。

かれらは労働の外部委託(アウトソース)に固執し、そのアウトソーシングをテコとして、労働者の健康保険と賃金をカットしてきました。

かれらは、企業法人に、実際の人間と同等の権利を、しかし過失責任も責務も伴わない形で認めさせるため、裁判所に影響力を行使してきました。

かれらは、健康保険の契約に合法的な抜け道を探し出し、支払いを回避するために、法律家チームに対して何百万ドルも注ぎ込んできました。

かれらはわれわれの個人情報を商品として売ってきました。

かれらは軍隊と警察を利用して報道の自由を妨害してきました。かれらは、利潤追求のため、人々の生命を危機に晒す不良品のリコールを意図的に拒否してきました。

かれらは、かれらの政策が過去にもたらし、現にもたらし続けている壊滅的な失策にもかかわらず、経済政策を決定し続けています。

かれらは、かれらを監視し規制する立場にいる政治家に巨額の資金を寄付してきました。

かれらは代替エネルギーへの移行を妨害し、われわれが石油に依存し続けるよう仕向けています。

かれらは、すでに大きな利益を上げている投資を守るために、人々の命を救い、または症状を軽減し得るジェネリック医薬品を妨害し続けています。

かれらは利潤追求のため、石油の流出、事故、不正会計、そして添加物を故意に隠蔽してきました。

かれらは、メディア操作によって意図的に誤った情報を人々に与え、怯えさせ続けています。

かれらは(訳者注:刑務所の)民間委託を引受け、冤罪の可能性が高かった囚人でさえ殺害しました。

かれらは国内でも国外でも植民地主義を固定化しています。かれらは外国の無辜の市民への拷問と殺人に加担しています。

かれらは政府から契約を取り付けるため、大量破壊兵器を生産し続けています。*



世界の人々よ。

リバティスクエアのウォール街を占拠している、われわれ、ニューヨーク市市民集会は、あなたに、あなたのもてる力を発揮するよう、呼びかけます。



平和裏に集まる権利を行使し、公共の空間を占拠し、われわれが直面している問題を明らかにするためのプロセスを生み出し、すべての人々が参画できる解決策の数々を考え出しましょう。



直接民主主義の精神のもとに行動を起こし、結束しているすべてのコミュニティに対してわれわれは、支援と、資料と、われわれのもちうるすべての資源を提供します。



われわれとともに、声を挙げましょう!





*これらは抗議のごく一部にすぎません。



訳者コメント:
 ニューヨーク市の占拠の宣言(ここでは「ニューヨーク市占拠宣言」)が正式に翻訳されていたので、転載。以前に拙訳を勝手に送りつけたことがあるので、参照してくれたのか、それともこんなのが流通してはたまらんと思われたか。

by BeneVerba | 2012-02-09 14:13 | 転載 | Trackback | Comments(0)
アルジャジーラ・インタビュー:今や領野は開かれた
The interview on Talk to Al Jazeera: Now the Field is Open
2011年10月29日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:
http://www.youtube.com/watch?v=6Qhk8az8K-Y
http://beneverba.exblog.jp/16539863/





 ――世界のどこかで左翼というコンセプトが、それを現実化しようとしている場所をご存知ですか?

 物事はゆっくりと起きつつあります。しかし、メディアは充分にそれらを報道していません。例えば、私はメディアのインドと中国の取り上げ方に驚いています。中国は悪い奴だ、誰もが悪い共産主義や検閲があることを知っている、チベットをテロで支配している、そういったことです。インドが時々とはいえ注目を浴びることをご存知でしょう。しかし、充分に報道されているとは言えません。

 自然にも貧しい毛沢東主義者が反乱を起こしています。大方の味方はこうです。「OK、インドは大きなパートナーだ。インドとはいえ仲間だ」。百万人以上が反乱軍なのです。とんでもないことが起こっています。インドの新興資本主義は炭鉱へのアクセスを確保するため部族地帯にまで拡大しようとしています。しかし、私たちはそれを見ていないのです。だからこそ、反乱がそこにあるのです。

 こうしたことは今ではヨーロッパですら起こっています。事態はとても深刻です。それは「ギリシアは負債を支払うかどうか」といった表面的なことではありません。それは基本的に可能性の一つに過ぎません。何よりも先ずヨーロッパでは――私はこの隠喩を引用するのが好きなのですがね、「女は何を望んでいるのか?」、ジグムント・フロイトがこの奇妙で純朴な質問を発した時、彼はそれなりの年齢でした。私が主張する今日の問題はこうです。「ヨーロッパは何を望んでいるのか?」。ヨーロッパは自ら決定することができないのです。一方ではテクノクラティックなブリュッセル的ヴィジョンがあります。私たちはグローバルな市場で競争するために自らを組織化しなければならないというものです。

 それから私たちには、ナショナリスティックで反移民的な運動があります。それが唯一のオルタナティブであるとしたら悲しいことです。私が思うに今の世界は本当のオルタナティブを追い求めているのです。私は、アングロ-サクソン的ネオリベラリズムと中国-シンガポール的資本主義――詩的に言うならばアジア的価値観の資本主義ですが、つまり権威主義的な資本主義です。それは今や西洋のリベラル資本主義よりも能率的なのです――の二つしか選択肢がない世界に住みたくはありません。だからこそ、何かがなされなければなりません。それがヨーロッパの悲劇の1番目です。

 2番目です。残念ながら私はヨーロッパについてとても悲観的です。どれほどヨーロッパが退歩していることか。一つの出来事を取り上げてみましょう。欧州連合が基本的にトルコの加盟を認めていないことはご存知でしょう。民主的ではないとか何かで。

 ――イスラム的だと。イスラム的過ぎると。

 そうです。しかし、あることをお話しさせてください。この夏にイスタンブールで大きなゲイ・パレードがあったことを、ご存知ですか?数万人のホモセクシャルがデモ行進しました。そして、揉め事など何もなかったのです!

 これがもし欧州連合に加盟している東欧のポスト共産主義国家だったら、どうでしょうか。例えば、最近に分裂した南クロアチアの都市だったら。ゲイ・パレードですよ。どのようなものになるか想像がつくでしょう。彼らをリンチしようとする1万人の地域の人々から2千人の警察官に守られた7百人のゲイたち、などといった光景です。

 私が言いたいのはつまり――友だちを挑発するために言うのですがね、これも私の挑発の一つです。「そう、私は右翼に賛成する。ヨーロッパの遺産、ユダヤ・キリスト教的な遺産は危機に瀕している。しかし、彼らイスラームや何やらに反対している偽のヨーロッパの擁護者たち、彼らこそが危機なのだ。私はヨーロッパのムスリムを恐れない。私が恐れるのはヨーロッパの擁護者たちだ」。ユダヤ人の友だちにさえ言っているのです。「気を付けるんだ!今何が起きているか気付いているか?」と。

 あのブレイヴィクについて気付いたことはありませんか?ノルウェイで銃乱射事件を起こしたあの男です。彼は今持ち上がっていることの明白な例です。それは文字通りパラドキシカルなものです。反ユダヤ主義のシオニストです。

 一方では、明らかに彼は反ユダヤ主義者でした。彼はこう言っています。「イギリスを除けば、西ヨーロッパはOKだ。そんなに多くのユダヤ人はいない。だからなんとかなる」。それからこうです。「イギリス、そして特にアメリカにはユダヤ人が多すぎる」。したがって、標準的な国民国家のヴィジョンはこういうものです。「もし無視できるほどならユダヤ人は問題ない。だが数が多すぎれば……」。

 そうであると同時に、彼は全くのところ親イスラエル、親シオニストです。おや、あなたは私が孤独な狂人だとお思いでしょう(笑)。しかし、私が思うに、これがアメリカのキリスト原理主義保守派の基本的な態度なのです。

 フォックス・ニュースのスキャンダルを覚えているでしょう。グレン・ベックです。彼は反ユダヤ主義発言のために解雇されました。しかし同時に彼は全くのところ親シオニストなのです。これは私にとって悪夢です。

 イスラエル国家の代議士たちは、自分たちが何をしているのか気付いているのでしょうか?彼らは基本的に自分たちの魂を悪魔に売ったのです。それはこういう意味です。彼らは西側の政治勢力と取引をしています。そして私に言わせればそれらの勢力は、本質的に反ユダヤ主義なのです。

 つまり、彼らが人種的なゲームをしても良いのなら、私たちにパレスティナ人と同じことをすることを許せ、ということです。私は本当にユダヤ人のことを心配しています。ユダヤ人は偉大な民族です。シオニストの政治は彼らを偏狭な自滅的国家に変えようとしています。

 中東の紛争における真の犠牲者は、このカタストロフィックな政治において、ユダヤ人自身となることでしょう。彼らは、そのユニークさと偉大さを失うことになるかもしれません。

 ――あなたはどのような点において、真の変革、革命的な変化のかすかな兆候を、世界のどこかに見て取っているのでしょうか?あなたは左翼は本当はそれら多くの問題に対するグローバルな治療法、もしくはグローバルなアプローチを持っていないと仰いましたね。何らかの変化の兆候をどこに見ているのですか?

 現在既に起こりつつあることが、控えめな楽観主義の理由になると思います。魔法のような解決法が突然現れるという奇跡を期待してはいけません。はじまりは私たちが直面している困難は、貪欲な悪人が引き起こしたものではなく、良いシステムが代わりになるというものではないと、人々が気付くことです。しかし、私たちは確かにシステムそれ自体を問わなければなりません。

 この気付きは興りつつあります。それがこの〔アメリカの〕抗議者たちが、ここにいる理由なのです。私が思うに、この段階で重要なのは、拙速な解決策を提供せず、むしろそれを壊すことなのです。私はそれを皮肉を込めて、「フクヤマのタブー」と呼んでいます。

 それはつまり、彼は馬鹿ではないということです。私たちは今やみなフクヤマ主義者なのです。ラディカルな左翼でさえもです。私たちは何が資本主義に取って代わることができるのか考えることができないし、今以上の社会的正義や女性の権利などを求める状況をシステムに組み込むこともできないのです。

 やがてこのより根本的な疑問を問うべき時がやってきます。システムはもはやその自明性、自立的な妥当性を失ったのです。そして今や領野は開かれたのです。これは重要な達成です。

 ――しかしもし領野が開かれたのなら、誰が真空を満たすのですか?誰か上から注ぐのですか?

 常にその危険はあります。私は全くあなたの言うことに同意します。1930年代のヨーロッパやその他で、一体誰が空白を埋めたのか忘れないようにしましょう。これにはそれ自身のリスクがつきまとうのです。しかし、にもかかわらず私たちはこの機会をつかまなければなりません。

 なぜならば、私たちは経済的な危機のような連続的な現象がある種の永続的な非常事態になるのを見ているからです。したがって、世界経済が何とか前進するにしろ、そうした現象に敏感にならなければならないと思います。

 しかしそこには――これは良いパラドクスです。ベルリンの壁は崩壊しましたが、新しい壁や分断があらゆる場所で勃興しているのです。ほとんどの国家において、富裕層と貧困層の間だけでなく、分断は強化されています。

 ラテン・アメリカを例として挙げましょう。ファヴェーラやスラムやその他の場所に住む人々は、単純に貧しいと言うだけではありません。それはもっとラディカルなものです。彼らは単に公共の空間や政治参加その他から閉め出されているのです。

 したがって、再び問題は私たちがリスクを引き受けるかどうかといったものではないのです。はじまりは私たちの行く先にあり、私たちはそれを課されているのです。「単に黙って行くべき道を行ったらどうなんだ?」と私に訊く人への答えはこうです。

 私は、もし私たちが何もしなければ、次第に新しい種類の――それは古いファシズムではありません。ここで特に明確にしておきましょう――新しいタイプの権威主義社会に近づいていくと主張します。世界において、私が歴史的重要性を見ているのが今日の中国で起きていることです。

 今までは、率直に言って、資本主義について一つの良い論点がありました。遅かれ早かれ、それは民主主義をもたらすのだというものです。韓国にしろチリにしろ独裁制を維持できるのは20年間程度だと。しかし、私が心配しているのは、アジア的価値観の資本主義、シンガポールと中国です。

 そこでは私たち西側の資本主義よりも能率的でダイナミックな――少なくともそう見えている――資本主義があるのです。しかし、私はリベラル派の友人たちの希望を共有していません。彼らはこう思っています。つまり「十年もすれば、天安門事件のようなことが起こる」と。それは違います。資本主義と民主主義の結婚は終わったのです。

 ――なるほど。それでは中国があなたが希望を見て取る良い例ではないとしたら、終了が近づいています、他に良い場所はあるのでしょうか?なぜならあなたは、これら全てについてのあなたの不平は、消費主義が野心と不満を駆動する力となっているというものですね。どこかあなたが栄誉を与えることができる場所はありますか?

 それもまた中国です。中国ですら市民社会を組織化することはできるのです。エコロジーや労働者の権利やそういったことで。私が思うに、特に中国ではこのことは時に西側の民主主義よりも重要なのかもしれません。

 低レベルの驚くべきことが、中国では起こっています。中国の爆発的な状況が示唆するものが何かおわかりでしょう。彼らの最新の追認議会を覚えていますか?

 誰もが彼らは防衛予算を倍にすると思っていた。いいえ、彼らは国内治安の予算を倍にしたのです。中国は今や軍隊よりも国内治安に歳費を費やす唯一の大国です。だからこそ、抗議があるのです。

 アラブの春の話をしましょう。なぜ私があれをそんなに好きなのかご存知でしょう?なぜなら西側にいる我々は――といっても私たちは他の奴らよりそんなにひどくはないか。私は普遍的なペシミストになっているのかもしれないな――自発的なレイシストなのです。わかりますか?決まり文句はこうだったのです。「ああ、アラブ人ね。人々を結集させようと思ったら、集まるのはレイシストや反ユダヤ主義者、それにナショナリストや宗教原理主義者だけさ。民主主義の始まりを告げる世俗的な運動なんて起こりっこないよ」。ところが、まさにそれが起こったのです!

 さて、ここからが大事なところです。その後何が起きるか。これはとても悲しいことです。私はそうならないよう祈ります。しかし、いくつかの兆候が悲しい方向を指し示しています。私はそうなってほしくはありませんが、ひょっとして最終的な結果は、ムスリム同胞団と軍部のねじくれた盟約になるかもしれません。

 もっと簡単な言い方で言えば、ムスリム同胞団はより強力なイデオロギー的役割を統制する学校を手に入れ、その交換として軍部は特権や腐敗などを維持するというものです。

 しかし、にもかかわらず出来事は起きつつあるのです。ヨーロッパに目を向けましょう。ヨーロッパでは人々は最初ギリシア人のことを馬鹿にしていました。「ああ、ギリシア、あの怠け者の原始的な地中海人たち」と。いいえ、スペインがあります、イギリスもです。更に広がることでしょう。あなたが仰ったように、これは重大なことです。

 闘いは、物事がそのまま続くか革命が起こるかではありません。なすべきことは、抗議運動のエネルギーを適切なものに作り替えようとするもっとも困難な闘いを戦うことです。ここアメリカでも大きな抗議運動のエネルギーがあります。しかし、今のところそれは、ヒップ・アーティストたちによって盗み取られているのです。

 彼らは自分たちの作品をどうやって形作っているのか気付いているのでしょうか?50年前の労働者の抗議運動のような格好をしたヒップ・アーティストたちです。彼らの曲を聴けば、おわかりでしょう。私はティー・パーティーを支持するあるポップ・シンガーの曲を聴きました。彼はこう言ったことを歌っていました。「俺たちは搾取されている普通の労働者。ワシントンとウォール街にいる悪漢たちが俺たちを搾取している」などと。

 そこにこそ闘争があるのです。それは困難な闘いです。私は何ら幻想を持っていません。そこにはいくつもの大きな危険があります。しかし、中国のことわざにこんなのがあります。「彼らが本当に君を憎む時、君は興味深い時代に突入する」。私たちは確かに興味深い時代へと近づいています。

 ――お話どうもありがとうございました。

 こちらこそ!どうもありがとうございました。



訳者コメント:
 「ウォール街を占拠せよ」での演説「ウォール街を占拠せよ」に関するガーディアン紙の論考と関連するために、いずれ訳すことを目的に書き起こしていたジジェクのアルジャジーラでのインタービューをようやく翻訳。前半はこちら

 訳者の聞き取り能力の限界のせいで(ジジェクの独特の発音や、崩れた英語のせいもあるが、それよりも)、翻訳としては不充分なものになった。謝っておきます。すみません。訳している最中に書き取り自体の不正確な点にも気付いた。書き起こし共々至らない点があればご指摘いただきたい。そしていずれ見直したい。

 特に訳文の注意点を。論文名と受け取って『人類にとっての貨幣(Human to Money)』と訳した部分。インターネット上の書誌情報などを参照したが、このような文章をアーレントが発表したのかどうか、わからなかった。そのうち図書館にでも行って、調査してくるのでしばらくお待ちを。もし、アーレントに詳しい方がご指摘してくれたらありがたい。

 余りにも多くの論点を含むため、コメントは控えめにしたいが2点だけ。まずイデオロギーの問題。ジジェクは物事を見ないことがイデオロギーだと言っているが、同じような文脈において、「脱原発はイデオロギーではないが、反レイシズムや歴史修正主義はイデオロギーの問題だ」という人は、まさしく選択的に何を見るか決定している点で、イデオロギーにどっぷり浸かっている。ここには自然化したイデオロギーとでも呼びたい問題がある。

 次に、「アジア的価値観の資本主義」について。ひょっとしてここには没落する前の(あるいは今も?)日本を代入しても良いのかもしれないが、アジアに位置する我々とはややズレを感じる部分もある。そのズレた部分は私たちが自分で考えなければならないことなのだろう。それにしても今の中国に行き詰まりと希望を見るというヴィジョンは独特のもので興味深い。

by BeneVerba | 2012-02-04 12:00 | 翻訳 | Trackback | Comments(4)
アルジャジーラ・インタビュー:今や領野は開かれた
The interview on Talk to Al Jazeera: Now the Field is Open
2011年10月29日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:
http://www.youtube.com/watch?v=6Qhk8az8K-Y
http://beneverba.exblog.jp/16539863/





ナレーション:
 中東からロンドンの街角、そしてアメリカの都市まで、現状に対する不満が爆発しています。強力な政府の鉄の支配であれ、富裕層と何とかやっていくだけの人々との間に横たわる大きな経済格差であれ。しかし、これら変化を切望する声はどこへと向かっているのでしょうか?社会変革を目指す彼らの長期的ヴィジョンはどれほど深遠なものなのでしょうか?

 「システムはもはやその自明性、自立的な妥当性を失ったのです。そして今や領野は開かれたのです」。

 スロヴェニア出身の哲学者スラヴォイ・ジジェク氏の懸念です。その資本主義と社会主義の両者への批判的な考察は、彼を国際的に認知された知識人にしました。例えば、ここニューヨークでは、ウォール街を占拠せよの占拠者たちの間で有名です。

 『トーク・トゥ・アルジャジーラ』では、スラヴォイ・ジジェク氏をお招きして、この夏のロンドンでの暴動について、彼らが政治的なアジェンダを持っているかについて、お聞きすることからインタビューを始めました。


スラヴォイ・ジジェク:
 彼らの抗議のやり方、あそこでの彼らの振るまいから見えるのは――私は抗議活動の参加者や目撃者と繰り返し話をしました――彼らは要求がないからこそ通りに繰り出したということです。彼らは、共産主義的なユートピアであれ、宗教的なものであれ、主張をまとめることができません。ただ、純粋な暴力と抗議の、それを何と呼ぶにしろ、消費主義を真似たアジェンダがあっただけです。それはとても悲しいことです。

トム・アッカーマン:
 ――ここアメリカ合衆国には、イデオロギー的に一貫した要求はあるのでしょうか?

 彼らをそのことで非難してはいけません。私は共産主義者ですらないのです。私は自らそう言ったのです。そのことを口にした後、実に多くの敵を作ることになりました。現実を直視しましょう。20世紀の共産主義はまさに――なぜならばあのような希望と共に始まり、悪夢として終わりを告げたのですから――おそらくは史上最大のカタストロフィ、言うなれば、人類の歴史において試みられた中でも最大の倫理的なカタストロフィです。それはファシズム以上です。

 その理由はごく単純なものです。ファシズムにおいては、私たちが抱えていたのは、「全てのプログラムはこれをやることだ。この悪事をなすことだ」と言っていた悪い奴らです。違いますか?なのに、彼らが権力を掌握した後で悪事をなしたのは、何たる驚きでしょうか!ですよね。共産主義において、私たちが抱えていたのは正真正銘の悲劇です。だからこそ反体制派や常に内部党争があったのです。だから――とはいえそれは終わったことです。

 これが意味することは何でしょうか?それが意味するのは、もう虚仮威しは止めようじゃないか、ということなのです。私たちは既存のシステムの限界を理解しています。それこそが私の拠って立つ基本的な立場です。

 人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。2008年の金融崩壊の始まりがどのようなものだったか、ご存知でしょう。「OK、我々の銀行に対する立法措置は充分ではなかった。全てが上手くいくように、それらを少しばかり変えよう」。いいえ、それは上手くいきませんでした。

 だから、私たちによって、何かがなされなければならないのです。だがそれに対して率直に向き合わなければなりません。悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。

 ここで一つ、もちろん私が政治的には反対する人物の言葉を引用しましょう。しかし、時に彼女は馬鹿ではありませんよ。ハンナ・アーレントです。ご存知ですね。最後の作品である奇妙な論考『人類にとっての貨幣(Human to Money)』の中で、彼女はこう言っています。「貨幣はリベラルさ(liberality)を表すための手段だ。我々が物を分かち合い、交換するなどの意味において。貨幣が意味するのは、我々がそれを平和的に行うということだ。私はあなたに貨幣で支払い、あなたは望むならそれを私に売る。もし貨幣というものが存在しなければ、直接的な支配と暴力的な強奪が幅を利かせることだろう」。

 私はこの部分において彼女に同意しません。しかし、この話をどこかで聞いたことはないですか?つまり、20世紀共産主義の多大なる経験において、彼らは市場、貨幣を廃止しようとしました。そして、暴力的な支配が必然的にその見返りとしてやって来たのです。

 ――あなたがお書きになった物を読みました。「もしそれが必要を意味するのなら、ファシズムは左翼だ」。そうですよね?「ファシズムは左翼だ」とはどういう意味でしょうか?

 それは私のリベラル派の友人たちを挑発するために言ったことなのです。私は挑発するのが好きなので。私が言ったことの中には、他にももっとひどい言葉がありますよ。例えば、「もし我々がトルコ人の半分を追いやったら……」

 ――文字通りには受け止められませんよ。一体あなたは何を言おうとしたのですか?

 もちろんですとも。ご承知のように、問題は暴力の問題です。もちろん私は暴力に反対します。それが人々に対する殺人や拷問を意味するのならば。しかし、私にとって、私が支持する真の暴力とは、物理的な暴力のことではありません。それは例えば、タハリール広場のエジプト人たちのような暴力なのです。彼らは通常の意味では暴力的ではありません。銃撃したりといったことはしませんでした。彼らはシステム全体の機能を止めようとしたのです。

 これが私の有名な宣言です。多くの敵から身を守るために書いたのですがね。最初の部分はこうです。「ヒットラーが問題だったのは、彼が充分に暴力的ではなかったことだ」。しかし、次の部分はこう続くのです。「ガンディーがヒットラーよりも更に暴力的だったという意味において」。ヒットラーの全ての暴力は、システムを上手く機能させることにありました。ガンディーはシステムを停止させようとしたのです。

 したがって、私にとって問題は暴力の悪魔化です。もちろん暴力は悪魔化されるべきです。しかし、その前に私たちはあらゆる形態の暴力を精査しなければなりません。目に見えない暴力を見るためにです。それはつまり――私はパラノイアではありませんよ――悪いメディアが未知の手段で私たちが思考することを妨げているとか何とか。

 単純にこう考えてください。例えば――暴力について話をしたいのですか?それならコンゴ共和国の話をしようじゃないですか!数百万の人々が死にかけていて、国家全体が機能していない。軍閥が支配し、薬物は蔓延し、未成年の戦士が戦っている、そういったことです。これが、システムの一部であるために、私たちが充分に気付いていない種類の暴力です。だから、私の言いたいことは、暴力の概念を拡張しようということなのです。

 同じ主題について、イギリスのガーディアン紙に書きました。ヨルダン川西岸地区についてです〔拙訳〕。オーケー、私はきっぱりと暴力を非難します。パレスティナ人によるものであれ何であれ、あの場所にある暴力を。しかし、私のその記事での論点は、もし何も起こらなかったら何が起きるのかというものです。メディアにとって大きな出来事が何も起きなかったらです。誰も殺されなかったとかそういったことです。その時に起きていることは、日常と化したイスラエルの官僚的な窒息するような占領なのです。おわかりでしょう。井戸に毒を入れ、木々を焼き払い、パレスティナ人たちをゆっくりと南に押しやっていく。これこそが現実です。こうしたバックグラウンドを知らされることなしに、全体像を描くことはできません。

 ――あなたは、例えばパレスティナ紛争について、イデオロギー上の解決策について話しているのではありませんね、どうでしょうか?

 イデオロギー上の解決策とはどういう意味ですか?

 ――そうですね、あなたは物事に変化がない時、それは通常の状態だとみなされると仰いました。

 まさしく、そこにこそ平時における暴力があるのです。

 ――紛争をナショナリスティックだったり宗教的にみなすものの見方よりも、イデオロギー的なアプローチは存在するのでしょうか?

 ここで問題なのは、「イデオロギー」という用語が何を意味するかです。私にとってイデオロギーとは、近年ますます日常生活における反抗を意味するのです。私たちは、とても奇妙な時代に生きています。少なくとも西側世界ではそうです。人々は自分たちがイデオロギーの外で生きていると思い込んでいます。まるで全ての人々がそうであるかのようです。

 イギリスであれどこであれ、私たちが社会から受け取る暗黙の命令は何でしょうか?それは「大義のために身を捧げよ」などではありません。それは「自分に正直になろう」とか、「充実した人生を送ろう」とか、「自分の潜在能力に気付こう」といったものです。それは私が精神化された快楽主義(spiritualized hedonism)と呼んでいるものです。だからこそ、人々はイデオロギーを経験していると気付かないのです。

 しかし、私たちはまさしくイデオロギーの中にいるのです。なぜなら私にとってイデオロギーとは、日常生活を機能させるために、物事を見たり見なかったりすることなのです。例えば、私たちが変革を想像できないという事実は、イデオロギーのなせるものです。

 もう一つ別の例を挙げましょう。昨今ではレイシズムとセクシズムの問題――それらは本物の問題です――が、寛容の問題に機械的に置き換えられることに、お気づきですか?これがイデオロギーです。マーティン・ルーサー・キングを見てください。彼は寛容については言及しないも同然でした。彼にとって問題は「ああ、白人たちは私たち黒人にもっと寛容であるべきだ」などといったものではなかったのです。彼が問題としたのは、経済的な搾取であり、合法化された日常の中のレイシズムなどだったのです。こうした問題を感じ取ることが、寛容の問題です。

 私たちは既存の社会のヴィジョンを受け入れています。そこでは、文化的な差異がほとんど自然化され、私たちはお互いに寛容であるべきだとかそういう具合に調整されています。そこでは政治の問題が消え失せてしまっているのです。



訳者コメント:
 「ウォール街を占拠せよ」での演説「ウォール街を占拠せよ」に関するガーディアン紙の論考と関連するために、いずれ訳すことを目的に書き起こしていたジジェクのアルジャジーラでのインタビューをようやく翻訳。後半はこちら

by BeneVerba | 2012-02-04 11:57 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
死ぬ間際にもっとも後悔する五つのこととは?
Top five regrets of the dying
2012年02月01日 - ガーディアン
原文:http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2012/feb/01/top-five-regrets-of-the-dying

 「もっとセックスをしておけば良かった」とか「バンジー・ジャンプをしておくべきだった」などという意見はなかった。死の床にある患者にカウンセリングを行う緩和療法の看護士が、私たちが人生の終わりに抱く、もっともよくある後悔を明らかにした。トップの中でも、特に男性に顕著だったのは、「あんなに働くべきじゃなかった」というものだった。

 ブロニー・ウェアは、人生最後の数週間を過ごす患者の世話をする、緩和療法に数年間携わったオーストラリアの看護士だ。彼女は患者たちのいまわの際の思いを『Inspiration and Chai』というブログで記録してきた。このブログはたいへんな注目を集め、彼女の観察は『死ぬ間際にもっとも後悔する5つのこと』という本にまとまることになった。

 ウェアは、死の床にある人々が得る洞察の驚くべき明瞭さについて、またそれらの知恵から私たちがどれほど多くのことを学ぶことができるかについて書いている。「彼らの後悔やもっと違ったことがやれたという思いを調べると、共通するテーマが繰り返し繰り返し浮かび上がってくる」と彼女は言う。


 以下がウェアが目撃した、死ぬ間際にもっとも後悔する5つの事柄である。



1.他人が自分に期待する人生ではなく、自分自身に正直な人生を生きる勇気があれば良かった

 「これが全ての中でもっとも共通する後悔だ。人々が、自分の人生が残り少ないことに気付き、これまでの人生を明瞭に振り返る時、多くの夢が満たされないままうち去られたことを見て取るのは容易なことだ。ほとんどの人々は夢の半分もかなえることができずに、それは自分が選んだこともしくは選ばなかったことのせいだったと気付いて死んでゆく。それが既に失われた時まで、健康が気付きの自由をもたらすことはまれだ」。

2.あれほど働かなければ良かった

 「この思いは私が看護したあらゆる男性患者から聞かされたものだ。彼らは、自分たちの子どもの若さとパートナーとの交流を惜しむ。女性もまたこの後悔を口にするが、そのほとんどは上の世代の人々で、多くの女性患者は一家の稼ぎ手ではない。私が看護した全ての男性患者たちは、あまりにも多くの時間を単調な仕事の繰り返しに費やしたことを、心から悔いていた」。

3.自分の気持ちを率直に表現するだけの勇気があれば良かった

 「多くの人々が、他人との友好的な関係を維持するために自分の気持ちを抑圧している。その結果として、凡庸な存在に甘んじ、真にそうなれたかもしれない存在になることはない。病気にかかった多くの人々が、彼らの抱えた悔悟と憤りをそれに関連させる」。

4.もっと友だちづきあいをしておくべきだった

 「ほとんどの場合、死を前にした数週間まで、人々が旧友の本当の価値に気付くことはまれだ。そして、その時には彼らを見つけることは必ずしも可能ではない。多くの人々が過ぎ去った黄金の友情に対して熱心になる。人々は友情に対して、それに見合った時間と努力を与えなかったことに、深い悔悟の念を抱く。死ぬ時には誰もが友だちを惜しむ」。

5.もっと幸せな人生を送れば良かった

 「これは驚くべき程人々に共通する後悔だ。最期の時まで人々は、幸福とは選択の問題だと気付かない。彼らは古いパターンと習慣に行き詰まっている。慣れ親しんだことの『安楽さ』が、物理的な人生と同様、感情にまで行き渡っている。変化することへの恐れが人々を、他人に対してまた自らに対して、自分は満ち足りていると偽らせてしまうのだ。心の底でもう一度大いに笑い馬鹿げたことをしたいと願う時に」。


 これまでのあなたのもっとも大きな後悔は何だろうか?そして、あなたが死ぬ前に何かを達成するために人生を変えるために、しなければならないことは何だろうか?



訳者コメント:
 ハンギョレ・サランバンで知って興味をひかれたために翻訳。なお、誤訳などの指摘について、方針を変更します。できれば当該記事のコメント欄で指摘していただいた方がありがたいのですが、今後はTwitterなどでの指摘も受け付けることにします。




by BeneVerba | 2012-02-03 17:16 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
 マスメディアの報道を通し、私が初めて「慰安婦」問題を知った時の気持ちを、どう言い表せば適切なのだろうか?それは一九九〇年か一九九一年のことではないかと思うのだが、敢えて言えば、「やはり……」というものにでもなるだろうか。幼心にそういう「腑に落ちる」ような気持ちがあった。

 そうした時代に依存した感慨は、例えば今の一〇代やそれ以下の人々に、伝わるものだろうか?なにせ、崩壊の兆しが見え始めていたとはいえ、まだ長年に渡る自民党の支配に終止符が打たれていなかった頃の話なのだ。そして、今は直接的な戦争体験者の死去による戦争体験の伝達が危機を迎えている時代である。


 SFや漫画などで、こういう物語を持つものがある。主人公は周りの世界をおかしいと感じているのだが、それが何に由来するものかわからない。ただどこかがおかしいとだけ感じている。だがある日、何かのきっかけで、実は普通の人間たちだと思っていた周りの人々が、ロボットであったり異星人であったりすることに無理矢理気付かされる。快適に見えた今までの世界は嘘っぱちの世界だったのだ。

 そうした物語が孕む意味は、主人公は見かけの世界が意味しようとするものとは、異なるメッセージを、常に受け取っていたということだ。私に「腑に落ちる」ように思わせたものは、その時代には、まだかすかながらそうした感覚がまだ残っていたということだろう。


 例えば、この「慰安婦」問題に関する標準的な書物として知られる吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書)は、そうした事実があること自体は、公の形ではなくとも知られていたことを記述している。また、先の「さようなら原発」集会の記者会見だったと思うが、大江健三郎氏が村の戦争体験者から聞いたこととしてそうした話を語っていた。

 つまり、戦後日本、自民党時代の日本、呼び方は何であれ、それまでの日本は偽物の秩序であり、見せかけだったのだ。したがって、先ほどの私の古い感慨に、今あらためて後の句を付けるとすれば、「やはり……偽物だったんだ」とでもすべきなのだろう。三・一一以降を生きる私たちにとって、それらの寓話はあらためて意義のあるものになったのではないか。私たちが生きていた世界は「ずっと嘘だった」のだ。


 もし、私が「慰安婦」問題を知ったのが一九九一年のことだとしたら、金学順さんら三人の「慰安婦」被害者が、その年の一二月に東京地裁に提訴し、東京の韓国YMCAで会見した時のことだろう。今からほぽ二〇年前のことである。

 知ったのが、その前年一九九〇年――この年に金学順さんが初めて元「慰安婦」として名乗り出たのだが――だとしたら、韓国の女性団体が共同声明を発表した時のことだろう。その一〇月の共同声明は次のようなものだ。
一、日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること。
二、そのことについて公式に謝罪すること。
三、蛮行のすべてをみずから明らかにすること。
四、犠牲となった人びとのために慰霊碑を建てること。
五、生存者や遺族たちに補償すること。
六、こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること。

 これらの要求事項はいくつかの語句を入れ替えるだけで、震災被害にも当てはまるだろう。「一、日本政府は放射線被害の事実を認めること。二、そのことについて公式に謝罪すること。放射線被害と原子力導入の経緯をみずから明らかにすること…」などと。

 この類似性は単に、両者が不正義であるがゆえだけではないのではないか。おそらくは、騙す、事実を認めない、責任を取らないという日本の権力の性格に由来し、人生そのものへの被害であるが故に原状回復が困難であるという被害の性質に由来するのだろう。


 もし「慰安婦」被害者の人々がそうした表現を許してくれるのならば、我々は同じ日本という権力から被害を受けたものである。なのになぜ私たちは「ウォール街を占拠せよ」のような連帯ができないのか?
 それぞれ異なる出身の多くの人々が、一%の貪欲、企業の貪欲への偽の解決法、組合潰し、公共サービスの削減と民営化といったものから、悪影響を受けてきた。九九%の人々は多様であり幅広い。だが、我々には連帯という原則があり、より良い世界――包摂と、尊厳と、愛と尊重の世界――を作るために、共に働いているのだ。「ウォール街を占拠せよ」に、レイシズム、セクシズム、トランスフォビア、移民への憎悪、ゼノフォビア、憎悪一般を受け入れる余地はない。

 挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)が主導して開始したと聞くハルモニたちの水曜デモが初めて行われたのは、一九九二年一月八日である。彼女たちはこの二〇年間ずっと抗議活動を続けてきた。昨年一二月一四日に一〇〇〇回目を迎えた。阪神淡路大震災時と東日本大震災時に追悼沈黙デモになったことがあるだけだという。

 二〇年間に渡る一〇〇〇回に及ぶデモ。しかし、今なおその正義を求める声は、日本政府に受け入れられていない。なのに、彼女たちを否定するまさにそのような人物を迎え入れることで、脱原発運動のみが、その目的を果たすことができるのだという思考は、控えめに言っても、かなり自分たちの願望を優先した都合の良いものに思われる。

by BeneVerba | 2012-02-02 17:12 | 意見 | Trackback | Comments(0)

コメント:
 主に自分のためのリンク集。私は後追いですので、他に情報がありましたら、ぜひ教えてください。

by BeneVerba | 2012-02-01 18:08 | Trackback | Comments(0)
 私は、脱原発デモには多種多様な考えの持ち主が参加していいと思っている。しかし、もし脱原発運動と共に、なし崩し的に右翼との癒着が広がるのならば、危惧せざるを得ない。それはマジョリティによるナショナルな運動でしかないのではないのか。被曝は国籍を選ばないというのに。

 また、それは日本の為政者にとっても都合がいいものではないだろうか。日の丸を取り上げてみよう。一時期スポーツで日の丸を振ることは自然なことだというキャンペーンがあった。それは財界の意向の元に行われた雰囲気作りだったのではないか。本当に自然に選んだのか選ばされているのか、よく考えてみた方がいい。私自身は日の丸に直接的な好感情も悪感情もない。しかし、我々はこのような歴史を忘れさせられているのではないだろうか。

[1]日本の長い歴史のうち、政府がもっとも強い軍事力をもったのはいつだったでしょうか?
[2]日本の長い歴史のうち、国民が暴力によって殺された数がもっとも多かったのはいつだったでしょうか。

正解――同じ時期
(C・ダグラス・ラミス『普通の国になりましょう』、大月書店)

 私はいくつかのデモで日の丸を掲げている人を見た。他のデモでも同様だという。なぜ、侵略のシンボルであるだけでなく、自国民をも殺した旗を誇らしげに振るのか、私には理解ができない。今もまさに私たちは国家によって苦しめられているというのに。日の丸もまた原発同様、施政者によって騙されて来たことだったのではないか。

 どうすれば民衆の力で原発を止めることができるのか。それはわからない。ある人が言ったことだが、もし仮にレイシストと手を組んで原発が止まるならいい。だが、そのような条件はもちろんない。客観的に見れば、脱原発は進まず、レイシストを含む右翼との連携が進んでいるだけである。そしてそれは日本の民主主義を確実に蝕んでいる。

 「危機だから他に方法はない」とは、ショック・ドクトリンの時期における為政者の言葉だ。国民は「ショック・ドクトリン」を自らに実行しているのだろうか。

 本当に他に方法はないのか。

 それどころか、そうした右翼を抱擁する脱原発運動は大同団結をうたいながら、暗黙のうちにマイノリティを、右翼と手を組みたくはないという人を、日の丸や君が代は嫌だという人々排除している。

 また、右翼にあわせることが一つの基準になっているのはおかしい。右翼が参加したければ、すればいい。しかし、なぜそうではない人々がそれに合わせなければならないのだろうか。

 「脱原発運動はワン・イシューだ」とよく言われる。そうであるならば、日の丸のような問題はなおさらち込むべきではないのではないか。

 日の丸が好きだという持ち主の人も脱原発運動をする権利がある。しかし、脱原発のためにこそ折れるべきなのは、彼らだ。日の丸は掲げない、レイシスト、歴史修正主義者は呼ばない、そういう方針で脱原発運動をやればいい。


 繰り返しになるが、こうやれば確実に原発を止めることができるという方法はない。しかし、少なくとも悪影響を避ける方策はとれるはずだ。あくまでもラフな草案だが、次のようなことが私たちにはできるのではないか。


  • 事前にデモ主催者に連絡を取り、日の丸を掲揚しての参加を認めているのかどうか確認する。
  • 認めている場合、止めてもらうように要請する。
  • 主催者が応じないなら、「日の丸が掲げられる限りあなたたちのデモには行きません」と理由を告げ、そのデモに行くのは止める。
  • いずれにしろそのことをインターネットで報告する。
  • Twitter、ブログ、facebook などで、自分のポリシーを表明する。
  • 「原発はいらない」というだけでなく「君が代も日の丸いらない」「レイシズム反対」などという意思表示をする。
  • 他者を排除しないデモを自ら開催する。



*2/2、深夜改稿。「日の丸と脱原発――脱原発デモを選ぶ」から「『他に方法はありません』――脱原発運動のヴィジョンを拡げる」に改題。


2/3の追記:
 この記事についてはいろいろと反響があったが、私は「脱原発と反TPP」のセットはよくて、「脱原発と反レイシズム」等のセットがタブー視されるのはおかしなことだと思う。脱原発は誰しもの願いだ。しかし、脱原発だけにフォーカスが当たって、他のことが見過ごされるのは何かが間違っているのではないだろうか。「脱原発と反レイシズム(ないし反歴史修正主義)」を掲げることが当たり前になるように願わざるを得ない。

by BeneVerba | 2012-02-01 13:01 | 意見 | Trackback | Comments(2)