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 以下が、福岡の在特会とその自称「カウンター」である。どちらも日の丸を掲げていて見分けがつかない。いったいどうしろというのか、というのが一人の在日朝鮮人としての気持ちである。言うまでもなく、日の丸は日本の朝鮮侵略のシンボルのような旗である。日の丸を掲げて「カウンター」を行うということは、在特会には反対するが、日本の侵略責任については不問にしたい、という態度を表明していると受け取られても仕方がない。「線引き」を行っていると言ってもいい。

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https://www.youtube.com/watch?v=clrrMFD0NA4

 カウンター参加者の一人は、たぶん大月書店とのトラブルの元になった入江亮であろう。

 入江について何から語ったものやら。私がTwitterで反原発運動の日の丸批判をしていた時に、日の丸肯定派としてしつこくからんできたのが入江亮である。私は誠実に対応していたのだが、彼はこちらの主張を聞かず幾度も同じことを繰り返すのみであったので、私は「なめるな」と言い返した。他に場強い言葉を使ったわけでもなく、マイノリティとしての最低限の反撃である。

 すると大月書店の岩下結編集者が「汚い言葉」であるとしてそれを問題にし始めた。岩下編集者とは、ほとんどメールでやりとりしていたのだが、彼は私に突っかかってくるようになり、このようなことがあってはならない、というメールを送ってきた。私は不本意ながら受け入れるしかなかった。

 しかし、侵略者の末裔である日本人が日の丸を拒否している朝鮮人に、日の丸は問題ないとして、しつこく絡む方がよほど暴力ではないだろうか。日本人が日の丸をやめる方がよほど簡単でもあり、理にかなったことではないだろうか。また、在日朝鮮人に日の丸を受け入れることをすすめる「左翼出版社」とは、いったい何であろうか。岩下にはそんなことにすら、思いをはせることができなかったようである。

 そして、その後のある日、集会に向かうためにある時九電本店前を歩いて通りかかると、入江亮がその場で日の丸を掲げているのに出くわした。この時には直接言葉を交わした。私「それはなんですか」入江「日の丸です」「九電を応援しているようにしか見えません。やめてください」。すると入江は突然態度を変え、「なんやコラ、きさん!」などと、チンピラ口調になって私を罵倒し始めた。

 また昨今、ちまたを賑わしている自称「カウンター」勢のリンチ事件を受けて、入江亮はこんなことを言っている。

 写真見ましたが、エル金さん、ようあそこまで我慢しんしゃったですね。俺が同じ立場だったら、我慢できずに殺してますね。
https://twitter.com/fcknzsfuk/status/736953795779776513

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 日の丸を拒絶する在日朝鮮人にしつこく絡み、反原発運動にも「カウンター」にも日の丸を持って現れ、注意されると逆上する。これのどこが反原発運動だろうか。これのどこが反差別運動なのだろうか。大月書店は、この程度の低劣な人物を気づかって、私よりもこの男を選んだのだ。

 また、今や「なめるな」という言葉が、問題視されなくなった現状がある。だからこの言葉に問題がないというのではない。これはマジョリティから発せられる言葉であり、その点で大いに問題がある。しかし、岩下が「なめるな」という言葉を批判しているという話は聞かない。

 そして、マイノリティが追い詰められて発する「なめるな」という言葉と、「マジョリティ」が発する「なめるな」では、自ずと意味が違うはずだ。大月書店とその編集者の岩下結の言動は、ご都合主義であり、不当ではないだろうか。

 二〇一三年以来のカウンターは、おおよそこういうものだった。「在特会と対峙するのに、細かいことを考える必要はない。在日朝鮮人の歴史や社会的な構造的差別を考える必要はない。ただ、在特会と対峙して罵倒すれば良い」。それに対しては様々な批判が寄せられたが、「新しいカウンター」のデマゴーグである野間易通や木野トシキは、「ヘサヨ」というレッテルを貼るのみであった。

 「在日朝鮮人の歴史や社会的な構造的差別を考える必要はない」とは、つまり「未来志向」「和解」「転向」の時代に沿うように、日本人の持つ歴史的な加害責任をオミットするものではないだろうか?在日朝鮮人は日本の帝国主義によって生まれた存在である。そこに自ずから日本の責任というものがあるはずだ。

 果たしてそれで良いのだろうか?この間の「カウンター」は、そうしたものをオミットしたところに成り立つ「反差別運動」という新たな「発明品」を、産み出したのではないだろうか?この問題はよくよく考えてみなければならない深刻な問題であろう。


  • 文面を変えているところもありますが、基本的にTwitterからの転載です。誤記を訂正したり、いくつか文章を足したり、引いたりもしています。


by BeneVerba | 2016-06-13 02:15 | 意見 | Trackback | Comments(1)
 いわゆる「カウンター」や東京大行進のコンセプトを聞いて、誰もが思ったことは「差別者が反差別運動だって?」ということだ。中心メンバーでもある野間易通やのいえほいえは、それまでにも、在日朝鮮人や精神疾患者への差別発言で知られていたからだ。差別者による差別のロンダリング……という論評が聞こえてきたのも当然だろう。

 そして、その「差別者による差別のロンダリング」は大成功している。

 これは個人的には、しばき隊/カウンターを批判してきたことで、野間他から、言葉のリンチ・差別を受けてきた私にとっては深刻きわまる事態である。自分に対して、さんざん差別発言をしてきた相手が、「反差別の旗手」としてメディアに取り上げられ、自分への差別は黙殺されてしまう。抑圧の「反差別」である。

 まして、私は大月書店とも民族差別問題を抱えており、ちょうどいじめっ子が「こいつはいじめていいヤツ」とマークしたように、好きなように差別される状態になっている。以前にツイッターに書いたことだが、差別とは社会的な激痛のことである。差別を受けたことによる傷口はふさがっていないし、いまだに血を流し続けているのだ。


 男組は解散したそうだが、こと「反差別」をテーマに掲げた東京大行進や自称「カウンター」は、文字通りの意味で「反差別」「カウンター」ではないと言える。どういうことかと言うと、それは、国民国家という枠組みと天皇崇拝を容認した上で、囲いの中の羊のように、その枠組み内で「反差別」を目指すということである。

 それがどれほど危険なことかわからないだろうか。かつて、朝鮮民族も「臣民」として制限付きながら権利を認められていた。それと同じようなものである。まして、日本という国家に直接支配された在日朝鮮民族が、正面からの敵である日本の帝国主義と戦わず、その派生物である在特会を主敵に据えるのは錯誤と言うほかない。

 差別の解消とは、無権利に状態にちょっぴりだけ権利が与えられることではない。在特会も、「普通の日本人」が垣間見せる排外主義も、大元にあるものは一緒である。そこを攻撃しなければどうにもならない。そして、(何も「在特会にリソースを集中させる」戦略を採らずとも)それは可能である。

 その第一歩は、在特会に限らず、日本社会そのものが骨の髄まで排外主義であることを認識し、それを敢然と拒絶することである。

[追記]
 目の前に天皇主義の右翼がいるとしよう。かれは「ヘイトスピーチに反対する」と主張するかもしれない。だが、差別に反対するのならば、右翼であることを放棄せず、いけしゃあしゃあと「ヘイトスピーチに反対する」と言ってのけるこの右翼こそが敵なのだ。

 同様、原発に反対すると称する右翼がいるとしよう。原発推進派のみならず、右翼であることを放棄せずいけしゃあしゃあと反原発ぶってみせるこの右翼こそが敵なのだ。

[追記」
 簡潔に言うのならこうだ。どうして天皇の名の下朝鮮民族が支配されたのに、現代の天皇主義者とその同調者が、恥知らずにも「反差別」などと言えるのだ?

by BeneVerba | 2016-01-23 00:21 | 意見 | Trackback | Comments(0)