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*2013年に「さよなら原発!福岡」に提出した意見書を公開します。「さよなら原発!」福岡は、「日の丸を持って来る人がいたら、注意するが排除はしない」という、姑息で不公平な態度をとり続けています。つまり黙認です。また、文中にあるように、会議で日の丸問題について発言しても議事録に記載されることはありません。


「さよなら原発!福岡」に対して、脱原発デモにおける日の丸の禁止、
並びに多様性のある運動へと転換することを求める意見書


2013年3月27日


 福岡においても、脱原発運動に日の丸が持ち込まれるようになってから月日が経つ。だが、この問題の深刻さは認識されていないか、認識されていても無視されており、対処も全く不完全なものである。日の丸問題は、原発問題と同じく人間の命と尊厳の問題である。


日の丸の何が問題か

 脱原発運動に日の丸が掲げられることの何が問題か。第一に、日の丸に抑圧を感じる人々(在日朝鮮人、在日中国人、あるいは他のマイノリティ)が、脱原発運動に参入する機会を妨げている。第二に、日の丸を肯定するような右翼と共闘することはファシズムを招く。第三に、国策として進められた原子力政策に反対するのに、日の丸を掲げるのはおかしい。第四に、原子力・核兵器の問題は国際的な問題であるが、ナショナリズムに依拠した脱原発運動は、国際的な連帯を不可能にしている。日の丸問題は、この四点に限られるものではないが、ここではその他に言及することはできない。

 第一点と第二点についてのみ述べる。

 3.11の被災者は日本人だけではない。その中には、日本軍性奴隷制度(「従軍慰安婦」制度とも呼ばれる)の被害者である宋神道さんも含まれる。また、誰もが原子力事故の被害者、被ばく被害者になる可能性がある(だからこそ日本の各地で脱原発運動が起きている)が、日の丸があることによって、誰もが脱原発運動に参入できるものにはなっていない。現在の脱原発運動は、日本人中心主義である。

 脱原発デモに対しては、在特会や右翼が日の丸を掲げて妨害行為を行うが、その時、デモの隊列の中にも日の丸があることのおかしさに気付くべきである。日の丸を掲げた日本人の集団を恐れる者にとっては、どちらも同じ恐怖の対象である。単に、日の丸に抑圧されることなく脱原発運動に参加したい、と願っている者の居場所がないのである。

 福岡で右翼団体と共闘する脱原発運動があるのか不明だが、首都圏反原発連合による官邸前抗議には、在日朝鮮人に対して差別語を用い、日本軍性奴隷制度を否定する右翼団体統一戦線義勇軍の針谷大輔が参加しており、また「右から考える脱原発」という行動も存在する。


 一方で、「さよなら原発!福岡」を含む通常の脱原発デモにおいて、日の丸は実質的に容認されている。いずれにせよ、現在の脱原発運動はナショナリズムに依拠した国民運動であり、安倍政権が誕生したことは必然である。

 また、脱原発が優先される余りに、脱原発以外の全てが攻め込まれていることに、そろそろ気付くべきである。そして、本丸の脱原発ももはや危うい。


 「さよなら原発!福岡」主催の3.10デモにおいて、日の丸を掲げていた人物は、毎週金曜日に九電本店前で行われる「来んしゃい金曜!脱原発」行動で、首都圏反原発連合のコアメンバーである野間易通の著作と、針谷大輔の著作を誇らしげに掲げている。すなわち、官邸前の悪影響は福岡に及んでおり、「東京の話だから」といって無視することはできない。

 脱原発運動において、「右も左もない」とか「大同団結」という文句が聞かれることがある。そこに現れているのは、「緊急事態なので仕方がない、他の問題は棚上げにしよう」という思考である。その思考こそ、「ショック・ドクトリン(災害に便乗した右傾化政策)」と呼ばれるものである。また、そうした傾向は何の議論もなしに、誰もが当然従うべきものとして現れた。そうした集団的な豹変は日本的なファシズムの特徴である。


これまでの経緯

 私は、「さよなら原発!福岡」主催のものも含む、福岡での様々な脱原発運動に参加・参与しつつ、「さよなら原発!福岡」の定例会議において、日の丸を禁止すること、また日の丸問題について話し合いの場を設けることを提起してきた。再度繰り返すが、日の丸問題は、原発問題と同様に、命と尊厳の問題である。だが、その深刻さにも関わらず、この問題はこれまでにほとんど顧みられていない。


 最初に例会に参加した昨年12月20日に、私は、韓国籍だった祖父を持つ日本人として生まれたという自らのルーツを明らかにした上で、「日の丸は私のような人々を殺し、犯し、虐げてきた旗であり、私のような人々を抑圧するものである。『さよなら原発!福岡』として、日の丸の禁止の明文化を求める」と訴えたが、議論もなしに、メーリングリストで明文化はできない旨を伝えられた。

 また、今年2月20日の例会においては、私の発言が、他の出席者と司会者によって途中で遮られたために、まともに話しをすることすらできなかった。そればかりか、出席者の一人から「それはあなただけの問題でしょ」という発言があり、もう一人からは「みんなも我慢しているのだから、あなたも我慢するべきだ」との発言があった。

 韓国籍だった祖父を持って生まれたことは、私が選んだものではない。持って生まれたものに基づいて、不当な扱いをすることが差別である。ゆえに上記二名の発言は明白な差別発言である。

 さらに、この時の例会において、「日の丸持参者に対して注意をする」という方針が確認されたはずであったが、これは空約束だった。

 私が、3月22日に行われた「来んしゃい金曜!脱原発」に参加した時に、3月10日に日の丸を持参した当該の人物も来ていた。彼が、その時にも日の丸を付けたプラカードを持ってきていたことに対して、私ともう一人の別な人物が抗議したところ、3月10日のデモにおいて、その人物が、誰からも全く注意を受けていないことが判明した。

 脱原発デモに日の丸があることは、抑圧である。それに加えて「さよなら原発!福岡」は、抑圧に荷担しており、なおかつそのことに無責任であると言わねばならない。



日の丸の持ち込み禁止に関して

 日の丸があることによって、日の丸に抑圧を感じる人々が、脱原発運動に参入しづらくなっていることは既に述べた。「間口を広げるため」とか「幅広い人々を結集するため」に、日の丸を容認するのは馬鹿げている上に差別的である。なぜなら、日の丸に抑圧を感じる人々が参加することよりも、日の丸持参者の方を重んじていることになるからである。

 日の丸を家に置いてデモに来ることは全く可能であるが、民族的アイデンティティを家に置いてデモに来ることは全く不可能である。また、抑圧者と被抑圧者がいる状況においては、抑圧者が折れるのが公正なことである。この二つは実に簡単明瞭な論理である。

 日の丸を持参した者に、「日の丸は止めてくれ」と言うのは排除ではありえない。日の丸を置いて参加すればいいだけだからである。

 だが、ルーツを日の丸の旗の下に支配された民族に持つ者に、日の丸を許容させることは同化主義である。「さよなら原発!福岡」は、日本がかつて朝鮮に行い、現在朝鮮学校に行っているのと同じことを、参加者に強いていることを自覚すべきである。

 また、日の丸持参者への注意は、仮に実践されたとしても(3.10では全く実践されなかったわけだが)有効だとは限らない。現に私が以前に注意した時に、日の丸を持参して来る人物は「何度もそういうことを言われた」と述べていた。

 なお、「さよなら原発!福岡」主催ではない脱原発デモにおいて、当該の日の丸持参者が、プラカードに日の丸を付けずに参加した姿を、私は直接目撃している。その時彼は、「小さなデモだと揉め事が起きた時に困るが、大きなデモだと紛れ込める」といったことを、私に対して述べた。

 この事実から二つのことがわかる。第一に、日の丸なしに脱原発デモに参加することは、本人にとっても全く可能である。第二に、「さよなら原発!福岡」は舐められている。


 これらに鑑み、「さよなら原発!福岡」に対して、以下の通り意見を述べる。


  1. 「さよなら原発!福岡」は、日の丸に抑圧を感じる人々が参入できるようにするために、日の丸を禁止すること。
  2. 多様な人々の参入を促すために、ビラなどにおいて、日の丸禁止の方針を告知すること。
  3. 「さよなら原発!福岡」は、2月20日の私に対する発言を差別発言と認め、差別発言を行った二人の人物に、口頭と文書での謝罪を促すこと(うち一人については、口頭での謝罪を既に受けた)。
  4. 既に確認された方針である、「日の丸持参者への注意」を今後は徹底すること。
  5. 日の丸問題の深刻さを認識するために、議論の場を設けること。
  6. 重要な発言は、議事録に記載すること。
  7. 会議外で重要な方針を決定しないこと。


 最後に述べたい。多くの人が勘違いしているが、日の丸が掲げられる脱原発運動に多様性は一切ない。日の丸を禁止し、日の丸に抑圧を感じる人々が来られるようなものにすることが、多様性である。そして、大規模なデモとして、そのようなデモが行われたという話は聞いていない。

 素案ながら、日の丸を禁止し、在日朝鮮人、在日中国人などの外国人、精神障害者、身体障害者、セクシャル・マイノリティなど(これらに限られるものではない)の参入を歓迎することを明言し、スタッフが積極的にサポートするようなものの方が、脱原発デモにふさわしいと思う。そして、そのようなデモはまだ存在していないはずである。「さよなら原発!福岡」が、最初にそれを行うのなら素晴らしいことである。


以 上






by BeneVerba | 2014-11-14 15:43 | 意見 | Trackback | Comments(0)
e0252050_16545282.jpg これまでにもさんざん批判されてきた『マガジン9』(例えば民主党への過度の肩入れなど)が、「なぜ僕らは『ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会』を立ち上げたのか?」との題名で、「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」の事務局メンバーである岩下結らを採り上げている。

 本ブログの読者ならば既にご存知であるように、岩下は『ウォール街を占拠せよ――はじまりの物語』の出版後、私に対して「日の丸批判、反原連批判をやめて契約を取るか、それとも契約を失ってもいいのか」との脅しをかけた人物である。

 『マガジン9』の「なぜ僕らは『ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会』を立ち上げたのか?」(その2)が公開されたのを機会に、下記のコメントを投稿した。投稿時にはいくつか誤変換があったが、なお、この引用では修正してある。

 『マガジン9』編集部一同へ。私に対して民族差別を働き、いまだに謝罪をしていない岩下結を記事にて取り上げたことに、厳重かつ、満身の怒りを持って抗議する。この記事は私に対する差別の二次加害であるとともに、岩下の民族差別を免責するものであり、今なお継続中である、私の傷つきながらの差別の告発を無効化するものであり、きわめて悪質と言わねばならない。

 私は、大月書店との間で『ウォール街を占拠せよ——はじまりの物語』の出版契約を結び、その仕事が終わった後で、日の丸を掲げるような反原発運動を批判している点をとがめられ、そのため、ろくに宣伝も行われず(そのことは岩下も認めている)、次に翻訳する書籍について内定状態にあったにもかかわらず、そのような批判をやめない限り、契約はやれないとの脅しを受けたのである。

 私は、日の丸の下に、差別され、殺され、犯され、言葉を奪われ、国籍を奪われた、朝鮮民族の一人である。大月書店の言うことに従って翻訳契約を取るか、民族としての尊厳を選ぶかで悩み苦しんだ末、私は朝鮮民族として、日の丸を肯定することはできないと突っぱねた。すると、契約を破棄されたのである。

 私に対する民族差別が回復していない段階で、岩下に荷担する貴紙の態度を厳しく問う。私は岩下からの直接の差別被害者であり、未だに差別の回復がなされていない。この差別記事について、私に対して貴紙の見解を回答せよ。


 コメントは承認制であるために、『マガジン9』編集部によって無視されることが考えられる。もし、賛同していただけるのならば、ぜひ、岩下結が私に対して取った態度は、まごうかたなき民族差別主義であること、私のコメントを承認すること、そのような岩下が事務局を努める「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」は眉唾物であることなどを、『マガジン9』の当該記事に対して、コメントしてほしい。

 岩下結よ、なぜ民族差別の第一人者であるお前が、「民族差別を憂慮することができるのだ?途方もない欺瞞である。しかし、私は、決して黙らされない。「黙らさせる」「沈黙を強いられる」ことは、差別の要素の一つであるからだ。私は、いつまでも闘い続けるだろう。できれば、ご支持をお願いしたい。


[抗議先]
  • 『マガジン9』フォーム
    http://www.magazine9.jp/contact/
  • 『マガジン9』記事、その一
    http://www.magazine9.jp/article/other/15485/
  • 『マガジン9』記事、その二
    http://www.magazine9.jp/article/other/15666/
  • ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会
    https://www.facebook.com/antifapublishing
  • 大月書店フォーム
    http://www.otsukishoten.co.jp/contact/
    *ぜひ、これらのページに岩下と『マガジン9』の責任を問うコメントをお願い申し上げます。民族差別を受けると言うことは、劇的な痛みなのです。

    *おまけ。
    e0252050_18434010.jpg



    [追記]
     その後、上記コメントとほぼ同一の文面を、『マガジン9』あてに送付した。対応(無視も含む)の如何によって、同誌のスタンスが問われるであろう。

  • by BeneVerba | 2014-11-13 16:31 | 意見 | Trackback | Comments(0)
    ロザラムの性的虐待:困難な問いに答えることは私たちの責務である
    Rotherham child sex abuse: it is our duty to ask difficult questions
    http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/sep/01/rotherham-child-sex-abuse-difficult-questions
    2014年09月01日 - スラヴォイ・ジジェク

    e0252050_933674.jpg


     ロザラムで起きたことは、いくぶんかは輪郭がはっきりとしてきた。一九九七年から二〇一三年の間に、少なくとも一四〇〇名の子どもたちが、暴力的かつ性的に搾取された状態に置かれたのだ。一一歳の子どもたちが、複数の犯罪者たちによって強姦され、誘拐され、他の都市へと売り飛ばされた。犯罪者たちは、ほぼ例外なく、パキスタンにルーツがあり、彼らの犠牲者たちは、白人の学生たちだった。

     反応は予想通りだった。左派は、主に一般化を通じて、もっともたちの悪い種類のポリティカル・コレクトネスを開陳した。犯罪者たちは、あいまいな「アジア人」だとされ、エスニシティや宗教の問題でなく、男性の女性に対する権力の性だと主張され、私たちは、教会におけるペドフィリアやジョー・サビルの実例があるにも関わらず、犠牲者たちに対して、高い倫理的な素養を採用しているとされた。誰か、UKIPやその他の反移民法を支持するポピュリストたちですら、ごく普通の人々の懸念を搾取する、これ以上に効果的な方法を思いつくまい。このような反レイシズムは、あたかも保護者であるかのように、パキスタン人を私たちよりも倫理的に劣る存在として取り扱い、私たちの基準の外にある者とすることによって、レイシズムを効率よく覆い隠すものである。

     社会的な生活の、異なるレベルにおける非同時代性の恐ろしい効果の一つは、女性に対する暴力の増大である。それも偶発的な暴力だけではなく、組織化された暴力、ある種の社会的文脈に固有の暴力は、パターンをなぞり、明らかなメッセージを送っている。

     例えば、シウダード・フアレスにおける女性たちの連続的な殺害は、個人的な病理であるというだけでなく、地元のギャング組織のサブカルチャーの一部でもあり、工場で働く独身女性に向けられたものだった。明らかに、自立した働く女性という新しい階級へのマッチョ的な反応である。

     西部カナダでは、カナダは寛容なモデル的福祉国家であるという主張に背くかのように、バンクーバー近くの居留地で、先住民女性がレイプされて殺された。白人男性の集団が、一人の女性を誘拐し、レイプし、殺害したのだ。そして、彼らはバラバラにされた遺体を居留地に捨てた。それは司法の上では、そこは部族警察の管轄区域で、かれらはこのような事件に対応するだけの者を持ち合わせていないのだった。これらの例が示すのは、社会的な混乱は、急速な産業化と近代化は、開発を脅威として受け止める男性から、暴力的な反応を引き起こすということである。これらの事件における決定的な特徴はこうだ。暴力的な行為は、文明的な慣習を破る暴力的なエネルギーの突発的噴出ではなく、何らかの習得があり、外的に強制され、儀式化された、共同体の象徴的な本質の一部なのである。

     同じように異常な社会的儀式の論理は、ペドフィリアによって、持続的に打撃を受けているカソリック教会においても働いている。教会の代表者は、これらの事件は嘆き悲しむべきことであると語る時、教会内部の問題であるがゆえに、捜査機関と協力することに、乗り気ではないことも表明している。かれらは、ある意味で正しい。カソリック僧侶のペドフィリア問題は、単に、たまたま職業として僧侶を選んだ個人の問題ではない。それはカソリック教会それ自体を問題とする現象なのであり、社会的、象徴的機関として教会が機能するまさにその点において、刻み込まれているものなのである。これは、個人の「私的」な無意識の問題ではなく、教会それ自身の「無意識」の問題でなのである。それは組織が、リビドー的な生活の病理学的リアリティに、生き延びようとして、適応したために起きるのでなく、組織それ自身が再生産をするために、必要としているからこそ起きるのである。

     言葉を換えて言うのなら、単に、体制順応的な理由によって、恥ずべきペドフィリアのスキャンダルに対して、教会は口を閉ざそうとすべきではない。自分たち自身を守るために、教会はその内奥の淫靡な秘密を守るべきなのである。それは、つまりこういうことだ。すなわち、個人を秘密によって特定することは、キリスト教徒の僧侶にとって、固有のアイデンティティの重要な構成要素なのである。もし、僧侶が(修辞的にではなく)真剣に、このようなスキャンダルを非難するのなら、その人物は、それによって、キリスト教徒聖職者の共同体から、自分自身を除外しているのである。その時、その人物はもはや「私たちの一人」ではない。

     ロザラムで起きた事件に対しても、ムスリム系パキスタン人の若者の「政治的無意識」として、同じような態度で接するべきであろう。混沌とした暴力ではなく、イデオロギー的な概観を示す、儀式化された暴力として、である。周縁化され、従属化された経験を有する若者グループが、支配的な集団の脆い成員である女性に対して、復讐したということだ。そして、かれらの宗教的文化的特徴に、女性に対する暴力を許容するような余地はあるのだろうか、と問うことは完全に正当なことなのである。

     ムスリム教をそれ自身として非難することなく(ムスリム教は、その内部においては、キリスト教ほど女性嫌悪ではない)、人は、多くのムスリム国や共同体における公的領域からの排除や、従属的な暴力について語ることができる。そして、とりわけ原理主義者として名指しを受けている、階層秩序による性的な違いを最重要視する集団や運動についても同様である。このような疑問を持ち出すことは、暗黙のレイシズムでも、イスラム恐怖症でもない。それは、解放のために闘う全て者にとって、倫理的政治的な責務なのである。

     さて、このような事例を、私たちの社会はどう扱うべきであろうか?一昔の支配的文化(Leitkultur)をめぐる議論において、保守派は、全ての国家は優位な文化的空間を基盤にしており、その同じ空間に生きる他の文化に属する成員は、尊重されるべき存在である、と主張した。そうした言明が予告していたヨーロッパにおける新たなレイシズムの出現を嘆くよりも、私たちは、どの程度まで私たちの抽象的な多文化主義が悲しむべき現状に貢献してしまっているか、私たち自身へと批判的な目を向けるべきである。全ての側面が共有されるか、同じように尊重されないのならば、多文化主義は、合法的なお決まりの相互の無視や憎悪へと変容するであろう。

     多文化主義を巡る衝突は、既に、支配的文化を巡る衝突である。それは文化と文化の衝突ではない。しかし、異なる文化がどのように共存するかについての、異なるヴィジョンについての衝突でなのである。これらの文化が共存するのならば、共有しなければならないであろう、規則と実践についての衝突である。それゆえに人は、「他者を受け入れるためには、どれほどの寛容さが必要か?」というリベラルのゲームを避けるべきである。このレベルにおいては、もちろんのこと、私たちは充分に寛容というではない。このデッドロックを破る唯一の方法は、全ての参加者によって担われる普遍的なプロジェクトを提案し、闘うことである。

     それが、今日、解放を求めて闘う人々の決定的な仕事が、単に他者から受ける尊敬の範囲を超えて、真性の共存と混有を維持する、解放へと向けた支配的文化的の方へと前進すべき理由なのである。

     我々の公理は、原理主義に対する闘いであると同様に、西洋の新植民地主義に対する闘いでなければならない。ウィキリークスによる闘い、エドワード・スノーデンの闘い、プッシー・ライオットの闘いでなければならない。ユダヤ人排斥に対する闘い、シオニズムに対する闘いでなければならない。これらの全ては普遍的な同一の闘争の一部なのである。もし、私たちがここで妥協するのであれば、私たちはプラグマティックな妥協において敗北するのであり、私たちの人生は生きるに値しない。


    訳者コメント:
     久しぶりの翻訳。今後はできるだけ、継続的に翻訳、公表していきたい。

     ジジェクはこの論説でロザラムのムスリム系パキスタン人を非難するのに、文化的な領域に踏み込むことに躊躇する必要はないという。とはいえ、もちろんかれらの文化が劣っていると主張したいのではなく、文化的、経済的に抑圧された側からの暴力的な反応として、分析しているのである。

     そして、ジジェクの筆は、返す刀でカソリックに向けられるのである。

     話題は変わる。私は今経済的に困窮している。大月書店との労働争議は、精神的にだけでなく、経済的にも疲弊した。もしカンパをいただけるのなら、次の宛先まで。

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    カンパのお願い
    郵便振替
    口座名義:芦原省一
    口座記号:01710-5-72665
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    by BeneVerba | 2014-11-05 09:03 | Trackback | Comments(1)