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*ツイッターで「あなたは次の投票でどこに投票するのですか?」という質問を受けた。次の文章を書いて回答しようとしたが、文章はたちまち増殖した。そのため結局文体と全体の構成を大幅に変えて、ここに掲示する。


 ここ数十年間の私たちにふりかかった災厄の名は、一つの名前で言い表せる。それは自由主義と呼ばれる資本主義の悪辣な形態である。


 この低迷した数十年において、特効薬とまでいかかないにしろ、有効な対抗策はあったのだろうか。もちろんあった。その一つは小選挙区制の導入を食い止めることだった。終戦直後から一貫して、右翼政党は、左翼勢力を封じ込め、また一票の価値を無に等しくするために、小選挙区制を導入しようとしてきた。だが、リクルート事件をきっかけに、あらゆるマスメディアは懐柔され、一九九三年にはついに小選挙区制が導入された。

 もう一つの方策は、その後のものである。もちろん共産党か社民党に投票することだ。小選挙区制のもとで、極めて当選が困難になったとはいえ、比例区では議席を獲得することもできた。また、俗に「政権交代選挙」と呼ばれている、民主党が政権の座についた二〇〇四年選挙では、事前から民主党に左翼政党の票が集中し過ぎることがわかっていた。

 言い換えるのならば、二〇〇四年の選挙は、実際には「二大政党制か否か」を最終的に決定するものだった。そして、残念なことに、多くの人々は、メディアによる国民戦線とも言える「政権交代」キャンペーンによって、煽られるままに民主党に投票した。

 その結果がどうなったか、今の我々は知っている。民衆党の震災処理は国民の生命を無視するものであり、自民党は極右的な妄想に耽っている。それでは我々は、どこに投票すればいいのだろうか。


 「反共」キャンペーンは通俗的なものから、陰謀めいたもの、週刊文春のように中立を装った悪質なもの、サブカルチャーを悪用したものまで、飽くことなく繰り返され、私たちの日常の中に浸透してきた。大人ならば驚くべきことでもない。昔からそうなのだ。肝心なのは、次の点を認識することだ。識者であれ既存のメディアであれ何であれ、彼らの一切は我々民衆の見方ではないのだ――よく見かけるという理由で「おなじみ」だとしても。


 少しばかり、想像力を働かせてみよう……。

 テレビのコメンテーターも、雑誌コラムの三文物書きも「どうやら平等と平和のためには、共産党か社民党に投票する以外に、選択肢がないようですね」などと、決して言ったりしない。

 「自民党は、立憲主義すら無視した危険な国粋主義政党に成り下がりました。危ないですね」とも言わないし、「現在の民主党は岩波書店、山口二郎、それから小沢一郎が、むりやり二大政党制を導入しようとして失敗したなりの果てですね。彼らには責任を取ってほしいものです」とも言わない。

 まして「共産党は、資本主義の枠組みでの改革を目指しているそうですね」なんてなおさら言わないだろう。

 政党レベルの政治で、共産党・社民党以外への投票に意味があるのかは、極めて疑問である。なぜなら、この二党以外は、私たち民衆の全てに共通する敵――新自由主義――に対して、全く立ち向かうそぶりを見せていないどころか、味方するものであるからだ。


 ここでは詳しく立ち入らないが、二〇世紀の後半に、左翼に悪しきイメージが付与されたことは否定できない。しかし今、私たち日本の民衆は、まさに新自由主義によって、階級的な理由によって、その他様々な理由によって、分断しているか、分断されようとしている。そして、これに対する方策を持っていると私に思われるのは、この二党だけである。


 民衆は歴史を作ることができる。

 だが、そのためには、まず慣習を踏み出さなければならない。



[おまけ」
*ツイッターの投稿を若干補って掲載

素朴な感想ですが、ヨーロッパには「資本主義はより幸福な暮らしのための手段」という考え方が根本あると思うのですね。祭日には店舗を閉める法律があったり、ところが資本主義を誤解した日本人は、「暮らし」より「資本主義の維持」を第一に置いているのです。日本は過剰に資本主義化した国だと思います。

欧米ではリーマンショックを機にマルクスが見直されています。その他の場所でも同様です。それに「共産主義の崩壊」後にアメリカは、イラクを侵略しましたね。「歴史の終わり」は嘘だったのです。しかし、世界の潮流とは孤立し、日本では反資本主義の気運が盛り上がりません。生活が益々困窮化しているのにも関わらずです。

自民党は戦後民衆に暮らしていけるだけのものを与えたかもしれないが、民主主義社会として暮らしていけるだけの市民社会的基盤はかけらもあたえなかった。それが今私たちが抱えている困難ではないだろうか。


参照リンク:
  • カネダのニュースクリップ - 改憲と小選挙区制の戦後政治小史

  • by BeneVerba | 2012-05-31 15:38 | Trackback | Comments(0)
    *ツイッターの補助ないし延長のようなエントリです。今後こうしたエントリは、「雑感」というカテゴリーでまとめていきたいと思います。おそらくたいていは短文となるでしょう。


     わたしは現場に触れていませんので、間違っているかもしれません。しかし、マスメディアからなにからなにまで、これだけ管理統制が行き届き、地域社会が壊れた社会で、大学生に自分自身の考えを話して見ろといっても、何もないのが普通だと思うのです。

     だってそれまでの人生において、(もちろんメディアが伝えるのと違う)重要な問題に触れて、自分の考えを練る機会なんてよほど恵まれていなければ、ないと思うのです。それは今の学生が「反動的」であるという問題とも結びつくかと思います。

     今の学生が「反動的」だとしたら、学生運動の退潮から今までの期間に、「左翼」の忌避を前提とする文化が、育まれたからではないでしょうか。そして学生たちはその中で育ってきており、それ以外の語法を持たないのです。資本主義社会の高度な発達によってイデオロギーは終わったとする、もう一つのイデオロギー――実際には資本による社会と民衆の新自由的な支配――からの脱出が必要だと考えます。

    by BeneVerba | 2012-05-31 08:22 | Trackback | Comments(0)
    プルトノミーとプレカリアート/凋落するアメリカ経済の歴史について
    Plutonomy and the Precariat: On the History of the U.S. Economy in Decline
    2012年05月08日 - ノーム・チョムスキー
    原文:
    http://www.tomdispatch.com/archive/175539/
    http://www.huffingtonpost.com/noam-chomsky/plutonomy-and-the-precari_b_1499246.html


     占拠運動は、極めてエキサイトな発展を成し遂げた。実際のところ、これには前例がない。私に思いつく限り、これに似たものはこれまでに存在しない。この運動が確立した結束とつながりを、この先の長く暗い時代にも持ち耐えることができるのなら――なぜなら、勝利はすぐにはやって来ないのだから――ば、それはアメリカの歴史における重大な瞬間となるだろう。

     占拠運動が前例のないものであるという事実は、非常にもっともなことである。結局、現在は前例のない時代であり、アメリカの歴史に大きな転換を記した一九七〇年代以来そうだからである。建国以来数世紀の間、常にうまいやり方ではなかったにしろ、社会はずっと発展してきた。それとは別の話だが、一般的な進歩は、富、工業化、発展、そして希望に向かっていた。この先もこのようであるだろうという、相当に一貫した見込みがあった。非常に暗い時代でさえもそうだった。

     私は大恐慌を覚えているほどの年齢に当たる。一九三〇年代の最初の数年間――客観的に見て、当時の状況は、今日のそれよりもはるかに過酷なものだったのだが――の後でさえ、人々の精神は全く異なるものだった。「これから抜け出してやる」という感覚が、私の親類たちも含め、失業者たちの中にあった。「やがて良くなるだろう」という感覚が。

     戦闘的な労働組合――特にCIO(産業別労働組合会議)傘下の団体――による、組織化が進行していた。座り込みストライキをして、実業界を恐れさせるところまで――当時の業界紙を見ればわかる――行っていた。なぜなら座り込みストは、工場を乗っ取り、自分たちで運営するのに後一歩だからだ。ついでに言えば、労働者による奪取というアイディアは、現在特に課題となっているものであり、私たちはそれを覚えておくように努めよう。また、民衆からの圧力の結果として、ニューディール立法が出現し始めていた。困難な時代にもかかわらず、どこかしら「私たちは、これから抜け出してみせる」という感覚があった。

     現在では全く様子が違っている。アメリカの多くの人々にあるのは、広く浸透した希望のなさの感覚であり、時には絶望の感覚である。私が思うに、これはアメリカの歴史において極めて新奇な事態であり、そしてそれには客観的基礎がある。


    労働者階級について

     一九三〇年代には、失業した労働者階級の人々は、やがて仕事が戻ってくると見込むことができた。しかし今は、あなたが製造業の労働者――現在の失業率はおよそ大恐慌のそれなのだが――で、現在の傾向が続くのなら、それらの仕事は戻ってこない。

     変化が起きたのは、一九七〇年代である。それには多くの理由がある。主に経済歴史学者ロバート・ブレナーが論じているのは、その基礎となる要因の一つとして、製造業における利潤率の低下があるということだ。その他にも要因はあった。そして、それは経済における大きな変化を導いた。工業化と発展へ向かう進歩の数百年からの反転であり、脱工業化と脱発展のプロセスへの転換だった。もちろん製造業の生産は海外で続き、大きな利益を上げているが、労働力にとっては良いことではない。

     それとともに、生産的な事業――人々が必要とするか使用する物の生産――から、金融的な操作へと、経済の顕著な転換がなされた。経済の金融化こそ、この時代に起きたことである。


    銀行について

     一九七〇年代以前には、銀行は銀行だった。それらは国家資本主義経済の中で、期待された役割を果たしていた。銀行口座の未使用の資金を使って、例えば、家族が家を購入するとか、子どもを大学に入れるとかを支援して、潜在的に有益な目的に振り向けていた。それが劇的に変わったのは、一九七〇年代だ。大恐慌以来、それまでに金融危機はずっと存在しなかった。一九五〇年代と一九六〇年代は、アメリカの歴史において、そしておそらくは経済史においても最高に、巨大な成長の時代だった。

     それに平等主義でもあった。最下層の二〇%と最上層の二〇%が、同様にやっていた。多くの人々が理に適った生活様式――この国で「中産階級」と呼ばれ、他国では「労働者階級」と呼ばれるもの――を送るようになったが、それは本物だった。一九六〇年代には、それが加速した。かなり憂鬱な一〇年間の後、これらの年代のアクティヴィズムは、恒久的な様々なやり方で、この国を真に文明化した。

     一九七〇年代になると、突然で急激な変化が訪れた。脱工業化、生産の海外移転、そして巨大に成長した金融機関への移行。また、言わなければならないのは、一九五〇年代と一九六〇年代には、数十年後にハイテク経済となるものが発展したということだ。コンピューター、インターネット、IT革命は、実質的に国有部門で発展した。

     一九七〇年代に起きた発展が、悪循環の原因となった。それは金融部門にますます富を集中させた。これは経済に益するものではない――どころか、おそらくは経済と社会を傷付けるものだ――が、途方もない富の集中を導いた。


    政治と金

     富の集中は、政治権力の集中をもたらす。そして、政治権力の集中は、この循環を増大させ加速させる立法をもたらす。立法――本質的には二大政党が一致する分野――は、企業統治と規制撤廃の諸規則だけでなく、新しい財政政策と税制の変化をもたらす。とともに、それは選挙費用の急激な増加をもたらし、政党は企業部門のポケットに、さらに深く手を突っ込むことになる。

     多くの意味において、政党は解散した。かつては、国会にいる人物が、委員会の委員長のような地位を望むのなら、彼または彼女は、主に年功序列と功績によってそれを得た。主にトム・ファーガソンが研究したテーマによれば、数年の後には、昇進のためには、党の資金につぎ込まなければならなくなった。それは、全システムを、さらに深く企業部門(特に金融部門)のポケットに突っ込ませた。

     この循環は、主に人口の一%のトップ一〇分の一に、途方もない富の集中を生みだした。一方それは、不況、もしくは人口の多数派にとっては凋落の時代を開始した。より長い労働時間、高率の負債、近年の住宅バブルのような資産インフレーションへの依存といった、不自然な手段によって、何とか人々は生活していた。アメリカにおけるそれらの労働時間は、すぐに、日本や様々なヨーロッパの地域といった、他の先進国のそれよりも高くなった。つまり、多数派にとって不況と凋落の時代がある一方で、急激な富の集中の時代があった。政治システムは、溶解し始めた。

     政策と民意の間には常にずれがあったが、それは天文学的にかけ離れたものになった。実際、それは今すぐに見ることができる。ワシントンの誰もが注目している大きな問題は何だろうか。それは赤字である。大衆にとって、正しく、赤字は大きな問題とみなされていない。そして、実際にそれは大きな問題ではない。問題なのは失業である。赤字に対処する委員会はあるが、失業に対処する委員会はない。赤字に関する限り、大衆は意見を持っている。世論調査を見てみればいい。人々は、圧倒的に富裕層へのより高い課税を支持している。富裕層の税率は、不況と凋落、そして限られた社会的利益の保護の時代に急速に低下した。

     赤字委員会の結果は、おそらくその正反対となるだろう。占拠運動は、この国の心臓に突き付けられた短剣に等しいものを、回避しようとするための大衆的基盤を提供できるかもしれない。


    プルトノミーとプレカリアート

     人口の大半――占拠運動が「九九%」とイメージする人々――にとって、状況はこれまで過酷なものだったが、更に悪化することもあり得る。反転不可能な凋落の時代となるかもしれない。一方、「一%」あるいはそれ以下の人々にとっては、何の問題もない。彼らはこれまでになく富んでおり、これまでにない力を手にしており、政治システムをコントロールし、大衆を無視している。彼らが関係している限り、それが続くことができるのならば、もちろん、そうしない手はない。

     例として、シティグループを挙げてみよう。数十年の間、シティグループはもっとも腐敗した主要な投資銀行だった。レーガン時代に始まって、今に至るまで繰り返し納税者から救済措置を受けてきた。その腐敗についてはここでは繰り返さないが、極めて驚くべきものである。

     二〇〇五年に、シティグループは、投資家に対して「プルトノミー:贅沢を買う、グローバルな不均衡の説明」というパンフレットを公表した。それは、投資家たちに「プルトノミー・インデックス」に、お金をつぎ込むように促すものだった。パンフレットによれば、「世界は二つのブロックに分かれつつあります。プルトノミーと残りです」。

     プルトノミーとは、高級品などを購入する富裕層を指し、そこにこそ本物の活動があるのだった。彼らはプルトノミー・インデックスが、株式市場よりはるかに効率が良いと主張した。残りはといえば、実際に社会を構成するものではなかった。彼らのことなどどうでもいいし、我々には必要ではない。我々が問題に巻き込まれた時に、我々を保護し救済する、強力な国家を提供するために、彼らの存在は必要だが、それ以上のことでは、彼らは本質的に何の機能も果たさない。最近では、それらの人々は、時に「プレカリアート」と呼ばれている。社会の周縁で、不安定な実存を生きる人々のことだ。ただし、それはもはや周縁ではない。それは実際、アメリカやその他のどこでも、社会の実質的な部分となりつつある。そして、それは良いことだと考えられている。

     例えば、FRBのアラン・グリーンスパン議長は、経済の専門家たちからもっとも偉大なエコノミストの一人と称えられ、未だ「聖アラン」でいられた当時(彼に実質的な責任がある金融崩壊以前のことだ)、クリントン時代の国会に対して証言し、自らが監督していた偉大な経済の不思議について説明した。彼は、その成功の大部分が、実質的に彼が「増加する労働者の不安定性」と呼ぶものに、基盤を置いていると述べた。労働者たちが不安定ならば、また彼らがプレカリアートに属し、不安定な実存を生きているのならば、彼らは要求を出さず、より良い賃金を求めようとはせず、よりましな利益を得ることはできない。必要でなくなったら、彼らは追い出すことができる。技術的に言えば、それが「健全な」経済と呼ばれるものだ。そして、彼はこの発言のために非常に賞賛され、大きな評価を受けた。

     そして、世界は今プルトノミーとプレカリアートに分裂しようとしている。占拠運動がイメージするように、一%と九九%に。これは実際の数字ではないが、正しく状況を描き出している。今では、プルトノミーこそ実際の活動がある場所であり、今後もそのように続くかもしれない。

     そうであるならば、一九七〇年代に始まった歴史的な転換は、反転不能なものとなる。私たちが向かっているのは、そこである。そして占拠運動は、これを回避するかもしれない、最初で、本物の、主要な、民衆による反応である。だが、長く困難な闘いになるという事実に、目を向けることが必要になるだろう。明日に、勝利を勝ち取ることはできない。維持することができ、困難な時代に耐えることができ、大きな勝利を勝ち取ることのできる構造を形成しなければならない。そして、なすことのできることは数多くある。


    労働者による奪取に向けて

     先に述べたように、一九三〇年代にもっとも効果的な行動の一つは、座り込みストライキだった。そして、その理由は単純である。それが産業の奪取にあと一歩だからだ。

     一九七〇年代を通して、凋落がやって来るにつれ、いくつかの重要な出来事が起こった。一九七七年には、USスチールが、オハイオ州ヤングズタウンにある主な施設の一つを閉鎖することを決めた。従業員たちとコミュニティは、単に歩き去る代わりに、団結して会社からそれを買い取り、労働者に明け渡して、労働者が運営し管理する施設に変えることに決めた。彼らは、勝利することができなかった。だが、充分な支持を得れば、彼らは勝つこともできた。これはガー・アルペロヴィッツと、労働者たちとコミュニティのために弁護士として働いたストートン・リンドから詳しく聞いた話だ。

     彼らが敗北したとしても、部分的には勝利し、その他の努力の引き金となった。現在ではオハイオ中とその他の場所に、数百の、時にはそれほど小さくない、労働者管理に転換可能な労働者/コミュニティ所有の産業がある。そして、それは本物の革命の基礎となるものだ。それはどうやるべきかの見本だ。

     ボストン郊外のある場所で、約一年前に、よく似た何かが起こった。ある多国籍企業が、利益を生み出し、機能しているハイテク製造の施設を閉鎖することを決定した。明らかに、彼らにとっては充分に利益を生むものではなかったのだ。従業員たちと労組は、それを買い、引き取り、自分たちで運営することを申し出た。多国籍企業は、おそらく階級意識的な理由で、そうせず閉鎖することに決めた。思うに、彼らはこうしたことが起きてほしくなかったのだろう。民衆からの充分な支持があれば、関係することのできる占拠運動のような何かがあれば、彼らは成功していたかもしれない。

     他にもこのようなことは起きている。実際、そのうちのいくつかは有名である。そう遠くない昔に、オバマ大統領は自動車産業を引き取り、基本的にそれは市民によって所有されるものになった。なすことができたことは数多くあったが、そのうちの一つは実際になされたものだ。オーナーシップか、よく似たオーナーシップの元に返すことができるようにしておき、伝統的なやり方で続けるというものだ。

     他の可能性は、それを労働者たち――いずれにせよ彼らが所有しているのだ――の手に明け渡し、労働者の所有・管理により、経済の根幹となる主要な産業システムに変え、人々が必要とするものを生産することだった。そして、私たちが必要とするものは、多くある。

     私たちがみな知っているか、知っておくべきであるのは、世界的に見て、アメリカは高速輸送において極めて遅れており、それが深刻な問題だということだ。それは人々の生活だけではなく、経済にも悪影響を与えている。それについては、個人的な話がある。数ヵ月前にフランスで話す機会に恵まれたのだが、南仏のアビニョンから、パリのシャルル・ド・ゴール空港まで列車に乗らなければならなかった。ワシントンDCからボストンまでと同じ距離である。二時間だった。ワシントンからボストンまで列車に乗ると、私と妻がそれに初めて乗った六〇年前と同じ速度で運行しているのだ。これはスキャンダルである。

     ヨーロッパでなされているのと同じように、ここでもなされることが可能なはずだ。彼らにはそれをなす能力――熟練した労働力――があった。民衆からの支持が少しばかり必要かもしれないが、経済に大きな変革をもたらすことが可能だろう。

     事態をより超現実的にしているのは、この選択が避けられている一方で、オバマ政権が運輸省の長官を、アメリカのために高速鉄道を開発するという契約のため、スペインに派遣しているという事実だ。それは、現在操業停止中のラスト・ベルト〔斜陽化した工業地帯〕でなされるべきだったろう。それが起きないことを示す、経済的理由は何もない。階級的な理由ならばあり、それは民衆による政治的結集の欠如を反映したものだ。こうしたことは続くだろう。


    気候変動と核兵器

     これまでは国内問題について話してきたが、国際分野では二つの危険な開発が行われている。それらは、これまでに議論してきたこと全てを覆う、影のようなものだ。人類の歴史において初めて、種のまともな(decent)生存に対する本物の脅威がある。

     一つの影は、一九四五年から垂れ込めていたものだ。私たちがそれを逃れることができたのは、ある種の奇跡だ。それは核戦争と核兵器の脅威である。多くは議論されていないが、実際、この脅威は、この政権とその同盟諸国の政策によって、拡大している。そして、それについて何かがなされなければ、私たちは深刻な問題に巻き込まれるだろう。

     もう一つは、もちろん環境的なカタストロフィだ。事実上、世界の全ての国が、それに関して何かをなそうとして、少なくともたどたどしい措置を執っている。アメリカもまた措置を執っているが、それは主に脅威を増大させる方向にである。この国は、環境を守るために建設的な何かをしていない唯一の主要国である。それは列車に乗ろうとしていないどころか、後ろ向きに動かしている。

     これは、巨大なプロパガンダ・システムと関係がある。実業界が誇らしげかつあからさまに宣言しているように、それは気候変動がリベラル派の作り話に過ぎないと、人々に思わせようとしている。「なぜ科学者なんかに注意する必要があるんだ?」というわけだ。

     私たちは本当に、暗黒時代へと逆行している。これは冗談ではない。それが史上もっとも強力で豊かな国で起きているのなら、このカタストロフィは避けられないだろう。一つか二つの世代のうちに、私たちが話している他のことは重要でなくなるだろう。特別かつ持続したやり方で、これについて何かがすぐになされなければならない。

     前進するのは、容易ではない。そこには、障壁、問題、困難、失敗があるだろう。それは不可避だ。だが、ここやその他の地で、そして世界中で持ち上がった昨年の精神が、広がり続けて社会的経済的な世界で主要な力とならない限り、まともな未来を得る可能性はそれほど高くはない。



    訳者コメント:
     ハフィントン・ポストとトムディスパッチの両方に投稿されたチョムスキーの論考、それらによれば新著『オキュパイ』からの抜粋とのこと。その元は昨年10月のスピーチらしいので、おそらく「未来を占拠せよ」として翻訳したボストンでの講演だろう。

    [同日の変更]
     千葉学氏からの指摘で、「vicious cycle」の訳語を「悪循環」に。単純ミス。その他ニ、三の語の見直し。

    by BeneVerba | 2012-05-26 04:20 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)




    コメント:
     一昨日アップロードしていたギリシア制作のドキュメンタリー映画『デットクラシー(Debtocracy)』――負債による支配といった意味の造語――に、日本語字幕を付けて公開。これはクリエイティブ・コモンズ(CC BY-SA)で公開されているもので、公式サイトにもそのことは明示されている。

     全面で取り上げられているわけではないが、デヴィッド・ハーヴェイやアラン・バディウといった有名どころも出演。ついでに言えば、大した話ではないが1時間8分辺りのところで、このブログでも良く取り上げるお二方の写真が……。

     このドキュメンタリーはNHKが「ギリシャ/財政破綻への処方箋~監査に立ち上がる市民たち~」の題名で放映したことがあるはずだが(私はインターネットで視聴)、編集で切り刻まれた結果内容から受ける印象はかなり異なっている。

     NHK放映版では、その邦題通りに、債務監査委員会の結成(と不当債務の概念)が全ての解決法であるかのような締めくくり方をしているのだが、この「インターナショナル・ヴァージョン」では、監査委員会はより大きな闘いの一部だとはっきり言われている。

     そのより大きな闘いが一体どんな闘いなのかは観ていただくとして、最後に翻訳上のことを。複数の言語によって構成されているために、英語の字幕を元に、適時フランス語の字幕を参照しながら翻訳した。したがってほとんどの部分で重訳ということになる。その点は申し訳ないのだが、可能な限り正確であるように努めたし、今後も見直していきたい。

    [7/17の追記]
     千葉学(@mnb_chiba)氏のサジェスチョンを受けて、日本語の題名を『デトクラシー』から『デットクラシー』に変更。YouTubeの説明文も合わせて変更した。この場を借りて氏に感謝したい。

    by BeneVerba | 2012-05-20 00:14 | 動画 | Trackback | Comments(3)
    「ウォール街を占拠せよ」:次になされるべきは何か?
    Occupy Wall Street: what is to be done next?
    2012年04月24日 - スラヴォイ・ジジェク
    原文:http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2012/apr/24/occupy-wall-street-what-is-to-be-done-next


     「ウォール街を占拠せよ」運動の余波の中で何をなすべきか、遙か彼方で始まった抗議――中東、ギリシア、スペイン、イギリス――が、中心へと到達し、増幅され、世界を席巻しているのだろうか?

     二〇一一年一〇月一六日のOWS運動のサンフランシスコでの反響において、一人の男が、まるでそれが一九六〇年代のヒッピー流のハプニングであるかのように、群衆に参加を呼びかけながら話しかけた。
    「やつらは俺たちのプログラムは何だと訊いている。俺たちにプログラムなんてない。俺たちは楽しい一時を過ごすためにここにいるんだ」

     こうした表明は、抗議者たちが直面している最大の危険の一つを示している。彼らが、「占拠中」の場所で楽しい時間を過ごし、自分自身と恋に落ちるという危険である。カーニヴァルは安く付く――彼らの価値への真の試練はその後に何を残すか、我々の通常の生活がどの様に変わるのかだ。抗議者たちは辛く根気のいる労働と恋に落ちるべきなのだ――彼らは始まりであって、終わりではない。彼らの基本的なメッセージは、「タブーは破られた。我々は最善の可能世界に住んでいるわけではない。我々はオルタナティブについて考えることを許されている、義務付けられてさえいる」というものだ。

     ある種のヘーゲル哲学的な三つ組(triad)において、西側の左翼は元の場所へと回帰した。反レイシズムやフェミニズムなどの闘争との複数性のために、いわゆる「階級闘争の本質」を放棄した後、「資本主義」は現在明らかにその問題の名で再興隆している。

     最初に禁止しなければならない二つのことは、それゆえに、腐敗を批判することと金融資本主義を批判することである。第一に、人々と彼らの態度を非難してはならない。問題なのは腐敗や貪欲ではなく、腐敗へと駆り立てる体制である。解決策は、目抜き通りでもウォール街でもなく、目抜き通りがウォール街なしに機能しない体制を変えることだ。ローマ法王を始めとする著名人たちは、過剰な貪欲と達成の文化と戦えとの指令を、私たちに浴びせかけた――もしそうしたものがあるとしたら、この安っぽい道徳化のむかつくような光景は、まさにイデオロギー上の作戦である。体制それ自体に刻み込まれた(拡張された)衝動が、個人の罪、個人的な心理学的特質に翻訳されている。もしくは、法王に近い神学者の一人がこう述べたように。
    「現在の危機は資本主義の危機ではなく、道徳性の危機なのです」

     エルンスト・ルビッチの『ニノチカ』の有名な冗談を思いだそう。カフェテリアを訪れた主人公が、クリーム抜きのコーヒーを注文する。するとウェイターがこう答えるのだ。
    「申しわけございません、手前どもは現在クリームを切らしておりまして、ミルクしかございません。ミルク抜きのコーヒーならお持ちできますが?」

     一九九〇年の東欧の共産主義体制の解体において、よく似たトリックが働いたのではないだろうか?抗議した人々が求めていたのは、腐敗と搾取のない自由と民主主義だった。彼らが得たのは、連帯と正義のない自由と民主主義だった。同じ様に、法王に近いカソリックの神学者は用心深く、資本主義を攻撃することなしに、道徳的不正、貪欲、消費主義などを攻撃することを抗議者たちに求めている。資本の自己増進性は、これまでにないほど私たちの生活の究極の現実に食い込んでいる。資本主義は、その定義から言って、制御不可能な獣である。

     失われた大義に対するナルシシズムの誘惑、失敗する運命にあった蜂起の崇高な美を崇める誘惑は避けねばならない。蜂起の崇高な熱狂が終わったその後で、どのような新しい積極的な秩序が古いそれに取って代わるべきなのか?この重要な点において、我々は抗議の致命的な弱点に遭遇する。彼らは、最小限の積極的な社会政治的変革プログラムへと変容することのない真性の怒りを表明した。彼らは、革命なき反逆(revolt without revolution)の精神を示したのだ。

     パリでの一九六八年の抗議に反応して、ラカンはこう言った。
    「革命家として、あなた方が切望するのは新しい主人である。あなた方はやがてそれを得るだろう」

     ラカンの評言は、スペインのインディグナドスに対しても(そればかりではないが)、その対象を見いだせるようだ。彼らの抗議が、古いそれを置き換える新しい秩序の積極的なプログラムを欠き、主人を求めるヒステリー的な憤激である限りにおいて、たとえ否認するにせよ、新しい主人を求める声として効果的に機能する。

     我々はこの新しい主人をギリシアとイタリアに見ている。おそらくスペインがそれに続くだろう。あたかも抗議者の専門的なプログラムの欠如に回答するかのように、政府の政治家を非政治的なテクノクラート(ギリシアやイタリアがそうであるように、ほとんどが銀行家)からなる「中立な」政府に取り替えるというのが、現在の傾向である。彩り豊かな「政治家」は外、灰色の専門家は内というわけだ。この傾向は明らかに、永続的な緊急事態と政治的な民主主義の停止に向かうだろう。

     したがって、我々はこの発展の中にまた挑戦も見出さなければならない。イデオロギーのもっとも冷酷な形態として、非政治的な専門家の支配を拒否するだけでは充分ではない。優勢な経済組織に替えて、何を提案すべきかもまた真剣に考え始めるべきなのだ。代わりとなる組織の形態を想像し実験するべきなのだ。新しいものの芽生えを探し求めるべきなのだ。共産主義は体制が停止した時の単なる、あるいは優勢な集団抗議のカーニヴァルではない。共産主義は何よりもまた新しい形態の組織であり、規律であり、重労働なのだ。

     抗議者たちは敵だけではなく、彼らを支持するふりをしているが、抗議を薄めようと忙しく働いている偽の友たちにも注意するべきだ。我々がカフェイン抜きのコーヒーを、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを渡されるのと同じやり口で、彼らは抗議を無害で道徳的な身振りに替えようとするだろう。ボクシングにおいて「クリンチ」が意味するのは、パンチを予防するか妨げる目的で、対戦者の身体を片方ないし利用法の腕でつかむことである。ビル・クリントンのウォール街抗議への反応は、政治的クリンチの完璧な例だ。クリントンは抗議を「全体的に考慮すれば……積極的なことだ」と考えているが、抗議の不明瞭さを心配している。クリントンは抗議者たちにオバマ大統領の雇用計画を支持するように示唆した。それによれば「次の一年半の間に数百万の雇用が創出されるだろう」。この段階で抵抗すべきなのは、まさにこうした抗議のエネルギーを一連の「具体的で」実用的な要求に素早く置き換えようとする行為だ。そう、抗議は真空を作り出した。真に新しいものの幕開けとなるものを。抗議者たちが街頭へと繰り出した理由は、コーラの空き缶をリサイクルすることで、チャリティとして数ドルを寄付することで、もしくはスターバックスのカプチーノを買うと、その一%が第三世界の抱える問題にいくことで、彼らを満足させて、それで良しとしているこの世界にうんざりしているからなのだ。

     経済のグローバリゼーションは漸進的に、だが容赦なく西側の民主主義の正統性を損なっている。それらの持つ国際的な性格のせいで巨大な経済的プロセスは、定義により国民国家に限られている民主的な機構によって制御することができない。そのために、人々はさらに制度的な民主的形態が彼らの死活問題をとらえることができないという事態を経験する。

     マルクスの重要な洞察がこれまでになく未だ有効なのはここだ。マルクスにとって、自由の問題は、厳密に政治的分野の第一に置くべきものではなかった。実際の自由への鍵は、市場から家族までの、社会的諸関係の「非政治的な」ネットワークに存するものだった。そこでは、我々が実際の改善を望むのなら必要な変化は政治的な改革ではなく、「非政治的な」生産の社会的諸関係を変えることだった。誰が何を所有するかについて投票したりはしないし、工場での関係について投票したりしない……などなど。こうした全てのものは政治的な分野の外側のプロセスに委ねられている。民主主義をこの分野にまで「拡張する」ことによって、ものごとを効果的に変えることができると期待するのは非現実的である。言うなれば、人々の管理下にある「民主的な」銀行を運営しようというようなものだ。そうした「民主的な」手続き(もちろんそれらは積極的な役割を果たすことができるが)においては、我々の反資本主義がいくらラディカルなものであっても、解決策は民主的な機構の適用を模索される。それは――決して忘れるべきではないことに――資本の再生産の円滑な機能を保証する「ブルジョワ」国家の国家機構の一部なのだ。

     一貫したプログラムのない国際的な抗議運動の出現は、それゆえに偶然の出来事ではない。それは明確な解決策のないより深刻な危機の反映である。状況は精神分析のそれに類似している。患者は答えを知っている(彼の症状がそのような答えだ)が、何に対する答えなのかを知らず、分析家が問題を構成しなければならない。そのような根気強い仕事を通してのみプログラムは出現するだろう。

     かつてのドイツ民主共和国の古い冗談にこういうものがある。ドイツの労働者がシベリアで働くことになった。全ての手紙が検閲官に読まれることを知っていたので、友人にこう言った。
    「暗号を決めておこう。君が私から受け取った手紙が普通の青いインクで書かれていたら、それは真実だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ」

     一ヵ月後、彼の友人は全てが青い色で書かれていた最初の手紙を受け取った。
    「ここは全く素晴らしいところだ。商店は品揃えが良い。食料は豊富にある。アパートメントは広々としてちょうど良い暖かさだ。映画館では西側の面白い映画をやっている。お楽しみが欲しければ美しい女の子たちだっている。……ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ」

     これが今まで私たちが置かれてきた状況ではないだろうか?私たちには望む全ての自由がある――ただ欠けているのは「赤いインク」だけだ。私たちが自由だと感じるのは、私たちの不自由を明確に現すその言語を欠いているからだ。この赤いインクの欠如が意味するものは、現在の紛争を示すために我々が用いる全ての主要な用語――「テロとの戦い」「民主主義と自由」「人権」など――が偽物であり、我々にそれを思考する代わりに、我々の状況認識を惑わすものだということだ。

     今日の課題は、抗議者たちに赤いインクを与えることである。



    訳者コメント:
     ツイッターで翻訳のリクエストがあり、翻訳。このブログの読者ならおわかりのように、これまでに発表した文章やスピーチとの重複が多い。特に昨年の「ウォール街を占拠せよ」でのスピーチと重なる部分は明かであろう。

     付け加わった部分については、訳者がその能力に達していないこともあり(もっとマルクスを読まないと……)コメントを割愛させていただきたい。

    by BeneVerba | 2012-05-18 03:06 | 翻訳 | Trackback | Comments(2)
     先週に、ユーチューブのアップロード上限が緩和されたため、以前に二分割で上げていた昨年一〇月のジジェクのスピーチの全体を一本の動画としてアップロードすることができた。

     読者は、複数のエントリがあるために混乱してしまうかもしれない。ここで、少しだけ各エントリを解説しておく。


    翻訳:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった [部分訳]
     occupywallst.org にスピーチの一部について、動画と書き起こしが上がっていたのを元に翻訳を付けたもの。最初にして不完全な翻訳。

    翻訳:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった
     元々は、上述の書き起こしを Impose Magazine の書き起こしで補って全体を翻訳したもの。しかし、そのどちらも不完全なため、結局インターネット上で手に入るあらゆるリソースを使って、スピーチを再現した。以前は「補完版」としていたが、これがもっとも完成されている。

    動画:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった
     最初に述べたように、これが最新のスピーチ動画。字幕として使用したテキストもついでに載せてある。




    by BeneVerba | 2012-05-16 07:51 | 情報 | Trackback | Comments(0)
    民主主義と資本主義の結婚は終わった
    The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
    2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク





     私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬たちは、あそこウォール街にいます。彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と呼ばれています。しかし、ここには既に富裕層のための社会主義が存在するのです。私たちは私有財産を尊重していない、と彼らは言います。しかし、二〇〇八年の金融崩壊においては、苦労の末に手に入れた私有財産が数多く破壊されたのです。私たちの全員が、昼夜の境なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多くです。

     私たちは夢を見ているのだと、彼らは言います。しかし、真に夢を見ている人というのはものごとが永遠にそのままであり続けると考えている人たちのことです。私たちは夢を見ているのではありません。私たちは夢から覚めつつあるのです。悪夢へと変わろうとしている夢から。私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、体制がどのように自壊するかを目撃しているだけなのです。

     私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へ到達した猫が、そのまま歩き続けるのです。下には何もないという事実を無視して。下を見て、そのことに気付いた時に、ようやく落下します。それが私たちがここで、やっていることなのです。私たちは、ウォール街の面々に、こう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。

     二〇一一年の四月中旬に、中国政府はあることを禁止しました。全てのTVや映画や小説において、別の現実やタイム・トラベルを含む内容を扱うことを。これは中国にとって良い兆候です。つまり、人々が未だオルタナティブを夢見るためには、そうした夢を禁止すべきだ、ということです。ここでは、そうした禁止は必要ありません。なぜなら、支配体制が私たちの夢見る能力を抑圧すらしないからです。私たちが普段観ている映画を、思い浮かべてください。世界の終わりを想像するのは容易です。小惑星が生命体を全て絶滅させるとか、そういったたぐいのものです。しかし、資本主義の終焉は想像できません。

     それでは、私たちは一体ここで何をしているのでしょう?ここで一つ、素晴らしい、古い、共産主義時代のジョークをお話しさせてください。一人の男が、東ドイツからシベリアへ、働くために送られました。自分の手紙が検閲官に読まれることを、彼は知っていました。そこで、自分の友達にこう言いました。「暗号を決めておこう。もし私からの手紙が、青いインクで書かれていたら、私の言っていることは真実だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ」。

     一ヵ月後、彼の友達は最初の手紙を受け取りました。全ては青いインクで書かれていました。その手紙にはこう書かれてました。「ここは全く素晴らしいところだ。商店はおいしい食べ物で一杯だ。映画館では西側の面白い映画が観られる。アパートメントは広々として豪華だ。ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ」。

     このようなあり方で、私たちは生きているのです。私たちには、私たちが望むあらゆる自由があります。私たちには、ただ赤いインクがないだけなのです。私たちの不自由を明確に表すための言語が。私たちがそういう風に話すようにと教えられた自由についての話法――「テロとの戦い」とかそういったことです――それが自由を偽ってしまうのです。そして、それがあなたたちが、ここでしていることなのです。あなたたちは、私たちみなに赤いインクを授けているのです。

     そこには危険もあります。自分自身と恋に落ちないようにしてください。私たちはここで、楽しい時を過ごしています。だが、覚えておいてください。カーニバルは安上がりなのです。重要なのは、その翌日私たちが日常生活へと戻る時です。そこに何らかの変化はあるのでしょうか?私はあなたたちに、これらの日々を想い出にして欲しくありません。「ああ、私たちは若く、全ては素晴らしかった」などと。

     覚えておいてください。私たちの基本的なメッセージは、「私たちはオルタナティブを考えることを許されているのだ」というものです。タブーは破られました。私たちは、最善の可能世界に住んでいるわけではないのです。この先に長い道のりがあります。そこには、真に困難な問いが立ちはだかっています。私たちは、私たちが何を望んでいないかを知っています。それでは、私たちは一体何を望んでいるのでしょう?どのような社会組織が、資本主義の代わりとなるのでしょう?どのようなタイプの新しいリーダーを、私たちは望んでいるのでしょう?

     覚えておいてください。問題は、腐敗でも貪欲でもないのです。問題なのは体制です。それが腐敗を強いるのです。敵だけに注意するのでなく、偽の友にも注意してください。彼らは既に、この抗議を薄めようとしています。カフェイン抜きのコーヒーを、受け取る時と同じやり口で、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを、受け取る時と同じやり口で彼らは、これを無害で道徳的な抗議活動に変えようとするでしょう。カフェイン抜きの抗議です。

     私たちがここにいる理由は、私たちがこの世界にうんざりしているからなのです。コーラの空き缶をリサイクルすることで、チャリティとして数ドルを与えることで、もしくは、スターバックスのカプチーノを買うと、その一%が飢えに苦しむ第三世界の子どもたちのところに行くことで、私たちを気分良くして、それで良しとしているこの世界に。労働と拷問を外部に委託したその後で、私たちの性生活ですら、今や結婚仲介業者が外部に委託しているその後で、私たちは理解しています。私たちの政治的参加もまた、長い間委託されるに任せていたことを。私たちはそれを取り戻したいのです。

     私たちは共産主義者ではありません。もし、共産主義が一九九〇年に崩壊した体制を意味するのならば。思い出してください。今日ではそれらの共産主義者たちが、もっとも能率的で冷酷な資本主義者であることを。今日の中国には、資本主義が存在します。アメリカの資本主義以上に、ダイナミックなが資本主義が。しかし、それは民主主義を意味しません。それが意味することは、あなたが資本主義を批判しようとする際に、脅されるような真似を許してはならないということです。まるであなたが民主主義に、反対しているかのように。民主主義と資本主義の結婚は終わったのです。

     変革は可能です。ところで、今日私たちは何を可能だと見なしているのでしょう?メディアを追いかけてみましょう。一方では、テクノロジーとセクシャリティーにおいて、全てが可能であるかのように見えます。月まで旅行に出かけることも可能です。遺伝子工学によって、不死になることも可能です。動物であれ何であれと、セックスすることも可能です。ですが、社会と経済の領域を見渡してみると、そこでは、ほとんど全てのことが不可能だとされているのです。

     あなたが富裕層の税率を、ちょっとばかり引き上げたいと言えば。「それは不可能だ。競争力を失う」と彼らは言うのです。あなたがヘルスケアにもっとお金が欲しいと言えば、「不可能だ。全体主義国家のやることだ」と彼らは言うのです。この世界はどこかが間違っているのではないでしょうか。不死になることを約束されているのに、ヘルスケアに費やすお金をほんの少しも上げることができない世界は。

     おそらくここできちんと私たちの優先事項を、設定することが必要なのでしょう。私たちはより高い生活水準など望んでいないのです。私たちはより良い生活水準を望んでいるのです。たった一つの意味においてのみ、私たちが共産主義者(コミュニスト)であるのは、私たちがコモンズに配慮しているからです。自然のコモンズ、知的所有権によって私物化されたもののコモンズ、遺伝子工学のコモンズ。このために、このためだけに私たちは闘うべきなのです。

     共産主義は間違いなく失敗しました。しかし、コモンズの問題がまだここにあります。ここにいる私たちはアメリカ人ではない、と彼らは言います。しかし、自分たちこそが本当のアメリカ人だと主張する保守派の原理主義者たちは、何かによって気付かされなければなりません。キリスト教とは何でしょうか?それは聖霊です。聖霊とは何でしょうか?信じる者たちによって構成される、平等主義の共同体です。お互いへの愛で結びついた者たちによって。そして、自らの自由と責任を所有する者だけが、それをなすことができるのです。

     この意味において、聖霊は今ここに存在します。そして、あそこウォール街にいるのは、涜神的な偶像を崇拝している異教徒たちです。だから、私たちに必要なのは忍耐だけです。私が恐れているたった一つのことは、私たちがいつの日にか家に帰り、一年に一度会うようになり、ビールを飲みながら、ノスタルジックに想い出に耽るというものです。「私たちは、なんて素敵な時をあそこで過ごしたのだろう」と。そういうことにならないように、自らに誓いましょう。

     私たちは知っています。人々がしばしば何かを欲しても、本当にはそれを望んだりしないことを。どうか、あなたが本当に欲するものを、望むことを恐れないでください。

     どうもありがとうございました!



    コメント:
     YouTubeの長さ制限が緩和されたため、以前二分割でアップロードしていたスラヴォイ・ジジェクの「ウォール街を占拠せよ」でのスピーチを、新たに編集し、訳も見直して一本の動画としてアップロードしたもの。わずかながら画質と音質が向上していると思う。

     英文の書き起こしはこちら。字幕用ではない、演説としての翻訳はこちら(この翻訳も見直した)。ここからはただのぼやきだが、前の素材を再利用するのだから片手間にできると思ったら、何度もエンコードしたり、アップロードしたり、大変苦労してしまった。

    by BeneVerba | 2012-05-08 19:41 | 動画 | Trackback | Comments(2)
    資本主義と民主主義の結婚は終わった
    The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
    2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク
    参考:
    http://occupywallst.org/article/today-liberty-plaza-had-visit-slavoj-zizek/
    http://www.imposemagazine.com/bytes/slavoj-zizek-at-occupy-wall-street-transcript


      We are called losers. But the true losers are down there on Wall Street. They were bailed out by billions of our money. We are called socialists. But here there is already socialism for the rich. They say we don’t respect private property, but in the 2008 financial crash-down more hard-earned private property was destroyed, than if all of us here were to be destroying it night and day for weeks.

      They tell you we are dreamers. The true dreamers are those who think things can go on indefinitely the way they are. We are not dreamers. We are the awakening from a dream which is turning into a nightmare. We are not destroying anything. We are only witnessing how the system is destroying itself.

      We all know the classic scene from cartoons. The cat reaches a precipice. But it goes on walking, ignoring the fact that there is nothing beneath its ground. Only when it looks down and notices it, it falls down. This is what we are doing here. We are telling the guys there on Wall Street, “Hey, look down!”

      In mid-April 2011, the Chinese government prohibited on TV, in films, and in novels all stories that contain alternate reality or time travel. This is a good sign for China. It means people still dream about alternatives, so you have to prohibit this dreaming. Here, we don’t need a prohibition. Because the ruling history[system?] has even oppressed our capacity to dream. Look at the movies that we see all the time. It’s easy to imagine the end of the world. An asteroid destroying all life and so on. But you cannot imagine the end of Capitalism.

      So what are we doing here? Let me tell you a wonderful old joke from Communist times. A guy was sent from East Germany to work in Siberia. He knew his mail would be read by censors, so he told his friends: “Let’s establish a code. If a letter you get from me is written in blue ink, it is true what I say. If it is written in red ink, it is false.”

      After a month, his friends get the first letter. Everything is issued in blue. It says, this letter: “Everything is wonderful here. Stores are full of good food. Movie theatres show good films from the west. Apartments are large and luxurious. The only thing you cannot buy is red ink.”

      This is how we live. We have all the freedoms we want. But what we are missing is red ink: the language to articulate our non-freedom. The way we are taught to speak about freedom -- war on terror and so on -- falsifies freedom. And this is what you are doing here: You are giving all of us red ink.

      There is a danger. Don’t fall in love with yourselves. We have a nice time here. But remember. Carnivals come cheap. What matters is the day after, when we will have to return to normal lives. Will there be any changes then? I don’t want you to remember these days, you know, like “Oh, we were young and it was beautiful.”

      Remember that our basic message is: We are allowed to think about alternatives. The taboo is broken, we do not live in the best possible world. But there is a long road ahead. There are truly difficult questions that confront us. We know what we do not want. But what do we want? What social organization can replace Capitalism? What type of new leaders do we want?

      Remember. The problem is not corruption or greed. The problem is the system which pushes you to be corrupt. Beware not only of the enemies, but also of false friends who are already working to dilute this process. In the same way you get coffee without caffeine, beer without alcohol, ice cream without fat, they will try to make this into a harmless, moral protest -- a decaffienated protest.

      But the reason we are here is that we have had enough of a world where, to recycle Coke cans, to give a couple of dollars for charity, or to buy a Starbucks cappuccino where 1% goes to third world starving children is enough to make us feel good. After outsourcing work and torture, after marriage agencies are now outsourcing even our love life, we can see that for a long time we allowed our political engagement also to be outsourced. We want it back.

      We are not Communists, if Communism means a system which collapsed in 1990. Remember that today those Communists are the most efficient ruthless Capitalists. In China today, we have Capitalism which is even more dynamic than your American Capitalism, but doesn’t mean democracy. Which means when you criticize Capitalism, don’t allow yourself to be blackmailed that you are against democracy. The marriage between democracy and Capitalism is over.

      The change is possible. So, what do we consider today possible? Just follow the media: On the one hand, in technology and sexuality everything seems to be possible. You can travel to the moon. You can become immortal by biogenetics. You can have sex with animals or whatever. But look at the field of society and economy. There almost everything is considered impossible. You want to raise taxes a little bit for the rich. They tell you “it’s impossible. We lose competitivity.” You want more money for health care. They tell you, “Impossible, this means a totalitarian state.” Isn't it something wrong in the world, where you are promised to be immortal but cannot spend a little bit more for healthcare.

      Maybe we need to set our priorities straight here. We don’t want higher standard of living. We want better standard of living. The only sense in which we are Communists is that we care for the commons. The commons of nature, the commons of privatized by intellectual property, the commons of biogenetics. For this and only for this we should fight.

      Communism failed absolutely. But the problems of the commons are here. They are telling you we are non-Americans here. But the conservative fundamentalists who claim they really are American have to be reminded of something. What is Christianity? It’s the Holy Spirit. What is the Holy Spirit? It’s an egalitarian community of believers who are linked by love for each other. And who only have their own freedom and responsibility to do it.

      In this sense, the Holy Spirit is here now. And down there on Wall Street, there are pagans who are worshipping blasphemous idols. So all we need is patience. The only thing I’m afraid of is that we will someday just go home and then we will meet once a year, drinking beer, and nostaligically remembering “What a nice time we had here.” Promise ourselves that this will not be the case.

      We know that people often desire something but do not really want it. Don’t be afraid to really want what you desire.

      Thank you very much!

    by BeneVerba | 2012-05-06 17:18 | 書き起こし | Trackback | Comments(0)
    「ウォール街を占拠せよ」のアナーキズムのルーツ
    Occupy Wall Street's anarchist roots
    2011年11月 - デヴィッド・グレーバー
    原文:http://occupywallst.org/article/occupy-wall-streets-anarchist-roots/


     主流派メディアのジャーナリストから「ウォール街を占拠せよ」に関するインタビューを受けると、いつも受け取るのは、ほとんどいつも全く同じお説教のいくらか異なるバリエーションだ。

     「リーダーシップ構造も実践的な要求の一覧もなしに、いったいどうやってどこかにたどり着くなんてことができるのですか?それにこのアナーキスト的ナンセンスは何です――コンセンサスだとか、指先のひらひら〔ジェネラル・アセンブリーで用いられる身振り言語のこと〕だとか?こうしたラディカルな言語の全てが、みんなを遠ざけていることがわからないのですか?こんなものでは、平均的で主流派のアメリカ人に訴えかけることはできませんよ!」

     もし、これまでに受けた最悪のアドバイスを収集したスクラップブックを作成するのならば、こうした種類の意見は名誉ある地位を占めるに値するだろう。結局のところ、二〇〇七年の金融崩壊以来、アメリカの金融的エリートの略奪行為――そのようなジャーナリストがそそのかしたものなのだが――に対して全国的な運動をしかけようとする試みは、数十もあった。しかし、ようやく八月二日になって、アナーキストと若干の反権威主義者からなる小集団が、そのような集団の一つの呼びかけによって集会を開き、全員を計画されたデモ行進から、基本的にアナーキストの諸原則に基づく正真正銘の民主主義的な集会の作成に同意させた。その日こそが、ポートランドからタスカルーサまでのアメリカ人が、進んで支持する運動が定められ日だった。

     ここで、私は「アナーキズムの諸原則」という言葉で、何を意味しているのかをはっきりさせておくべきだろう。アナーキズムを説明するもっとも簡単な方法は、それは正真正銘の自由な社会をもたらすことを目的とした政治運動だと述べることだ――それは、恒常的な暴力に強制されることなしに、人間がお互いとの諸関係に入ることができる社会だ。歴史の示すところによれば、富の途方もない不平等、奴隷制のような制度、負債による奴隷労働、賃金労働などは、軍隊、監獄、警察の支えなしに存在することができない。アナーキズムは、参加者の自由な同意に基づいてのみ存在する、平等と連帯に基づいた社会を思い描く。


    アナーキズム対コミュニズム

     伝統的なマルキシズムは、もちろん、同じ究極の目標を追い求めていたが、重要となる違いがあった。ほとんどのマルクス主義者は、まず国家権力とそれに付随する官僚的な暴力の全てのメカニズムを取得し、社会を変えるのにそれを使用することが必要だという考えに固執した――そのようなメカニズムが、究極的には余分なものになって消え失せるだろうという地点まで。一九世紀においてさえ、アナーキストたちは、これをただの白昼夢だと言っていた。彼らの議論によれば、戦争を訓練することによって平和を作ることはできないし、トップダウン型の指揮系統によって平等を作ることはできないし、ついでに言うのなら、全ての個人的な自己実現と自己達成を大義に捧げる厳めしく喜びに欠けた革命家になることによって、人間の幸福を達成することはできない。

     目的が手段を正当化しないというだけではない(正当化しないが)、目的それ自体が達成したいと望む世界のモデルでない限り、目的は決して達成されないのだ。それゆえに、有名なアナーキストの呼びかけは「旧世界の殻の中で、新しい社会を築き」始めようというものなのだ。フリー・スクールから、ラディカルな労組、田舎でのコミューンまでの平等主義的な実践において。

     アナーキズムもまた革命的イデオロギーである。そして、その個人の良心と自発性への強調は、革命的アナーキズムの最初の最盛時であったおよそ一八七五年から一九一四年の間には、多くが国家と資本家のトップに対して爆弾や暗殺で直接戦うことを意味した。それゆえに、一般的なアナーキストのイメージは爆弾魔なのだ。おそらくアナーキズムが、テロリズムが――たとえ無実の者を対象としなくとも――うまくいかないことに気付いたおそらくは最初の政治運動だったことは注目に値する。一世紀近くたった今、実際のところアナーキズムは、その主導者が誰も暴力的に排除しようとしない数少ない政治哲学の一つである(実に、アナーキストの伝統を利用した二〇世紀の政治的指導者は、マハトマ・K・ガンジーである)。

     一九一四年から一九八九年の期間――世界が絶え間なく世界戦争を行っていたか、その準備を行っていた期間――には、アナーキズムはまさにその理由で陰に隠されてしまった。そのような暴力的な時代においては、政治運動は軍隊、海軍、弾道ミサイルシステムを組織化する能力を保持していなければならなかった。それはマルクス主義者が優れているところのものだ。だが、信用に関わるからというよりも、アナーキストは決してそれをうまくやることができないだろう。アナーキズムの諸原理に基づくグローバルな革命的運動――グローバル・ジャスティス運動――が急速に再出現したのは、大規模な戦争終結が終わったように見えた一九八九年のことである。

     それでは、どのようにOWSはアナーキズムの諸原則を具現化しているのだろうか?論点ごとに述べた方がよいだろう。

    1.既存の政治的諸制度の正統性を承認することの拒絶

     喧しく議論された要求を出すことの拒絶の理由は、要求を出すと言うことは、要求が宛名として作成された人々の正統性を――少なくとも権力を――認めるということだからだ。アナーキストはよく抗議活動と直接行動の違いを強調する。いくら戦闘的であっても、抗議活動は権威者に対して異なる振る舞いを要求するものだ。直接行動は――井戸を掘ることであれ、法律を無視して塩を作る(これもガンジーが好例だ)といった共同体の問題であれ――既存の権力構造が存在しないかのように振る舞うことなのだ。直接行動は、究極的には、人は既に自由であるかのように行動するという反逆的な主張なのだ。


    2.既存の法秩序の正統性を受け入れることの拒絶

     第二の原則は、明白なことに、第一の原則から導かれる。占拠運動の当初、計画のための集会をニューヨークのトンプキンス・スクエア公園で開いていた時から、オーガーナイザーたちは、公共公園での警察の許可のない一二人以上の集まりを禁止する市の条例を承知の上で、無視していた。単に彼らの見地からは、そのような法律は存在すべきではなかった。同じ見地によって、もちろん、私たちは公園を占拠したのだ。中東から南欧までの先例が息吹を与えていた。その見地からすれば、公衆として、私たちは公共の空間を占拠するのに許可を必要とするべきではなかった。これは、とてもささやかな形態の市民的不服従かもしれないが、私たちが法的ではなく道徳的な秩序に答えたことで始めたのは決定的なことだった。


    3.内部に階層秩序を作ることの拒否,その代わりにコンセンサスを基盤とする直接民主主義を作ること

     占拠運動の当初から、また、オーガーナイザーたちは、指導者のいない直接民主主義によるのみならず、コンセンサスによって運営するという大胆な決定をしていた。最初の決定は、私物化や強制の可能性のある公式のリーダーシップ構造がないことの確認だった。二番目の決定は、マジョリティはマイノリティを意志に従わせてはならない、全ての重要な決定は全体の同意によるものでなければない、というものだった。アメリカのアナーキストは長い間、強制なしに運営できる唯一の意志決定の形態だという理由で、コンセンサスの過程――フェミニズム、アナーキズム、クエーカー教徒のような精神的な伝統、などの合流点に形成された伝統――が重要だと見なしていた。したがって、もしマジョリティがマイノリティにその命令に従わせる手段がないなら、全ての決定は必然的に全体の同意によってなされなければならなかった。


    4.予見的な政治を抱擁する

     結果として、ズコッティ公園とそれに続く全ての野営地は、新しい社会の諸制度を築く実験場となった――ジェネラル・アセンブリーだけではなく、キッチン、図書館、診療所、メディア・センターなども。全ては、相互扶助や自己組織化といったアナーキズムの市世原則に基づいて運営されていた。新しい社会の諸制度を古い社会の殻の中で作ろうとする真の試みだ。

     なぜそれはうまくいったのか?なぜそれは広まったのか?一つの理由は、明らかに、既存のメディアがそうするよりも多く、はるかに多くのアメリカ人がラディカルなアイディアを進んで受け入れたからだった。アメリカの政治的秩序は絶対的かつ矯正不可能なほど腐敗している。どちらの党も人口の最も豊かな1%によって売買されている。真に民主主義的な社会に住みたいのなら一から築き上げなければならない――といった基本的なメッセッージは明らかにアメリカの魂の奥深いコードをかき鳴らしたのだ。

     おそらくこれは驚くべきことではない。私たちは一九三〇年代に比肩するような状況に直面しているのだから。主な違いはと言えばメディアが断固としてそれを認めようとしないことだ。アメリカ社会におけるメディア自体の役割について、興味深い疑問が持ち上がる。ラディカルな批評家は、通常企業に支配されたメディア(corporate media)を、彼らが呼ぶ通り、主に既存の制度が健全で、妥当で、公正だと公衆に確信させるために存在するとみなしている。彼らがこれが可能だと本当には見ていないことは、ますます明らかになっている。それよりも、メディアの役割は単にますます怒れる公衆たちに、他の誰もが同じ結論には達していないと確信させることにある。結果は、誰もが本当には信じていないイデオロギーである。しかし、ほとんどの人々は、少なくとも他の人々は疑っているのではないかと疑っている。

     普通のアメリカ人が本当には何を考えているのかと、メディアと政治的エスタブリッシュメントが彼らはこう考えていると言うこととの乖離は、民主主義について語る時により明瞭になる。


    アメリカの民主主義?

     公式の物語によれば、もちろん、「民主主義」とは建国の父たちによって創設されたもので、大統領、議会、司法のチェック・アンド・バランスに基づく制度だ。事実として、独立宣言の中でも憲法の中でも、アメリカが「民主主義」であるとは一言も述べられていない。それらの文書の起草者たちは、ほとんど一人残らず、「民主主義」を民衆集会による集団的自己統治の問題と定義していた。そして、そのようなものとして彼らはそれに断固とした態度を取っていた。

     民主主義は群衆の狂気を意味していた。血なまぐさく、騒々しく、筋道のないものを。「自殺しなかった民主主義はなかった」とアダムスは書いた。ハミルトンは「裕福で生まれの良い者」が民主主義の「軽率」をチェックする恒常的な総体を作り出すのに必要だとして、下院で許可されている限定的な形態さえも含め、チェック・アンド・バランスの体制を正当化した。

     その結果がリパブリックだった。アテネではなく、ローマをモデルとしたそれである。それが一九世紀初期には「民主主義」として再定義された。なぜならアメリカ人は今と違ったものの見方をしており、自らを「デモクラッツ」と呼ぶ候補者に対して、投票することに――投票することが許された者はだが――執拗なまでに傾きがちだったからだ。しかし普通のアメリカ人はその言葉で何を意味していたのだろうか?そして、今のアメリカ人は何を意味しているのだろうか?アメリカ人は本当に、自分も一枚加わって政治家が政府を運営する体制をただ意味していたのだろうか?それはありそうもないようだ。結局、ほとんどのアメリカ人は政治家を嫌悪しているし、政府というアイディアそのものに懐疑的な傾向がある。もし、彼らが政治的理想として普遍的に「民主主義」を抱いているのなら、曖昧ではあれ、彼らがそれをまだ――自己統治として――見ているからに他ならない。建国の父たちが非難する傾向にあった「民主主義」として、あるいは、彼らが時にはまたそう表現したように「アナーキー」として。

     もし他に何もないのなら、これがアメリカのメディアと政治階級の横並びの軽蔑的無視にもかかわらず、直接民主主義の原則に基づいた運動を人々が熱狂とともに迎え入れた理由を説明するものだろう。

     実際、アナーキズムの諸原則――直接行動、直接民主主義、既存の政治的制度の拒否、そしてもう一つのそれを作ろうとする試み――に深く基づく最初の運動がアメリカに出現したのは、これが初めてではない。市民権運動(少なくともそのラディカルな分派)、反核運動、グローバル・ジャスティス運動などは全て似た方向を目指している。しかしながら、決してこれほどまでに驚くほど急速に拡大した例は他にはない。オーガナイザーたちが今度こそ根本的矛盾に立ち向かったのが理由の一つだろう。彼らは、支配的エリートが民主主義を主宰しているという見せかけに挑戦したのだ。

     もっとも基本的な政治的感覚について、ほとんどのアメリカ人は深い葛藤を抱えている。ほとんどの人が、個人の自由に対する深い敬意と軍隊や警察といった制度に対する信仰にも近い自己同一化とを併せ持っている。ほとんどの人が、市場への熱狂と資本家への憎悪を併せ持っている。ほとんどの人は、心の奥からの平等主義者であると同時に、根深いレイシストだ。実際にアナーキストである者はごくわずかであり、「アナーキズム」が何を意味するのかを知る者は、ごくわずかである。どれ程多くの人が――例え彼らが学んでいたとしても――最終的に国家と資本主義を完全に破棄したいと望んでいるのかは定かではない。

     圧倒的な数のアメリカ人が感じている一つのことは、彼らの国はとてつもなくどこかが間違っているということなのだ。主要な機関が傲慢なエリートによって操作されているということなのだ。何らかのラディカルな変化が訪れるべき機が熟してからもう長くなる。彼らは正しい。これほど体系的に腐敗した政治体制を想像するのは難しい――あらゆるレベルの収賄が合法になされているというだけでなく、賄賂の売り込みと分配が全てのアメリカの政治家の全時間の仕事なのだ。憤慨は適切なものだ。問題は、九月一七日までは、それが何であるにせよラディカルな解決策を提案しようとしたのが、右側だけだったことだ。

     過去の運動の歴史を見るとはっきりしているように、民主主義の勃発ほどアメリカを運営している者たちを恐れさせるものはない。民主的に組織された市民的不服従の控えめな閃きに対してさえ、即座の反応は混乱した譲歩と不当な暴力の混合なのだ。いったい他に、最近の数千の機動隊の集結、殴打、化学的攻撃、大量逮捕――市民たちはまさに民主的な集会に参加していた。それは権利の章典が守るように指定していた――を説明する理由があるだろうか。そして誰の犯罪――もし少しでもあればだが――が、地域の野営規則に違反していると言うのだろうか?

     我らがメディアの識者たちは、もし平均的なアメリカ人が「ウォール街を占拠せよ」におけるアナーキストの役割にいったん気付けば、衝撃と恐怖で逃げ出すだろうと主張するかもしれない。しかし、私たちの支配者たちは、それよりも、もしそれなりの数のアメリカ人がアナーキズムが本当には何であるかを見出せば、彼らはあらゆる種類の支配者など不要だと決定するかもしれないことを恐れているようだ。

    by BeneVerba | 2012-05-04 13:37 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
    メーデー連帯共同宣言
    May Day Declaration of Solidarity
    2012年05月01日 - ウォール街を占拠せよ
    原文:http://occupywallst.org/article/declaration-of-solidarity/

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     法律化せよ!組織化せよ!組合化せよ!

     私たちを聞いてほしい。私たちは聞かれる必要がある。私たちは聞かれるだろう!


     私たちはメーデーを祝うためにここにいる。私たちは目的の統一を見出した力として、私たちの力を祝うためにここにいる。私たちは世界中の人民との連帯を宣言する。私たちは、経済的な安定、意味のある労働、ヘルスケア、公共サービス、安全で健康的なコミュニティ、自由、幼稚園前から大学までの質の高い公立教育、そして市民的自由といった私たちの諸権利を確認する。今日私たちは、そうした諸権利を確かにするための、民衆行動を起こす全ての人々と連帯して立つ。また私たちは、不平等を育む体制に挑戦する正真正銘の同盟の結成を開始する。

     私たちがここにいるのは蔓延する社会的・政治的・経済的不平等を非難するためである。一握りの政治的経済的エリートたちが、民主主義の名の下に統治する時代の終わりを、私たちは探し求める。私たちは、私たちの人権への攻撃を終わらせたい。私たちは、富裕層の税金逃れを終わらせたい。私たちは、私たちの組織化する権利への攻撃を終わらせたい。私たちは、有色人の大量投獄を終わらせたい。私たちは全ての戦争を終わらせたいし、外交政策の軍国主義化を終わらせたい。私たちは、一%の人々によって売買されている現在の政治体制を終わらせたい。私たちは、法律化、平等の権利、公民権、そして移民労働者家族の市民権獲得への道を求める。私たちは市民権を求める。それは、そうあるべきなように、全ての民衆は政府によって正当に平等に取り扱われるべきだからだ。

     一世紀の間メーデーが、春の兆しが善良なる意志を持つ人々を、革命的な刷新のヴィジョンへと導く時であったことを思い起こそう。これらの夢を私たちから追い払おうとする、強い望みがある。しかし、決してそうなることはないであろう。地球規模で拡大中の正義を求める蜂起の余波を受けたこのメーデーの日に、私たちは恐れることなく、私たちを分断する境界が無意味になる世界を、共通の利益のために共同体が自らの資源を管理する正真正銘の民主主義的な文化の誕生を、そして地上におけるどんな人類の価値と尊厳が他の人類に比べて劣るものではないとする世界を前方に見つめるものである。

     我ら人民――組合に加入する者も、していない者も、被雇用者も失業者も、公務員も民間労働者も、不法滞在者もそうでないものも――いまここで、全世界の人民との連帯にあるという立場を再び明らかにしよう。私たちの革命的精神は拡大し深化し続けるであろう。

     私たちがここにいるのは、「もう一つの世界は可能であるだけではない。それはもうこちらに向かっている」と知らせるためである。私たちはタハリール広場である。私たちはシンタグマ広場である。私たちはプエルタ・デル・ソルである。私たちはウィスコンシンである。私たちはオハイオである。私たちはニューヨークである。私たちはプエルトリコである。私たちは、ロサンジェルスである。私たちはオークランドである。そして、この国と世界の都市の有象無象(multitude)である。


     自由を開化させよう!

     ¡Si se puede!



    --joint declaration from May 1st Coalition, Labor union representatives, La Fuente, New York Immigration Coalition, New Immigrant Communities Empowered (NICE), El Centro de Inmigrante, National Institute for Latino Policy, Mothers on the Move, National Lawyers Guild, Occupy Wall Street Immigrant Worker Justice Working Group, Occupy Wall Street en Espanol, Occupy Wall Street Latin America, National Lawyers Guild, Community Farmworker Alliance, Adelante Alliance, Jornaleros Unidos, Restaurant Opportunities Center-NY, Domestic Workers United, New York Taxi Workers Alliance, Laundry Workers Center United, Brandworkers International, Independent Workers Movement, La Peña del Bronx, Centro Guatemalteco Tecun Uman, Philippine Forum

    by BeneVerba | 2012-05-03 16:26 | 翻訳 | Trackback(1) | Comments(2)