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ロザラムの性的虐待:困難な問いに答えることは私たちの責務である
Rotherham child sex abuse: it is our duty to ask difficult questions
http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/sep/01/rotherham-child-sex-abuse-difficult-questions
2014年09月01日 - スラヴォイ・ジジェク

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 ロザラムで起きたことは、いくぶんかは輪郭がはっきりとしてきた。一九一七年から二〇一三年の間に、少なくとも一四〇〇名の子どもたちが、暴力的かつ性的に搾取された状態に置かれたのだ。一一歳の子どもたちが、複数の犯罪者たちによって強姦され、誘拐され、他の都市へと売り飛ばされた。犯罪者たちは、ほぼ例外なく、パキスタンにルーツがあり、彼らの犠牲者たちは、白人の学生たちだった。

 反応は予想通りだった。左派は、主に一般化を通じて、もっともたちの悪い種類のポリティカル・コレクトネスを開陳した。犯罪者たちは、あいまいな「アジア人」だとされ、エスニシティや宗教の問題でなく、男性の女性に対する権力の性だと主張され、私たちは、教会におけるペドフィリアやジョー・サビルの実例があるにも関わらず、犠牲者たちに対して、高い倫理的な素養を採用しているとされた。誰か、UKIPやその他の反移民法を支持するポピュリストたちですら、ごく普通の人々の懸念を搾取する、これ以上に効果的な方法を思いつくまい。このような反レイシズムは、あたかも保護者であるかのように、パキスタン人を私たちよりも倫理的に劣る存在として取り扱い、私たちの基準の外にある者とすることによって、レイシズムを効率よく覆い隠すものである。

 社会的な生活の、異なるレベルにおける非同時代性の恐ろしい効果の一つは、女性に対する暴力の増大である。それも偶発的な暴力だけではなく、組織化された暴力、ある種の社会的文脈に固有の暴力は、パターンをなぞり、明らかなメッセージを送っている。

 例えば、シウダード・フアレスにおける女性たちの連続的な殺害は、個人的な病理であるというだけでなく、地元のギャング組織のサブカルチャーの一部でもあり、工場で働く独身女性に向けられたものだった。明らかに、自立した働く女性という新しい階級へのマッチョ的な反応である。

 西部カナダでは、カナダは寛容なモデル的福祉国家であるという主張に背くかのように、バンクーバー近くの居留地で、先住民女性がレイプされて殺された。白人男性の集団が、一人の女性を誘拐し、レイプし、殺害したのだ。そして、彼らはバラバラにされた遺体を居留地に捨てた。それは司法の上では、そこは部族警察の管轄区域で、かれらはこのような事件に対応するだけの者を持ち合わせていないのだった。これらの例が示すのは、社会的な混乱は、急速な産業化と近代化は、開発を脅威として受け止める男性から、暴力的な反応を引き起こすということである。これらの事件における決定的な特徴はこうだ。暴力的な行為は、文明的な慣習を破る暴力的なエネルギーの突発的噴出ではなく、何らかの習得があり、外的に強制され、儀式化された、共同体の象徴的な本質の一部なのである。

 同じように異常な社会的儀式の論理は、ペドフィリアによって、持続的に打撃を受けているカソリック教会においても働いている。教会の代表者は、これらの事件は嘆き悲しむべきことであると語る時、教会内部の問題であるがゆえに、捜査機関と協力することに、乗り気ではないことも表明している。かれらは、ある意味で正しい。カソリック僧侶のペドフィリア問題は、単に、たまたま職業として僧侶を選んだ個人の問題ではない。それはカソリック教会それ自体を問題とする現象なのであり、社会的、象徴的機関として教会が機能するまさにその点において、刻み込まれているものなのである。これは、個人の「私的」な無意識の問題ではなく、教会それ自身の「無意識」の問題でなのである。それは組織が、リビドー的な生活の病理学的リアリティに、生き延びようとして、適応したために起きるのでなく、組織それ自身が再生産をするために、必要としているからこそ起きるのである。

 言葉を換えて言うのなら、単に、体制順応的な理由によって、恥ずべきペドフィリアのスキャンダルに対して、教会は口を閉ざそうとすべきではない。自分たち自身を守るために、教会はその内奥の淫靡な秘密を守るべきなのである。それは、つまりこういうことだ。すなわち、個人を秘密によって特定することは、キリスト教徒の僧侶にとって、固有のアイデンティティの重要な構成要素なのである。もし、僧侶が(修辞的にではなく)真剣に、このようなスキャンダルを非難するのなら、その人物は、それによって、キリスト教徒聖職者の共同体から、自分自身を除外しているのである。その時、その人物はもはや「私たちの一人」ではない。

 ロザラムで起きた事件に対しても、ムスリム系パキスタン人の若者の「政治的無意識」として、同じような態度で接するべきであろう。混沌とした暴力ではなく、イデオロギー的な概観を示す、儀式化された暴力として、である。周縁化され、従属化された経験を有する若者グループが、支配的な集団の脆い成員である女性に対して、復讐したということだ。そして、かれらの宗教的文化的特徴に、女性に対する暴力を許容するような余地はあるのだろうか、と問うことは完全に正当なことなのである。

 ムスリム教をそれ自身として非難することなく(ムスリム教は、その内部においては、キリスト教ほど女性嫌悪ではない)、人は、多くのムスリム国や共同体における公的領域からの排除や、従属的な暴力について語ることができる。そして、とりわけ原理主義者として名指しを受けている、階層秩序による性的な違いを最重要視する集団や運動についても同様である。このような疑問を持ち出すことは、暗黙のレイシズムでも、イスラム恐怖症でもない。それは、解放のために闘う全て者にとって、倫理的政治的な責務なのである。

 さて、このような事例を、私たちの社会はどう扱うべきであろうか?一昔の支配的文化(Leitkultur)をめぐる議論において、保守派は、全ての国家は優位な文化的空間を基盤にしており、その同じ空間に生きる他の文化に属する成員は、尊重されるべき存在である、と主張した。そうした言明が予告していたヨーロッパにおける新たなレイシズムの出現を嘆くよりも、私たちは、どの程度まで私たちの抽象的な多文化主義が悲しむべき現状に貢献してしまっているか、私たち自身へと批判的な目を向けるべきである。全ての側面が共有されるか、同じように尊重されないのならば、多文化主義は、合法的なお決まりの相互の無視や憎悪へと変容するであろう。

 多文化主義を巡る衝突は、既に、支配的文化を巡る衝突である。それは文化と文化の衝突ではない。しかし、異なる文化がどのように共存するかについての、異なるヴィジョンについての衝突でなのである。これらの文化が共存するのならば、共有しなければならないであろう、規則と実践についての衝突である。それゆえに人は、「他者を受け入れるためには、どれほどの寛容さが必要か?」というリベラルのゲームを避けるべきである。このレベルにおいては、もちろんのこと、私たちは充分に寛容というではない。このデッドロックを破る唯一の方法は、全ての参加者によって担われる普遍的なプロジェクトを提案し、闘うことである。

 それが、今日、解放を求めて闘う人々の決定的な仕事が、単に他者から受ける尊敬の範囲を超えて、真性の共存と混有を維持する、解放へと向けた支配的文化的の方へと前進すべき理由なのである。

 我々の公理は、原理主義に対する闘いであると同様に、西洋の新植民地主義に対する闘いでなければならない。ウィキリークスによる闘い、エドワード・スノーデンの闘い、プッシー・ライオットの闘いでなければならない。ユダヤ人排斥に対する闘い、シオニズムに対する闘いでなければならない。これらの全ては普遍的な同一の闘争の一部なのである。もし、私たちがここで妥協するのであれば、私たちはプラグマティックな妥協において敗北するのであり、私たちの人生は生きるに値しない。


訳者コメント:
 久しぶりの翻訳。今後はできるだけ、継続的に翻訳、公表していきたい。

 ジジェクはこの論説でロザラムのムスリム系パキスタン人を非難するのに、文化的な領域に踏み込むことに躊躇する必要はないという。とはいえ、もちろんかれらの文化が劣っていると主張したいのではなく、文化的、経済的に抑圧された側からの暴力的な反応として、分析しているのである。

 そして、ジジェクの筆は、返す刀でカソリックに向けられるのである。

 話題は変わる。私は今経済的に困窮している。大月書店との労働争議は、精神的にだけでなく、経済的にも疲弊した。もしカンパをいただけるのなら、次の宛先まで。

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カンパのお願い
郵便振替
口座名義:芦原省一
口座記号:01710-5-72665
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by BeneVerba | 2014-11-05 09:03 | Trackback | Comments(1)
*SNSでの投稿を下にした初読時での小さな感想です。何度か投稿しなおしています。

e0252050_1556195.jpg この本はインタビューを元にしたものなので、体系だったものではなく、きっちりとは要約しづらい。だが、二つの視点を持っているとは言えるだろう。一つは東アジアやアラブ世界を視野に入れている点、もう一つはソ連型の共産主義国家も、資本主義国家もどちらも選べない現状に根ざしている点。

 冒頭で、倫理的なものに対する政治的なものの優位が言われる。それは単に倫理よりも政治を優先しようということではなく、私たちが倫理とみなしているものが、政治的な判断に基づいていることを言っている。

 その意味で、次の引用は象徴的に思える。「女性をレイプするのは間違っていると主張しなければならない状況で生きるなんて、私はごめんです。レイプがよいか悪いかを議論する必要がある社会とは、どんな社会でしょうか。レイプをきわめて不愉快な狂気の沙汰とみなすことには議論の余地はない、そう言い切れる社会が私の生きたい社会です。同じことは、人種差別、ファシズム、等々にも言えます」。

 わたしたちが倫理とみなしているものは、暗黙の前提となった決断なのだ。上の引用もそうしたものとして、読んでいいだろう。

 私たちは隘路にはまったように見える。どうすればいいのだろうか?

 だが、そこで決断を控えるのではなく、決断することを選べとジジェクは言う。この本の言葉づかいに従えば、ベケット的なレーニンだ。「もう一度やれ、うまくしくじれ」。それは、訳者の中山徹が指摘しているように、『大義を忘れるな』で述べられているところでもある。

 やや大まかにまとめるなら、そこで冒頭の倫理的なものに対する政治的なものの優位に、再び話は戻ると言える。それは、単なる決断主義ではなく、あらたな領野を開くためのものと思われる。その意味で、副題となった「不可能なものを求めよ」は適切な文言だ。

 ジジェクは、中国・シンガポール型の資本主義をたいへんに暗い選択肢とみなしているのだが、この本では一箇所ながら、日本もまたそうであることに触れられている。また、ジジェクが日本ではなく韓国に行ったことは、たいへん示唆的であるように思える。

 私たちが住んでいる社会は、先の引用に従えば、「レイプがよいか悪いかを議論する必要がある社会」なのである。日本軍性奴隷制度(「従軍慰安婦」制度)などの歴史修正主義に関するうんざりするような言説を眺めるだけで、それはわかるだろう。

 心に命じるべきは、ジジェクは、私たちが従うべき答えを持っているわけでもなんでもないということだ。しかし、私たちは、自分たちの決断において、何度でも繰り返し始めるべきではないだろうか?うまくしくじるために。

by BeneVerba | 2014-05-31 15:54 | 書籍 | Trackback | Comments(0)
「ウォール街を占拠せよ」:次になされるべきは何か?
Occupy Wall Street: what is to be done next?
2012年04月24日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2012/apr/24/occupy-wall-street-what-is-to-be-done-next


 「ウォール街を占拠せよ」運動の余波の中で何をなすべきか、遙か彼方で始まった抗議――中東、ギリシア、スペイン、イギリス――が、中心へと到達し、増幅され、世界を席巻しているのだろうか?

 二〇一一年一〇月一六日のOWS運動のサンフランシスコでの反響において、一人の男が、まるでそれが一九六〇年代のヒッピー流のハプニングであるかのように、群衆に参加を呼びかけながら話しかけた。
「やつらは俺たちのプログラムは何だと訊いている。俺たちにプログラムなんてない。俺たちは楽しい一時を過ごすためにここにいるんだ」

 こうした表明は、抗議者たちが直面している最大の危険の一つを示している。彼らが、「占拠中」の場所で楽しい時間を過ごし、自分自身と恋に落ちるという危険である。カーニヴァルは安く付く――彼らの価値への真の試練はその後に何を残すか、我々の通常の生活がどの様に変わるのかだ。抗議者たちは辛く根気のいる労働と恋に落ちるべきなのだ――彼らは始まりであって、終わりではない。彼らの基本的なメッセージは、「タブーは破られた。我々は最善の可能世界に住んでいるわけではない。我々はオルタナティブについて考えることを許されている、義務付けられてさえいる」というものだ。

 ある種のヘーゲル哲学的な三つ組(triad)において、西側の左翼は元の場所へと回帰した。反レイシズムやフェミニズムなどの闘争との複数性のために、いわゆる「階級闘争の本質」を放棄した後、「資本主義」は現在明らかにその問題の名で再興隆している。

 最初に禁止しなければならない二つのことは、それゆえに、腐敗を批判することと金融資本主義を批判することである。第一に、人々と彼らの態度を非難してはならない。問題なのは腐敗や貪欲ではなく、腐敗へと駆り立てる体制である。解決策は、目抜き通りでもウォール街でもなく、目抜き通りがウォール街なしに機能しない体制を変えることだ。ローマ法王を始めとする著名人たちは、過剰な貪欲と達成の文化と戦えとの指令を、私たちに浴びせかけた――もしそうしたものがあるとしたら、この安っぽい道徳化のむかつくような光景は、まさにイデオロギー上の作戦である。体制それ自体に刻み込まれた(拡張された)衝動が、個人の罪、個人的な心理学的特質に翻訳されている。もしくは、法王に近い神学者の一人がこう述べたように。
「現在の危機は資本主義の危機ではなく、道徳性の危機なのです」

 エルンスト・ルビッチの『ニノチカ』の有名な冗談を思いだそう。カフェテリアを訪れた主人公が、クリーム抜きのコーヒーを注文する。するとウェイターがこう答えるのだ。
「申しわけございません、手前どもは現在クリームを切らしておりまして、ミルクしかございません。ミルク抜きのコーヒーならお持ちできますが?」

 一九九〇年の東欧の共産主義体制の解体において、よく似たトリックが働いたのではないだろうか?抗議した人々が求めていたのは、腐敗と搾取のない自由と民主主義だった。彼らが得たのは、連帯と正義のない自由と民主主義だった。同じ様に、法王に近いカソリックの神学者は用心深く、資本主義を攻撃することなしに、道徳的不正、貪欲、消費主義などを攻撃することを抗議者たちに求めている。資本の自己増進性は、これまでにないほど私たちの生活の究極の現実に食い込んでいる。資本主義は、その定義から言って、制御不可能な獣である。

 失われた大義に対するナルシシズムの誘惑、失敗する運命にあった蜂起の崇高な美を崇める誘惑は避けねばならない。蜂起の崇高な熱狂が終わったその後で、どのような新しい積極的な秩序が古いそれに取って代わるべきなのか?この重要な点において、我々は抗議の致命的な弱点に遭遇する。彼らは、最小限の積極的な社会政治的変革プログラムへと変容することのない真性の怒りを表明した。彼らは、革命なき反逆(revolt without revolution)の精神を示したのだ。

 パリでの一九六八年の抗議に反応して、ラカンはこう言った。
「革命家として、あなた方が切望するのは新しい主人である。あなた方はやがてそれを得るだろう」

 ラカンの評言は、スペインのインディグナドスに対しても(そればかりではないが)、その対象を見いだせるようだ。彼らの抗議が、古いそれを置き換える新しい秩序の積極的なプログラムを欠き、主人を求めるヒステリー的な憤激である限りにおいて、たとえ否認するにせよ、新しい主人を求める声として効果的に機能する。

 我々はこの新しい主人をギリシアとイタリアに見ている。おそらくスペインがそれに続くだろう。あたかも抗議者の専門的なプログラムの欠如に回答するかのように、政府の政治家を非政治的なテクノクラート(ギリシアやイタリアがそうであるように、ほとんどが銀行家)からなる「中立な」政府に取り替えるというのが、現在の傾向である。彩り豊かな「政治家」は外、灰色の専門家は内というわけだ。この傾向は明らかに、永続的な緊急事態と政治的な民主主義の停止に向かうだろう。

 したがって、我々はこの発展の中にまた挑戦も見出さなければならない。イデオロギーのもっとも冷酷な形態として、非政治的な専門家の支配を拒否するだけでは充分ではない。優勢な経済組織に替えて、何を提案すべきかもまた真剣に考え始めるべきなのだ。代わりとなる組織の形態を想像し実験するべきなのだ。新しいものの芽生えを探し求めるべきなのだ。共産主義は体制が停止した時の単なる、あるいは優勢な集団抗議のカーニヴァルではない。共産主義は何よりもまた新しい形態の組織であり、規律であり、重労働なのだ。

 抗議者たちは敵だけではなく、彼らを支持するふりをしているが、抗議を薄めようと忙しく働いている偽の友たちにも注意するべきだ。我々がカフェイン抜きのコーヒーを、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを渡されるのと同じやり口で、彼らは抗議を無害で道徳的な身振りに替えようとするだろう。ボクシングにおいて「クリンチ」が意味するのは、パンチを予防するか妨げる目的で、対戦者の身体を片方ないし利用法の腕でつかむことである。ビル・クリントンのウォール街抗議への反応は、政治的クリンチの完璧な例だ。クリントンは抗議を「全体的に考慮すれば……積極的なことだ」と考えているが、抗議の不明瞭さを心配している。クリントンは抗議者たちにオバマ大統領の雇用計画を支持するように示唆した。それによれば「次の一年半の間に数百万の雇用が創出されるだろう」。この段階で抵抗すべきなのは、まさにこうした抗議のエネルギーを一連の「具体的で」実用的な要求に素早く置き換えようとする行為だ。そう、抗議は真空を作り出した。真に新しいものの幕開けとなるものを。抗議者たちが街頭へと繰り出した理由は、コーラの空き缶をリサイクルすることで、チャリティとして数ドルを寄付することで、もしくはスターバックスのカプチーノを買うと、その一%が第三世界の抱える問題にいくことで、彼らを満足させて、それで良しとしているこの世界にうんざりしているからなのだ。

 経済のグローバリゼーションは漸進的に、だが容赦なく西側の民主主義の正統性を損なっている。それらの持つ国際的な性格のせいで巨大な経済的プロセスは、定義により国民国家に限られている民主的な機構によって制御することができない。そのために、人々はさらに制度的な民主的形態が彼らの死活問題をとらえることができないという事態を経験する。

 マルクスの重要な洞察がこれまでになく未だ有効なのはここだ。マルクスにとって、自由の問題は、厳密に政治的分野の第一に置くべきものではなかった。実際の自由への鍵は、市場から家族までの、社会的諸関係の「非政治的な」ネットワークに存するものだった。そこでは、我々が実際の改善を望むのなら必要な変化は政治的な改革ではなく、「非政治的な」生産の社会的諸関係を変えることだった。誰が何を所有するかについて投票したりはしないし、工場での関係について投票したりしない……などなど。こうした全てのものは政治的な分野の外側のプロセスに委ねられている。民主主義をこの分野にまで「拡張する」ことによって、ものごとを効果的に変えることができると期待するのは非現実的である。言うなれば、人々の管理下にある「民主的な」銀行を運営しようというようなものだ。そうした「民主的な」手続き(もちろんそれらは積極的な役割を果たすことができるが)においては、我々の反資本主義がいくらラディカルなものであっても、解決策は民主的な機構の適用を模索される。それは――決して忘れるべきではないことに――資本の再生産の円滑な機能を保証する「ブルジョワ」国家の国家機構の一部なのだ。

 一貫したプログラムのない国際的な抗議運動の出現は、それゆえに偶然の出来事ではない。それは明確な解決策のないより深刻な危機の反映である。状況は精神分析のそれに類似している。患者は答えを知っている(彼の症状がそのような答えだ)が、何に対する答えなのかを知らず、分析家が問題を構成しなければならない。そのような根気強い仕事を通してのみプログラムは出現するだろう。

 かつてのドイツ民主共和国の古い冗談にこういうものがある。ドイツの労働者がシベリアで働くことになった。全ての手紙が検閲官に読まれることを知っていたので、友人にこう言った。
「暗号を決めておこう。君が私から受け取った手紙が普通の青いインクで書かれていたら、それは真実だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ」

 一ヵ月後、彼の友人は全てが青い色で書かれていた最初の手紙を受け取った。
「ここは全く素晴らしいところだ。商店は品揃えが良い。食料は豊富にある。アパートメントは広々としてちょうど良い暖かさだ。映画館では西側の面白い映画をやっている。お楽しみが欲しければ美しい女の子たちだっている。……ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ」

 これが今まで私たちが置かれてきた状況ではないだろうか?私たちには望む全ての自由がある――ただ欠けているのは「赤いインク」だけだ。私たちが自由だと感じるのは、私たちの不自由を明確に現すその言語を欠いているからだ。この赤いインクの欠如が意味するものは、現在の紛争を示すために我々が用いる全ての主要な用語――「テロとの戦い」「民主主義と自由」「人権」など――が偽物であり、我々にそれを思考する代わりに、我々の状況認識を惑わすものだということだ。

 今日の課題は、抗議者たちに赤いインクを与えることである。



訳者コメント:
 ツイッターで翻訳のリクエストがあり、翻訳。このブログの読者ならおわかりのように、これまでに発表した文章やスピーチとの重複が多い。特に昨年の「ウォール街を占拠せよ」でのスピーチと重なる部分は明かであろう。

 付け加わった部分については、訳者がその能力に達していないこともあり(もっとマルクスを読まないと……)コメントを割愛させていただきたい。

by BeneVerba | 2012-05-18 03:06 | 翻訳 | Trackback | Comments(2)
 先週に、ユーチューブのアップロード上限が緩和されたため、以前に二分割で上げていた昨年一〇月のジジェクのスピーチの全体を一本の動画としてアップロードすることができた。

 読者は、複数のエントリがあるために混乱してしまうかもしれない。ここで、少しだけ各エントリを解説しておく。


翻訳:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった [部分訳]
 occupywallst.org にスピーチの一部について、動画と書き起こしが上がっていたのを元に翻訳を付けたもの。最初にして不完全な翻訳。

翻訳:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった
 元々は、上述の書き起こしを Impose Magazine の書き起こしで補って全体を翻訳したもの。しかし、そのどちらも不完全なため、結局インターネット上で手に入るあらゆるリソースを使って、スピーチを再現した。以前は「補完版」としていたが、これがもっとも完成されている。

動画:スラヴォイ・ジジェク - 民主主義と資本主義の結婚は終わった
 最初に述べたように、これが最新のスピーチ動画。字幕として使用したテキストもついでに載せてある。




by BeneVerba | 2012-05-16 07:51 | 情報 | Trackback | Comments(0)
民主主義と資本主義の結婚は終わった
The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク





 私たちは負け犬と呼ばれています。しかし、真の負け犬たちは、あそこウォール街にいます。彼らは、数十億もの私たちのお金で、救済措置を受けたのです。私たちは社会主義者と呼ばれています。しかし、ここには既に富裕層のための社会主義が存在するのです。私たちは私有財産を尊重していない、と彼らは言います。しかし、二〇〇八年の金融崩壊においては、苦労の末に手に入れた私有財産が数多く破壊されたのです。私たちの全員が、昼夜の境なく数週間の破壊活動に及ぶよりも多くです。

 私たちは夢を見ているのだと、彼らは言います。しかし、真に夢を見ている人というのはものごとが永遠にそのままであり続けると考えている人たちのことです。私たちは夢を見ているのではありません。私たちは夢から覚めつつあるのです。悪夢へと変わろうとしている夢から。私たちは何一つ破壊していません。私たちはただ、体制がどのように自壊するかを目撃しているだけなのです。

 私たちがみな知っているカートゥーンの古典的な場面があります。断崖へ到達した猫が、そのまま歩き続けるのです。下には何もないという事実を無視して。下を見て、そのことに気付いた時に、ようやく落下します。それが私たちがここで、やっていることなのです。私たちは、ウォール街の面々に、こう言っているのです。「おい、下を見ろ!」と。

 二〇一一年の四月中旬に、中国政府はあることを禁止しました。全てのTVや映画や小説において、別の現実やタイム・トラベルを含む内容を扱うことを。これは中国にとって良い兆候です。つまり、人々が未だオルタナティブを夢見るためには、そうした夢を禁止すべきだ、ということです。ここでは、そうした禁止は必要ありません。なぜなら、支配体制が私たちの夢見る能力を抑圧すらしないからです。私たちが普段観ている映画を、思い浮かべてください。世界の終わりを想像するのは容易です。小惑星が生命体を全て絶滅させるとか、そういったたぐいのものです。しかし、資本主義の終焉は想像できません。

 それでは、私たちは一体ここで何をしているのでしょう?ここで一つ、素晴らしい、古い、共産主義時代のジョークをお話しさせてください。一人の男が、東ドイツからシベリアへ、働くために送られました。自分の手紙が検閲官に読まれることを、彼は知っていました。そこで、自分の友達にこう言いました。「暗号を決めておこう。もし私からの手紙が、青いインクで書かれていたら、私の言っていることは真実だ。もし赤いインクで書かれていたら、それは嘘だ」。

 一ヵ月後、彼の友達は最初の手紙を受け取りました。全ては青いインクで書かれていました。その手紙にはこう書かれてました。「ここは全く素晴らしいところだ。商店はおいしい食べ物で一杯だ。映画館では西側の面白い映画が観られる。アパートメントは広々として豪華だ。ここで手に入らないものと言ったら、赤いインクだけだ」。

 このようなあり方で、私たちは生きているのです。私たちには、私たちが望むあらゆる自由があります。私たちには、ただ赤いインクがないだけなのです。私たちの不自由を明確に表すための言語が。私たちがそういう風に話すようにと教えられた自由についての話法――「テロとの戦い」とかそういったことです――それが自由を偽ってしまうのです。そして、それがあなたたちが、ここでしていることなのです。あなたたちは、私たちみなに赤いインクを授けているのです。

 そこには危険もあります。自分自身と恋に落ちないようにしてください。私たちはここで、楽しい時を過ごしています。だが、覚えておいてください。カーニバルは安上がりなのです。重要なのは、その翌日私たちが日常生活へと戻る時です。そこに何らかの変化はあるのでしょうか?私はあなたたちに、これらの日々を想い出にして欲しくありません。「ああ、私たちは若く、全ては素晴らしかった」などと。

 覚えておいてください。私たちの基本的なメッセージは、「私たちはオルタナティブを考えることを許されているのだ」というものです。タブーは破られました。私たちは、最善の可能世界に住んでいるわけではないのです。この先に長い道のりがあります。そこには、真に困難な問いが立ちはだかっています。私たちは、私たちが何を望んでいないかを知っています。それでは、私たちは一体何を望んでいるのでしょう?どのような社会組織が、資本主義の代わりとなるのでしょう?どのようなタイプの新しいリーダーを、私たちは望んでいるのでしょう?

 覚えておいてください。問題は、腐敗でも貪欲でもないのです。問題なのは体制です。それが腐敗を強いるのです。敵だけに注意するのでなく、偽の友にも注意してください。彼らは既に、この抗議を薄めようとしています。カフェイン抜きのコーヒーを、受け取る時と同じやり口で、アルコール抜きのビールを、脂肪抜きのアイスクリームを、受け取る時と同じやり口で彼らは、これを無害で道徳的な抗議活動に変えようとするでしょう。カフェイン抜きの抗議です。

 私たちがここにいる理由は、私たちがこの世界にうんざりしているからなのです。コーラの空き缶をリサイクルすることで、チャリティとして数ドルを与えることで、もしくは、スターバックスのカプチーノを買うと、その一%が飢えに苦しむ第三世界の子どもたちのところに行くことで、私たちを気分良くして、それで良しとしているこの世界に。労働と拷問を外部に委託したその後で、私たちの性生活ですら、今や結婚仲介業者が外部に委託しているその後で、私たちは理解しています。私たちの政治的参加もまた、長い間委託されるに任せていたことを。私たちはそれを取り戻したいのです。

 私たちは共産主義者ではありません。もし、共産主義が一九九〇年に崩壊した体制を意味するのならば。思い出してください。今日ではそれらの共産主義者たちが、もっとも能率的で冷酷な資本主義者であることを。今日の中国には、資本主義が存在します。アメリカの資本主義以上に、ダイナミックなが資本主義が。しかし、それは民主主義を意味しません。それが意味することは、あなたが資本主義を批判しようとする際に、脅されるような真似を許してはならないということです。まるであなたが民主主義に、反対しているかのように。民主主義と資本主義の結婚は終わったのです。

 変革は可能です。ところで、今日私たちは何を可能だと見なしているのでしょう?メディアを追いかけてみましょう。一方では、テクノロジーとセクシャリティーにおいて、全てが可能であるかのように見えます。月まで旅行に出かけることも可能です。遺伝子工学によって、不死になることも可能です。動物であれ何であれと、セックスすることも可能です。ですが、社会と経済の領域を見渡してみると、そこでは、ほとんど全てのことが不可能だとされているのです。

 あなたが富裕層の税率を、ちょっとばかり引き上げたいと言えば。「それは不可能だ。競争力を失う」と彼らは言うのです。あなたがヘルスケアにもっとお金が欲しいと言えば、「不可能だ。全体主義国家のやることだ」と彼らは言うのです。この世界はどこかが間違っているのではないでしょうか。不死になることを約束されているのに、ヘルスケアに費やすお金をほんの少しも上げることができない世界は。

 おそらくここできちんと私たちの優先事項を、設定することが必要なのでしょう。私たちはより高い生活水準など望んでいないのです。私たちはより良い生活水準を望んでいるのです。たった一つの意味においてのみ、私たちが共産主義者(コミュニスト)であるのは、私たちがコモンズに配慮しているからです。自然のコモンズ、知的所有権によって私物化されたもののコモンズ、遺伝子工学のコモンズ。このために、このためだけに私たちは闘うべきなのです。

 共産主義は間違いなく失敗しました。しかし、コモンズの問題がまだここにあります。ここにいる私たちはアメリカ人ではない、と彼らは言います。しかし、自分たちこそが本当のアメリカ人だと主張する保守派の原理主義者たちは、何かによって気付かされなければなりません。キリスト教とは何でしょうか?それは聖霊です。聖霊とは何でしょうか?信じる者たちによって構成される、平等主義の共同体です。お互いへの愛で結びついた者たちによって。そして、自らの自由と責任を所有する者だけが、それをなすことができるのです。

 この意味において、聖霊は今ここに存在します。そして、あそこウォール街にいるのは、涜神的な偶像を崇拝している異教徒たちです。だから、私たちに必要なのは忍耐だけです。私が恐れているたった一つのことは、私たちがいつの日にか家に帰り、一年に一度会うようになり、ビールを飲みながら、ノスタルジックに想い出に耽るというものです。「私たちは、なんて素敵な時をあそこで過ごしたのだろう」と。そういうことにならないように、自らに誓いましょう。

 私たちは知っています。人々がしばしば何かを欲しても、本当にはそれを望んだりしないことを。どうか、あなたが本当に欲するものを、望むことを恐れないでください。

 どうもありがとうございました!



コメント:
 YouTubeの長さ制限が緩和されたため、以前二分割でアップロードしていたスラヴォイ・ジジェクの「ウォール街を占拠せよ」でのスピーチを、新たに編集し、訳も見直して一本の動画としてアップロードしたもの。わずかながら画質と音質が向上していると思う。

 英文の書き起こしはこちら。字幕用ではない、演説としての翻訳はこちら(この翻訳も見直した)。ここからはただのぼやきだが、前の素材を再利用するのだから片手間にできると思ったら、何度もエンコードしたり、アップロードしたり、大変苦労してしまった。

by BeneVerba | 2012-05-08 19:41 | 動画 | Trackback | Comments(2)
資本主義と民主主義の結婚は終わった
The Marriage Between Democracy and Capitalism is Over
2011年10月09日 - スラヴォイ・ジジェク
参考:
http://occupywallst.org/article/today-liberty-plaza-had-visit-slavoj-zizek/
http://www.imposemagazine.com/bytes/slavoj-zizek-at-occupy-wall-street-transcript


  We are called losers. But the true losers are down there on Wall Street. They were bailed out by billions of our money. We are called socialists. But here there is already socialism for the rich. They say we don’t respect private property, but in the 2008 financial crash-down more hard-earned private property was destroyed, than if all of us here were to be destroying it night and day for weeks.

  They tell you we are dreamers. The true dreamers are those who think things can go on indefinitely the way they are. We are not dreamers. We are the awakening from a dream which is turning into a nightmare. We are not destroying anything. We are only witnessing how the system is destroying itself.

  We all know the classic scene from cartoons. The cat reaches a precipice. But it goes on walking, ignoring the fact that there is nothing beneath its ground. Only when it looks down and notices it, it falls down. This is what we are doing here. We are telling the guys there on Wall Street, “Hey, look down!”

  In mid-April 2011, the Chinese government prohibited on TV, in films, and in novels all stories that contain alternate reality or time travel. This is a good sign for China. It means people still dream about alternatives, so you have to prohibit this dreaming. Here, we don’t need a prohibition. Because the ruling history[system?] has even oppressed our capacity to dream. Look at the movies that we see all the time. It’s easy to imagine the end of the world. An asteroid destroying all life and so on. But you cannot imagine the end of Capitalism.

  So what are we doing here? Let me tell you a wonderful old joke from Communist times. A guy was sent from East Germany to work in Siberia. He knew his mail would be read by censors, so he told his friends: “Let’s establish a code. If a letter you get from me is written in blue ink, it is true what I say. If it is written in red ink, it is false.”

  After a month, his friends get the first letter. Everything is issued in blue. It says, this letter: “Everything is wonderful here. Stores are full of good food. Movie theatres show good films from the west. Apartments are large and luxurious. The only thing you cannot buy is red ink.”

  This is how we live. We have all the freedoms we want. But what we are missing is red ink: the language to articulate our non-freedom. The way we are taught to speak about freedom -- war on terror and so on -- falsifies freedom. And this is what you are doing here: You are giving all of us red ink.

  There is a danger. Don’t fall in love with yourselves. We have a nice time here. But remember. Carnivals come cheap. What matters is the day after, when we will have to return to normal lives. Will there be any changes then? I don’t want you to remember these days, you know, like “Oh, we were young and it was beautiful.”

  Remember that our basic message is: We are allowed to think about alternatives. The taboo is broken, we do not live in the best possible world. But there is a long road ahead. There are truly difficult questions that confront us. We know what we do not want. But what do we want? What social organization can replace Capitalism? What type of new leaders do we want?

  Remember. The problem is not corruption or greed. The problem is the system which pushes you to be corrupt. Beware not only of the enemies, but also of false friends who are already working to dilute this process. In the same way you get coffee without caffeine, beer without alcohol, ice cream without fat, they will try to make this into a harmless, moral protest -- a decaffienated protest.

  But the reason we are here is that we have had enough of a world where, to recycle Coke cans, to give a couple of dollars for charity, or to buy a Starbucks cappuccino where 1% goes to third world starving children is enough to make us feel good. After outsourcing work and torture, after marriage agencies are now outsourcing even our love life, we can see that for a long time we allowed our political engagement also to be outsourced. We want it back.

  We are not Communists, if Communism means a system which collapsed in 1990. Remember that today those Communists are the most efficient ruthless Capitalists. In China today, we have Capitalism which is even more dynamic than your American Capitalism, but doesn’t mean democracy. Which means when you criticize Capitalism, don’t allow yourself to be blackmailed that you are against democracy. The marriage between democracy and Capitalism is over.

  The change is possible. So, what do we consider today possible? Just follow the media: On the one hand, in technology and sexuality everything seems to be possible. You can travel to the moon. You can become immortal by biogenetics. You can have sex with animals or whatever. But look at the field of society and economy. There almost everything is considered impossible. You want to raise taxes a little bit for the rich. They tell you “it’s impossible. We lose competitivity.” You want more money for health care. They tell you, “Impossible, this means a totalitarian state.” Isn't it something wrong in the world, where you are promised to be immortal but cannot spend a little bit more for healthcare.

  Maybe we need to set our priorities straight here. We don’t want higher standard of living. We want better standard of living. The only sense in which we are Communists is that we care for the commons. The commons of nature, the commons of privatized by intellectual property, the commons of biogenetics. For this and only for this we should fight.

  Communism failed absolutely. But the problems of the commons are here. They are telling you we are non-Americans here. But the conservative fundamentalists who claim they really are American have to be reminded of something. What is Christianity? It’s the Holy Spirit. What is the Holy Spirit? It’s an egalitarian community of believers who are linked by love for each other. And who only have their own freedom and responsibility to do it.

  In this sense, the Holy Spirit is here now. And down there on Wall Street, there are pagans who are worshipping blasphemous idols. So all we need is patience. The only thing I’m afraid of is that we will someday just go home and then we will meet once a year, drinking beer, and nostaligically remembering “What a nice time we had here.” Promise ourselves that this will not be the case.

  We know that people often desire something but do not really want it. Don’t be afraid to really want what you desire.

  Thank you very much!

by BeneVerba | 2012-05-06 17:18 | 書き起こし | Trackback | Comments(0)
アルジャジーラ・インタビュー:今や領野は開かれた
The interview on Talk to Al Jazeera: Now the Field is Open
2011年10月29日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:
http://www.youtube.com/watch?v=6Qhk8az8K-Y
http://beneverba.exblog.jp/16539863/





 ――世界のどこかで左翼というコンセプトが、それを現実化しようとしている場所をご存知ですか?

 物事はゆっくりと起きつつあります。しかし、メディアは充分にそれらを報道していません。例えば、私はメディアのインドと中国の取り上げ方に驚いています。中国は悪い奴だ、誰もが悪い共産主義や検閲があることを知っている、チベットをテロで支配している、そういったことです。インドが時々とはいえ注目を浴びることをご存知でしょう。しかし、充分に報道されているとは言えません。

 自然にも貧しい毛沢東主義者が反乱を起こしています。大方の味方はこうです。「OK、インドは大きなパートナーだ。インドとはいえ仲間だ」。百万人以上が反乱軍なのです。とんでもないことが起こっています。インドの新興資本主義は炭鉱へのアクセスを確保するため部族地帯にまで拡大しようとしています。しかし、私たちはそれを見ていないのです。だからこそ、反乱がそこにあるのです。

 こうしたことは今ではヨーロッパですら起こっています。事態はとても深刻です。それは「ギリシアは負債を支払うかどうか」といった表面的なことではありません。それは基本的に可能性の一つに過ぎません。何よりも先ずヨーロッパでは――私はこの隠喩を引用するのが好きなのですがね、「女は何を望んでいるのか?」、ジグムント・フロイトがこの奇妙で純朴な質問を発した時、彼はそれなりの年齢でした。私が主張する今日の問題はこうです。「ヨーロッパは何を望んでいるのか?」。ヨーロッパは自ら決定することができないのです。一方ではテクノクラティックなブリュッセル的ヴィジョンがあります。私たちはグローバルな市場で競争するために自らを組織化しなければならないというものです。

 それから私たちには、ナショナリスティックで反移民的な運動があります。それが唯一のオルタナティブであるとしたら悲しいことです。私が思うに今の世界は本当のオルタナティブを追い求めているのです。私は、アングロ-サクソン的ネオリベラリズムと中国-シンガポール的資本主義――詩的に言うならばアジア的価値観の資本主義ですが、つまり権威主義的な資本主義です。それは今や西洋のリベラル資本主義よりも能率的なのです――の二つしか選択肢がない世界に住みたくはありません。だからこそ、何かがなされなければなりません。それがヨーロッパの悲劇の1番目です。

 2番目です。残念ながら私はヨーロッパについてとても悲観的です。どれほどヨーロッパが退歩していることか。一つの出来事を取り上げてみましょう。欧州連合が基本的にトルコの加盟を認めていないことはご存知でしょう。民主的ではないとか何かで。

 ――イスラム的だと。イスラム的過ぎると。

 そうです。しかし、あることをお話しさせてください。この夏にイスタンブールで大きなゲイ・パレードがあったことを、ご存知ですか?数万人のホモセクシャルがデモ行進しました。そして、揉め事など何もなかったのです!

 これがもし欧州連合に加盟している東欧のポスト共産主義国家だったら、どうでしょうか。例えば、最近に分裂した南クロアチアの都市だったら。ゲイ・パレードですよ。どのようなものになるか想像がつくでしょう。彼らをリンチしようとする1万人の地域の人々から2千人の警察官に守られた7百人のゲイたち、などといった光景です。

 私が言いたいのはつまり――友だちを挑発するために言うのですがね、これも私の挑発の一つです。「そう、私は右翼に賛成する。ヨーロッパの遺産、ユダヤ・キリスト教的な遺産は危機に瀕している。しかし、彼らイスラームや何やらに反対している偽のヨーロッパの擁護者たち、彼らこそが危機なのだ。私はヨーロッパのムスリムを恐れない。私が恐れるのはヨーロッパの擁護者たちだ」。ユダヤ人の友だちにさえ言っているのです。「気を付けるんだ!今何が起きているか気付いているか?」と。

 あのブレイヴィクについて気付いたことはありませんか?ノルウェイで銃乱射事件を起こしたあの男です。彼は今持ち上がっていることの明白な例です。それは文字通りパラドキシカルなものです。反ユダヤ主義のシオニストです。

 一方では、明らかに彼は反ユダヤ主義者でした。彼はこう言っています。「イギリスを除けば、西ヨーロッパはOKだ。そんなに多くのユダヤ人はいない。だからなんとかなる」。それからこうです。「イギリス、そして特にアメリカにはユダヤ人が多すぎる」。したがって、標準的な国民国家のヴィジョンはこういうものです。「もし無視できるほどならユダヤ人は問題ない。だが数が多すぎれば……」。

 そうであると同時に、彼は全くのところ親イスラエル、親シオニストです。おや、あなたは私が孤独な狂人だとお思いでしょう(笑)。しかし、私が思うに、これがアメリカのキリスト原理主義保守派の基本的な態度なのです。

 フォックス・ニュースのスキャンダルを覚えているでしょう。グレン・ベックです。彼は反ユダヤ主義発言のために解雇されました。しかし同時に彼は全くのところ親シオニストなのです。これは私にとって悪夢です。

 イスラエル国家の代議士たちは、自分たちが何をしているのか気付いているのでしょうか?彼らは基本的に自分たちの魂を悪魔に売ったのです。それはこういう意味です。彼らは西側の政治勢力と取引をしています。そして私に言わせればそれらの勢力は、本質的に反ユダヤ主義なのです。

 つまり、彼らが人種的なゲームをしても良いのなら、私たちにパレスティナ人と同じことをすることを許せ、ということです。私は本当にユダヤ人のことを心配しています。ユダヤ人は偉大な民族です。シオニストの政治は彼らを偏狭な自滅的国家に変えようとしています。

 中東の紛争における真の犠牲者は、このカタストロフィックな政治において、ユダヤ人自身となることでしょう。彼らは、そのユニークさと偉大さを失うことになるかもしれません。

 ――あなたはどのような点において、真の変革、革命的な変化のかすかな兆候を、世界のどこかに見て取っているのでしょうか?あなたは左翼は本当はそれら多くの問題に対するグローバルな治療法、もしくはグローバルなアプローチを持っていないと仰いましたね。何らかの変化の兆候をどこに見ているのですか?

 現在既に起こりつつあることが、控えめな楽観主義の理由になると思います。魔法のような解決法が突然現れるという奇跡を期待してはいけません。はじまりは私たちが直面している困難は、貪欲な悪人が引き起こしたものではなく、良いシステムが代わりになるというものではないと、人々が気付くことです。しかし、私たちは確かにシステムそれ自体を問わなければなりません。

 この気付きは興りつつあります。それがこの〔アメリカの〕抗議者たちが、ここにいる理由なのです。私が思うに、この段階で重要なのは、拙速な解決策を提供せず、むしろそれを壊すことなのです。私はそれを皮肉を込めて、「フクヤマのタブー」と呼んでいます。

 それはつまり、彼は馬鹿ではないということです。私たちは今やみなフクヤマ主義者なのです。ラディカルな左翼でさえもです。私たちは何が資本主義に取って代わることができるのか考えることができないし、今以上の社会的正義や女性の権利などを求める状況をシステムに組み込むこともできないのです。

 やがてこのより根本的な疑問を問うべき時がやってきます。システムはもはやその自明性、自立的な妥当性を失ったのです。そして今や領野は開かれたのです。これは重要な達成です。

 ――しかしもし領野が開かれたのなら、誰が真空を満たすのですか?誰か上から注ぐのですか?

 常にその危険はあります。私は全くあなたの言うことに同意します。1930年代のヨーロッパやその他で、一体誰が空白を埋めたのか忘れないようにしましょう。これにはそれ自身のリスクがつきまとうのです。しかし、にもかかわらず私たちはこの機会をつかまなければなりません。

 なぜならば、私たちは経済的な危機のような連続的な現象がある種の永続的な非常事態になるのを見ているからです。したがって、世界経済が何とか前進するにしろ、そうした現象に敏感にならなければならないと思います。

 しかしそこには――これは良いパラドクスです。ベルリンの壁は崩壊しましたが、新しい壁や分断があらゆる場所で勃興しているのです。ほとんどの国家において、富裕層と貧困層の間だけでなく、分断は強化されています。

 ラテン・アメリカを例として挙げましょう。ファヴェーラやスラムやその他の場所に住む人々は、単純に貧しいと言うだけではありません。それはもっとラディカルなものです。彼らは単に公共の空間や政治参加その他から閉め出されているのです。

 したがって、再び問題は私たちがリスクを引き受けるかどうかといったものではないのです。はじまりは私たちの行く先にあり、私たちはそれを課されているのです。「単に黙って行くべき道を行ったらどうなんだ?」と私に訊く人への答えはこうです。

 私は、もし私たちが何もしなければ、次第に新しい種類の――それは古いファシズムではありません。ここで特に明確にしておきましょう――新しいタイプの権威主義社会に近づいていくと主張します。世界において、私が歴史的重要性を見ているのが今日の中国で起きていることです。

 今までは、率直に言って、資本主義について一つの良い論点がありました。遅かれ早かれ、それは民主主義をもたらすのだというものです。韓国にしろチリにしろ独裁制を維持できるのは20年間程度だと。しかし、私が心配しているのは、アジア的価値観の資本主義、シンガポールと中国です。

 そこでは私たち西側の資本主義よりも能率的でダイナミックな――少なくともそう見えている――資本主義があるのです。しかし、私はリベラル派の友人たちの希望を共有していません。彼らはこう思っています。つまり「十年もすれば、天安門事件のようなことが起こる」と。それは違います。資本主義と民主主義の結婚は終わったのです。

 ――なるほど。それでは中国があなたが希望を見て取る良い例ではないとしたら、終了が近づいています、他に良い場所はあるのでしょうか?なぜならあなたは、これら全てについてのあなたの不平は、消費主義が野心と不満を駆動する力となっているというものですね。どこかあなたが栄誉を与えることができる場所はありますか?

 それもまた中国です。中国ですら市民社会を組織化することはできるのです。エコロジーや労働者の権利やそういったことで。私が思うに、特に中国ではこのことは時に西側の民主主義よりも重要なのかもしれません。

 低レベルの驚くべきことが、中国では起こっています。中国の爆発的な状況が示唆するものが何かおわかりでしょう。彼らの最新の追認議会を覚えていますか?

 誰もが彼らは防衛予算を倍にすると思っていた。いいえ、彼らは国内治安の予算を倍にしたのです。中国は今や軍隊よりも国内治安に歳費を費やす唯一の大国です。だからこそ、抗議があるのです。

 アラブの春の話をしましょう。なぜ私があれをそんなに好きなのかご存知でしょう?なぜなら西側にいる我々は――といっても私たちは他の奴らよりそんなにひどくはないか。私は普遍的なペシミストになっているのかもしれないな――自発的なレイシストなのです。わかりますか?決まり文句はこうだったのです。「ああ、アラブ人ね。人々を結集させようと思ったら、集まるのはレイシストや反ユダヤ主義者、それにナショナリストや宗教原理主義者だけさ。民主主義の始まりを告げる世俗的な運動なんて起こりっこないよ」。ところが、まさにそれが起こったのです!

 さて、ここからが大事なところです。その後何が起きるか。これはとても悲しいことです。私はそうならないよう祈ります。しかし、いくつかの兆候が悲しい方向を指し示しています。私はそうなってほしくはありませんが、ひょっとして最終的な結果は、ムスリム同胞団と軍部のねじくれた盟約になるかもしれません。

 もっと簡単な言い方で言えば、ムスリム同胞団はより強力なイデオロギー的役割を統制する学校を手に入れ、その交換として軍部は特権や腐敗などを維持するというものです。

 しかし、にもかかわらず出来事は起きつつあるのです。ヨーロッパに目を向けましょう。ヨーロッパでは人々は最初ギリシア人のことを馬鹿にしていました。「ああ、ギリシア、あの怠け者の原始的な地中海人たち」と。いいえ、スペインがあります、イギリスもです。更に広がることでしょう。あなたが仰ったように、これは重大なことです。

 闘いは、物事がそのまま続くか革命が起こるかではありません。なすべきことは、抗議運動のエネルギーを適切なものに作り替えようとするもっとも困難な闘いを戦うことです。ここアメリカでも大きな抗議運動のエネルギーがあります。しかし、今のところそれは、ヒップ・アーティストたちによって盗み取られているのです。

 彼らは自分たちの作品をどうやって形作っているのか気付いているのでしょうか?50年前の労働者の抗議運動のような格好をしたヒップ・アーティストたちです。彼らの曲を聴けば、おわかりでしょう。私はティー・パーティーを支持するあるポップ・シンガーの曲を聴きました。彼はこう言ったことを歌っていました。「俺たちは搾取されている普通の労働者。ワシントンとウォール街にいる悪漢たちが俺たちを搾取している」などと。

 そこにこそ闘争があるのです。それは困難な闘いです。私は何ら幻想を持っていません。そこにはいくつもの大きな危険があります。しかし、中国のことわざにこんなのがあります。「彼らが本当に君を憎む時、君は興味深い時代に突入する」。私たちは確かに興味深い時代へと近づいています。

 ――お話どうもありがとうございました。

 こちらこそ!どうもありがとうございました。



訳者コメント:
 「ウォール街を占拠せよ」での演説「ウォール街を占拠せよ」に関するガーディアン紙の論考と関連するために、いずれ訳すことを目的に書き起こしていたジジェクのアルジャジーラでのインタービューをようやく翻訳。前半はこちら

 訳者の聞き取り能力の限界のせいで(ジジェクの独特の発音や、崩れた英語のせいもあるが、それよりも)、翻訳としては不充分なものになった。謝っておきます。すみません。訳している最中に書き取り自体の不正確な点にも気付いた。書き起こし共々至らない点があればご指摘いただきたい。そしていずれ見直したい。

 特に訳文の注意点を。論文名と受け取って『人類にとっての貨幣(Human to Money)』と訳した部分。インターネット上の書誌情報などを参照したが、このような文章をアーレントが発表したのかどうか、わからなかった。そのうち図書館にでも行って、調査してくるのでしばらくお待ちを。もし、アーレントに詳しい方がご指摘してくれたらありがたい。

 余りにも多くの論点を含むため、コメントは控えめにしたいが2点だけ。まずイデオロギーの問題。ジジェクは物事を見ないことがイデオロギーだと言っているが、同じような文脈において、「脱原発はイデオロギーではないが、反レイシズムや歴史修正主義はイデオロギーの問題だ」という人は、まさしく選択的に何を見るか決定している点で、イデオロギーにどっぷり浸かっている。ここには自然化したイデオロギーとでも呼びたい問題がある。

 次に、「アジア的価値観の資本主義」について。ひょっとしてここには没落する前の(あるいは今も?)日本を代入しても良いのかもしれないが、アジアに位置する我々とはややズレを感じる部分もある。そのズレた部分は私たちが自分で考えなければならないことなのだろう。それにしても今の中国に行き詰まりと希望を見るというヴィジョンは独特のもので興味深い。

by BeneVerba | 2012-02-04 12:00 | 翻訳 | Trackback | Comments(4)
アルジャジーラ・インタビュー:今や領野は開かれた
The interview on Talk to Al Jazeera: Now the Field is Open
2011年10月29日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:
http://www.youtube.com/watch?v=6Qhk8az8K-Y
http://beneverba.exblog.jp/16539863/





ナレーション:
 中東からロンドンの街角、そしてアメリカの都市まで、現状に対する不満が爆発しています。強力な政府の鉄の支配であれ、富裕層と何とかやっていくだけの人々との間に横たわる大きな経済格差であれ。しかし、これら変化を切望する声はどこへと向かっているのでしょうか?社会変革を目指す彼らの長期的ヴィジョンはどれほど深遠なものなのでしょうか?

 「システムはもはやその自明性、自立的な妥当性を失ったのです。そして今や領野は開かれたのです」。

 スロヴェニア出身の哲学者スラヴォイ・ジジェク氏の懸念です。その資本主義と社会主義の両者への批判的な考察は、彼を国際的に認知された知識人にしました。例えば、ここニューヨークでは、ウォール街を占拠せよの占拠者たちの間で有名です。

 『トーク・トゥ・アルジャジーラ』では、スラヴォイ・ジジェク氏をお招きして、この夏のロンドンでの暴動について、彼らが政治的なアジェンダを持っているかについて、お聞きすることからインタビューを始めました。


スラヴォイ・ジジェク:
 彼らの抗議のやり方、あそこでの彼らの振るまいから見えるのは――私は抗議活動の参加者や目撃者と繰り返し話をしました――彼らは要求がないからこそ通りに繰り出したということです。彼らは、共産主義的なユートピアであれ、宗教的なものであれ、主張をまとめることができません。ただ、純粋な暴力と抗議の、それを何と呼ぶにしろ、消費主義を真似たアジェンダがあっただけです。それはとても悲しいことです。

トム・アッカーマン:
 ――ここアメリカ合衆国には、イデオロギー的に一貫した要求はあるのでしょうか?

 彼らをそのことで非難してはいけません。私は共産主義者ですらないのです。私は自らそう言ったのです。そのことを口にした後、実に多くの敵を作ることになりました。現実を直視しましょう。20世紀の共産主義はまさに――なぜならばあのような希望と共に始まり、悪夢として終わりを告げたのですから――おそらくは史上最大のカタストロフィ、言うなれば、人類の歴史において試みられた中でも最大の倫理的なカタストロフィです。それはファシズム以上です。

 その理由はごく単純なものです。ファシズムにおいては、私たちが抱えていたのは、「全てのプログラムはこれをやることだ。この悪事をなすことだ」と言っていた悪い奴らです。違いますか?なのに、彼らが権力を掌握した後で悪事をなしたのは、何たる驚きでしょうか!ですよね。共産主義において、私たちが抱えていたのは正真正銘の悲劇です。だからこそ反体制派や常に内部党争があったのです。だから――とはいえそれは終わったことです。

 これが意味することは何でしょうか?それが意味するのは、もう虚仮威しは止めようじゃないか、ということなのです。私たちは既存のシステムの限界を理解しています。それこそが私の拠って立つ基本的な立場です。

 人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。2008年の金融崩壊の始まりがどのようなものだったか、ご存知でしょう。「OK、我々の銀行に対する立法措置は充分ではなかった。全てが上手くいくように、それらを少しばかり変えよう」。いいえ、それは上手くいきませんでした。

 だから、私たちによって、何かがなされなければならないのです。だがそれに対して率直に向き合わなければなりません。悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。

 ここで一つ、もちろん私が政治的には反対する人物の言葉を引用しましょう。しかし、時に彼女は馬鹿ではありませんよ。ハンナ・アーレントです。ご存知ですね。最後の作品である奇妙な論考『人類にとっての貨幣(Human to Money)』の中で、彼女はこう言っています。「貨幣はリベラルさ(liberality)を表すための手段だ。我々が物を分かち合い、交換するなどの意味において。貨幣が意味するのは、我々がそれを平和的に行うということだ。私はあなたに貨幣で支払い、あなたは望むならそれを私に売る。もし貨幣というものが存在しなければ、直接的な支配と暴力的な強奪が幅を利かせることだろう」。

 私はこの部分において彼女に同意しません。しかし、この話をどこかで聞いたことはないですか?つまり、20世紀共産主義の多大なる経験において、彼らは市場、貨幣を廃止しようとしました。そして、暴力的な支配が必然的にその見返りとしてやって来たのです。

 ――あなたがお書きになった物を読みました。「もしそれが必要を意味するのなら、ファシズムは左翼だ」。そうですよね?「ファシズムは左翼だ」とはどういう意味でしょうか?

 それは私のリベラル派の友人たちを挑発するために言ったことなのです。私は挑発するのが好きなので。私が言ったことの中には、他にももっとひどい言葉がありますよ。例えば、「もし我々がトルコ人の半分を追いやったら……」

 ――文字通りには受け止められませんよ。一体あなたは何を言おうとしたのですか?

 もちろんですとも。ご承知のように、問題は暴力の問題です。もちろん私は暴力に反対します。それが人々に対する殺人や拷問を意味するのならば。しかし、私にとって、私が支持する真の暴力とは、物理的な暴力のことではありません。それは例えば、タハリール広場のエジプト人たちのような暴力なのです。彼らは通常の意味では暴力的ではありません。銃撃したりといったことはしませんでした。彼らはシステム全体の機能を止めようとしたのです。

 これが私の有名な宣言です。多くの敵から身を守るために書いたのですがね。最初の部分はこうです。「ヒットラーが問題だったのは、彼が充分に暴力的ではなかったことだ」。しかし、次の部分はこう続くのです。「ガンディーがヒットラーよりも更に暴力的だったという意味において」。ヒットラーの全ての暴力は、システムを上手く機能させることにありました。ガンディーはシステムを停止させようとしたのです。

 したがって、私にとって問題は暴力の悪魔化です。もちろん暴力は悪魔化されるべきです。しかし、その前に私たちはあらゆる形態の暴力を精査しなければなりません。目に見えない暴力を見るためにです。それはつまり――私はパラノイアではありませんよ――悪いメディアが未知の手段で私たちが思考することを妨げているとか何とか。

 単純にこう考えてください。例えば――暴力について話をしたいのですか?それならコンゴ共和国の話をしようじゃないですか!数百万の人々が死にかけていて、国家全体が機能していない。軍閥が支配し、薬物は蔓延し、未成年の戦士が戦っている、そういったことです。これが、システムの一部であるために、私たちが充分に気付いていない種類の暴力です。だから、私の言いたいことは、暴力の概念を拡張しようということなのです。

 同じ主題について、イギリスのガーディアン紙に書きました。ヨルダン川西岸地区についてです〔拙訳〕。オーケー、私はきっぱりと暴力を非難します。パレスティナ人によるものであれ何であれ、あの場所にある暴力を。しかし、私のその記事での論点は、もし何も起こらなかったら何が起きるのかというものです。メディアにとって大きな出来事が何も起きなかったらです。誰も殺されなかったとかそういったことです。その時に起きていることは、日常と化したイスラエルの官僚的な窒息するような占領なのです。おわかりでしょう。井戸に毒を入れ、木々を焼き払い、パレスティナ人たちをゆっくりと南に押しやっていく。これこそが現実です。こうしたバックグラウンドを知らされることなしに、全体像を描くことはできません。

 ――あなたは、例えばパレスティナ紛争について、イデオロギー上の解決策について話しているのではありませんね、どうでしょうか?

 イデオロギー上の解決策とはどういう意味ですか?

 ――そうですね、あなたは物事に変化がない時、それは通常の状態だとみなされると仰いました。

 まさしく、そこにこそ平時における暴力があるのです。

 ――紛争をナショナリスティックだったり宗教的にみなすものの見方よりも、イデオロギー的なアプローチは存在するのでしょうか?

 ここで問題なのは、「イデオロギー」という用語が何を意味するかです。私にとってイデオロギーとは、近年ますます日常生活における反抗を意味するのです。私たちは、とても奇妙な時代に生きています。少なくとも西側世界ではそうです。人々は自分たちがイデオロギーの外で生きていると思い込んでいます。まるで全ての人々がそうであるかのようです。

 イギリスであれどこであれ、私たちが社会から受け取る暗黙の命令は何でしょうか?それは「大義のために身を捧げよ」などではありません。それは「自分に正直になろう」とか、「充実した人生を送ろう」とか、「自分の潜在能力に気付こう」といったものです。それは私が精神化された快楽主義(spiritualized hedonism)と呼んでいるものです。だからこそ、人々はイデオロギーを経験していると気付かないのです。

 しかし、私たちはまさしくイデオロギーの中にいるのです。なぜなら私にとってイデオロギーとは、日常生活を機能させるために、物事を見たり見なかったりすることなのです。例えば、私たちが変革を想像できないという事実は、イデオロギーのなせるものです。

 もう一つ別の例を挙げましょう。昨今ではレイシズムとセクシズムの問題――それらは本物の問題です――が、寛容の問題に機械的に置き換えられることに、お気づきですか?これがイデオロギーです。マーティン・ルーサー・キングを見てください。彼は寛容については言及しないも同然でした。彼にとって問題は「ああ、白人たちは私たち黒人にもっと寛容であるべきだ」などといったものではなかったのです。彼が問題としたのは、経済的な搾取であり、合法化された日常の中のレイシズムなどだったのです。こうした問題を感じ取ることが、寛容の問題です。

 私たちは既存の社会のヴィジョンを受け入れています。そこでは、文化的な差異がほとんど自然化され、私たちはお互いに寛容であるべきだとかそういう具合に調整されています。そこでは政治の問題が消え失せてしまっているのです。



訳者コメント:
 「ウォール街を占拠せよ」での演説「ウォール街を占拠せよ」に関するガーディアン紙の論考と関連するために、いずれ訳すことを目的に書き起こしていたジジェクのアルジャジーラでのインタビューをようやく翻訳。後半はこちら

by BeneVerba | 2012-02-04 11:57 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
賃金ブルジョワジーの反乱
The Revolt of the Salaried Bourgeoisie
2012/01/18 - スラヴォイ・ジジェク
原文:http://www.lrb.co.uk/v34/n02/slavoj-zizek/the-revolt-of-the-salaried-bourgeoisie

 一体どのようにして、ビル・ゲイツはアメリカでもっとも豊かな人物になりえたのだろうか?彼の富は、マイクロソフト社が、優れたソフトウェアを競争者たちよりも低価格で販売したことに拠るのでもないし、その労働者たちを「搾取」することに成功したせいでもない(マイクロソフトは、その知的労働者たちに相対的には、高い給金を支払っている)。数百万人の人々が今尚依然として、マイクロソフト社製の製品に支払っているのは、マイクロソフトが、ほとんど普遍的な基準として、実質的にはこの業界における市場を独占して、居座っているからであり、そして、マルクスが「一般知性」と呼んだところのものを1つの形で具現化しているからなのだ。一般知性という言葉でマルクスが意味しようとしたのは、科学から実用的なノウハウに至るまでの、あらゆる形態における集団的な知識である。ゲイツは能率的に一般知性の一部を私有化し、借り物を拝借する道を選ぶことで、富者となったのである。

 一般知性の私有化の可能性は、マルクスが彼の資本主義に関する著作の中で、思い描かなかったものに属する(主として、彼がその社会的規則面を見落としたせいで)。しかし、それは今日でも尚、知的所有権を巡る闘争の核であり続けているものである。一般知性の役割が――集団的な知識と社会的な協同と共に――ポスト産業社会の資本主義において増大する一方で、労働者が製造費に支出する以上の、バランスを欠いた途方もない富が蓄積されている。結果、マルクスが予期したであろうこととは異なり、資本主義の自己解体などではなく、労働者の搾取による利益を生み出す機構から、借り物を私有化することで知性におけ私有化へと、漸進的な変容となるだろう。

 天然資源の真相も同様である。それは借り物の中でも世界でもっとも主要な天然資源の搾取である。この借り物を巡って、第三世界の市民たちと西側の企業たちの間に闘争がある。労働者の世界(そこでは余剰価値価値を生み出すための使役が行われている)おり、他の日用品(それらは消費されることで、使用におけるあらゆる価値を使用される)の違いを説明するのはアイロニーである。マルクスは油を「ありふれた」日用品ととして挙げている。今となっては、生産原価における石油の価格ないし費用の上昇と下落を、搾取された労働者に結びつけるのは意味がない。我々が支払う油の価格に比べ、生産原価が本当の意味で借り物であるのは、借り物である資源の価格が、その限りある供給のおかげで、所有者たちに自由に決定することを許しているからなのだ。

 生産力の上昇における集団的知識の飛躍的な増大の衝撃をもたらしたのは、失業の役割の変化である。それはまさしく資本主義の成功(大幅な能率化、上昇した生産力、その他)であり、失業を生み出し、労働者を不要にしているのだ。喜ぶべきことに、辛い労働はより少なくなり、忌むべきものとなっている。もしくは別の言い方で言うのならば、長期の職において搾取される機会は、今や特権として経験されている。フレドリック・ジェイムソンが言ったように、「世界市場は今や、誰もが一度は製造-労働者となる場所であり、誰もが自分を高く売ろうとして締め出される」場所なのだ。今尚継続中の資本主義のグローバリゼーションにおいては、失業という範疇はもはやマルクスの「reserve army of labour」という概念に閉じこめておくことはできない。ジェイムソンが示唆したように、それはまた「これら世界中の莫大な人口は、そのままの状態において『歴史からこぼれ落ちている』。彼らは第1世界の資本主義の近代化プロジェクトから、計画的に排除されており、絶望的で週末的な場合として抹消されている」のである――いわゆる失敗国家(コンゴ、ソマリア)、飢餓や災害の犠牲者、偽の古の「民族的憎悪」に捕らわれた者たち、慈善団体やNGOの対象者、テロとの戦争の標的などである。それ故に失業という範疇は遙かに広大な人々をとらえるべく拡張されねばならない。一時的な失職者、もはや職に就けない者、慢性的な失業者から、ゲットーやスラムの住人(それらの人々はマルクスその人によって「ルンペン・プロレタリアート」として退けられているわけだが)、そして遂にはグローバルな資本主義のプロセスが、まるで古地図の白い領域のように、排除している全ての人々と国家にまで。

 この新しい形態の資本主義は、解放の新しい可能性を提供するという人もいる。いずれにせよ、これがハートとネグリの『マルチチュード』の主要な論点である。それはマルクスをラディカル化しようとし、そして、もし資本主義の首を切り落とせば、社会主義が得られるというわけだ。彼らも気付いていたように、マルクスは歴史的な束縛を受けていた。彼は中央集権化され、機械化され、ヒエラルキーによって組織化された産業労働者が形成される、その結果として中央統制局の以上の何かとして「一般知性」が理解されるだろうと考えていた。今日では「非物質的労働」の増加とともに、革命的な反転が「客観的に可能」となっている。この非物質的労働は2つに極を拡大する。知的労働者(アイディア、文章、コンピューター・プログラムの生産)から、情動に携わる労働者(医者、ベビーシッター、客室乗務員)まで。今日非物質的労働は、マルクスが19世紀の資本主義において、大工業が主導的であると主張したような意味で、主導的な地位にあるのだ。それは数の力に拠ってではなく、鍵となるような象徴的な構造的役割と戯れることによって、その地位を確固たる者にしている。浮かび上がるのは、「コモン」と呼ばれる知識を共有し、新しいコミュニケーションと協働の広大な領域である。非物質的生産物の生産はオブジェクトではなく、あたらしい社会的ないし相互的な関係である。非物質的生産は、生-政治的であり、社会的な生の生産なのだ。

 ハートとネグリはここで、今日の「ポスト・モダン」な資本主義のイデオロギストのプロセスを、物質的な生産から象徴的な生産へ、中央集権的-ヒエラルキー的な論理から自己組織化し多中心方の協働へと描き出している。相違点は、ハートとネグリはマルクスに忠実であることである。彼らは、マルクスが正しかったと証明しようとし、一般知性の興隆は長期的に視て資本主義と相容れないとしている。ポスト・モダン資本主義のイデオロジストは、まさしくこの反対の主張をしようとするだろう。マルクスの理論(および実践は)、と彼らは述べるだろうが、中央集権的国家統制のヒエラルキー的な論理の束縛に留まるものであり、情報革命の社会的は急に耐えられないと言うだろう。その主張には良き経験的な理由があるわけだ。共産主義体制を効果的に崩壊させたのは、彼らの情報革命によって維持された新しい社会的な論理を取り入れる能力の不足だという。彼らはいくつもの中央集権化された大規模な国家計画を策定して、なんとか革命の舵取りをしようとした。パラドックスは、ハートとネグリが資本主義を克服するユニークな機会として祝っているものが、情報革命のイデオロジストたちによって新しい、摩擦のない資本主義の勃興として祝われていることだ。

 ハートとネグリの分析にはいくつかの弱点がある。それは資本主義がいかにして、時代遅れとされた(古典的なマルクスの用語法を用いるなら)生産様式を生き延びてきたのかを理解させるのである。彼らは今日の資本主義が成功裏のうちに(少なくとも短期においては)、一般知性それ自身をも私有化しているかを過小評価している。また同様に、ブルジョワジー以上に、労働者自身が余計なものとなりつつある(一時的な雇用者のみならず、構造的な失業者が構造的にますます増えている)ことを過小評価している。

 もし古い資本主義が理想的には、起業家を(彼のものであれ、借りたものであれ)資金を彼が組織化し運営する生産事業に投資し、そこから利益を得るというモデルを惹き付けてきたのならば、新しい理想的なタイプが今日では鎌首をもたげている。もはや、自分の会社を運営する起業家など必要でなく、銀行(これもまた銀行を所有するのではない支配人たちがいるだけなのだが)が所有する会社を管理する専門的な経営者(もしくはCEOが議長を務める経営委員会)がいれば、もしくは、分散化された投資家たちがいればいい。この新しいタイプの資本主義においては、古いブルジョワジーは非-機能的な存在として描かれ、賃金管理職として再機能されている。この新しいブルジョワジーは賃金の支払いを受け、たとえ会社の一部を所有するとしても、報酬としての株式を保有しているというわけだ(「ボーナス」が彼らの「成功」の証なのだ)。

 この振興ブルジョワジーは未だ剰余価値を着服している。しかしながら「基準外賃金」と呼ばれている(煙に巻かれたような)ある形態で、彼らはプロレタリアートの「最低賃金」よりも支払われているのである(半ば伝説化された形で、グローバルな経済の本当の実例は中国やインドネシアの搾取工場の労働者の賃金だとしばしば指摘されているが)。そしてそれが、自分の状態を自分で決定することのできる、普通のプロレタリアートとの違いである。古典的な意味でのブルジョワジーはそれ故に消えてゆくだろう。資本主義者が賃金労働者として再登場するにつれ、資格を与えられた経営者たちはその能力(そこでは疑似科学的な「査定」が決定的だ。それは二極化をもっともらしくする)のおかげでより多くを稼ぐことだろう。経営者たちだけに限らず、あらゆる種類の専門家たち、行政官、公務員、医者、法律家、ジャーナリスト、知識人、芸術家などの多くの労働者たちもまた基準外賃金を稼いでいる。余剰は2つの形態をとるわけだ。より多くの金(経営者たちなど)、しかしその一方で少ない仕事と多くの余暇(いく人かの知識人たち、しかしより多くの行政官たち)

 どの労働者が基準外賃金を受け取るか決めるのに用いられる査定の手続きは、権力とイデオロギーの恣意的なメカニズムであり、実際の能力には直結していない。基準外賃金の存在は経済的理由ではなく、政治的理由にあるのだ。その目的は、社会的安定性のために「中産階級」を維持することである。社会的なヒエラルキーの恣意性は誤りではない。しかし核心は、査定の恣意性が市場での成功の恣意性と類似している点にあるのだ。

 社会的な空間に余りも多くの不確定性があるからではなく、人が不確定性を除去しようとする時に暴力が爆発するおそれがある。『La marque du sacré』の中で、ジャン=ピエール・デュピュイは、ヒエラルキーを四つの手続き(象徴の装置、dispositifs symboliques)と見なしている。その機能は、上位との関係において恥をかかせないことである。1.ヒエラルキーそれ自身(外部から課せられた命令を私の低い身分の者に経験させることができることが、私本来に備わった独立性である)、2.脱神話化(実力主義的な社会でないことを示すが、社会的闘争の産物であることを示すイデオロギー的な手続き。他の上位者の能力や功績の結果であることを避けることを可能にすること)、3.不確実性(我々の自然的社会的な立場がそれによって決められるくじ引きのようなものに類似するメカニズムと理解できる。幸運な人々なら、優良な遺伝子とともに裕福な家庭に生まれるというわけだ)。4.そして複雑さ(結果を予測できない制御不可能な力。例を挙げるなら、市場の目に見えない手は、私の失敗と隣人の成功を導く者であるかもしれないが、それにもかかわらず私はより働き賢くなろうとする)。見かけと違って、これらのメカニズムはヒエラルキーに挑むものでも脅かすものでもなく、それを口に合うようにするものなのだ。なぜなら「嫉妬による騒乱が引き起こされるのは、他に運もなく反対するアイディアもないからだ」。デュピュイはこの前提から、自らをそう見なす理性的に正しい社会が憤りに対して自由だと考えるのは間違いで、その反対に、そのような社会こそ下位の立場を占める人々の、暴力的な憤りの噴出によって傷付けられたプライドのために、はけぐちを探し求めるべきだ、と結論づける。

 これを今日の中国が直面している行き詰まりに関連づけてみよう。鄧小平の改革の理想的なゴールは、ブルジョワジーのいない資本主義を導入することだった(たとえそれが新しい支配階級をうむとしても)。しかしながら今では、中国の指導者たちは、ブルジョワジーの存在によって可能となった、確固としたヒエラルキーのない資本主義の生み出す、苦渋に満ちた不安定性から逃れる道のりを発見しようとしている。そこでどのような道を中国はとるのだろうか?かつての共産主義者たちは、概してもっとも効率的な資本主義の管理者として現れている。なぜならば、かれらの歴史的階級的なブルジョワジーへの敵対心が、完全に今日のブルジョワジー無き経営支配という資本主義の潮流にぴったりと合うからである。どちらの場合にも、スターリンが昔言ったように、「上役が全てを決定する」のである。(今日の中国とロシアの興味深い違いは、ロシアでは大学教員は奇妙なほど賃金が低いのに比べ、中国では、柔順さを養う目的もあって、かなりの額の基準外賃金が支払われている)

 基準外賃金の概念はまた、以下の「反資本主義」抗議にあらたな光を投げかけている。危機の時代においては耐久生活を求めるあからさまな候補が、賃金ブルジョワジーのレベルを下げることを求める。もしプロレタリアートの仲間入りしたくないのなら、政治的なプロテストは彼らの唯一の頼みの綱なのだ。とはいえ、彼らの抗議は市場の暴力的な論理に向けられるのが通例である。彼らは実際には、次第に腐食しゆく彼らの(政治的に)特権的な経済的地位について抗議しているのだ。

 アイン・ランドは『肩をすくめるアトラス』の中で、ストライキをする「クリエイティブな」資本主義者たちという幻想を描いている。今日のストライキの中にも見つかるねじ曲がった現実だ。それらの多くは基準外賃金を失いたくないという「賃金ブルジョワジー」の恐れに動機づけられているのだ。それらはプロレタリアートの抗議ではなく、プロレタリアートに格下げされようとしていることへのおそれへの抗議なのだ。定職それ自体が特権である今日、一体誰が敢えてストライキしようとするだろうか?(未だ残っている)繊維産業の低賃金労働者などではなく、職の保証を得ているそれらの特権を得た労働者たちである(教師、公共輸送機関の労働者、警察など)。これは学生たちの抗議の性質をも説明するだろう。彼らの主要な動機は、おそらくは、高等教育はもはや終生に渡って基準外賃金を保証しないへのおそれなのだ。

 それと同時に、明らかなのは過去数年に渡る抗議運動の大規模な復活――アラブの春からヨーロッパの西まで、ウォール街を占拠せよから中国まで、スペインからギリシアまで――は、賃金ブルジョワジーの反逆として片付けてはいけないということだ。それぞれの場合でそれぞれの特徴を捉えてみなければならない。イギリスにおける大学改革への学生たちの抗議は、明らかにコンシューマリストの破壊のカーニヴァル、排除された者の真の暴発となった8月の暴動とは違った。人はエジプトの蜂起はいくぶんかは賃金ブルジョワジーの反逆として始まったと主張することができるだろう(そこでは教育を受けた若者たちが見通しのなさに抗議していた)。しかし、これはより大きな1つの抑圧的な体制に抗する1つの側面に過ぎない。その一方で、抗議は本当には、貧しい労働者も農民も集めていない。イスラム教徒の選挙での勝利が、オリジナルの世俗的な抗議の狭い社会的基盤を明らかにするだろう。ギリシアは特別なケースだ。この数十年間で、EUの金融支援策のおかげで新しい賃金ブルジョワジー(とくに過剰に拡張された国家の管理において)が生まれた。そして抗議運動はその多くがそれが終わることに動機づけられているのだ。

 プロレタリアート化された賃金ブルジョワジーの安給料は、その対極にある最高経営幹部と銀行家たちの非合理的なまでに高額な報酬にかなわない(非合理的であるが故に、投資家たちがアメリカで実演して見せたように、それは企業の成功に反比例する傾向を示すのだ)。批判を道徳化しようというこれらの傾向に従うよりも、我々はこれらを徴として読みとるべきである。資本主義体制はもはや、自己制御的な安定性を備えていないのだと。その危機は迫っている。言葉を換えて言えば、手に負えない状態で疾走しているのである。



訳者コメント:
 正月早々風邪をひいてしまった。最近ではほとんど症状は出ていないがその間翻訳作業は滞った。

 さて、ジジェクが1月18日に発表したやや長めの評論である。訳したばかりと言うこともあり読み切れていないが、賃金ブルジョワジーという言葉を軸に、ネグリとハートへの異論、エジプトのタハリール広場やウォール街を占拠せよを初めとする各地の蜂起を絡めつつ、現代資本主義の様相を読み解こうとする試みとして受け取った。

 たいしてジジェクを読んでいないくせに、ここに来て、ジジェクの思考もまた変わりつつあるのかもしれないな、とも思う。とにかく、この文章は、これを中心に様々な糸が引けるような文章ではないかと思う。


2/1の訂正:
 全体的な再チェックはまだだが、flurry さんに示唆をいただき、一部を訂正。また、遅ればせながら、rom_emon さんには、「アイン・ランド」の読みについて指摘をいただいた。両氏に感謝したい。

by BeneVerba | 2012-01-21 22:59 | 動画 | Trackback | Comments(0)
悪魔の民族のための政策としてのリベラリズム
Liberalism as politics for a race of devils
2011年11月22日 - スラヴォイ・ジジェク
原文:http://www.abc.net.au/religion/articles/2011/11/22/3373316.htm


 リベラリズムにとって、少なくともそのラディカルな形態にとっては、人々をある倫理的理想――普遍的であり、それ故に普遍的な拘束力を持つ――に服従させたいという欲望は、個人的見地の他人への暴力的な押し付けに、またそれが故に市民的騒乱に帰結するために、全ての犯罪の源「全ての犯罪を含む犯罪」である。

 それが、市民的な平和と寛容を確立するための最初の前提条件は、あらゆる道徳的誘惑を取り除くことだと、リベラルが主張する理由である。政治は徹底的に道徳的理想を追放し、「現実主義的」なものとして描かれるべきであり、人々をありのままに受け取り、彼らの真の本性をあてにするべきであり、道徳的説得をあてにするべきではないのだ。

 このパラダイムは、様々な意味において、市場が機能するそのやり方そのものである。人間の本性は利己的であり、それを変える方法はない。したがって、必要なことは私悪を公益のために働かせることである。有名なエッセイ『永遠平和のために』において、イマヌエル・カントはこの鍵となるメカニズムの正確な記述を提供している。
 多くの人々が、共和国は天使の国家でなければならないだろうと言う。なぜならば、利己的な傾向を持つ人間は、そうした崇高な形式の体制を形成するのに適さないからである。ところが、まさしくそれらの利己的な傾向をもってして、自然は、尊敬すべきではあるが実践においては無力な、理性に基づいた普遍的意志を助けるのである。それ故に、問題は国家の良い組織を作ること(人にはその能力がある)であるが、それがために、それぞれの利己的な傾向の力が、一方が他方の破滅的な力を緩和するか、もしくは破壊するように対立的に配置されている。理性にとって、結果は、それらの傾向が存在しなかったのと同様であり、人は道徳的に良き人物でなくとも、良き市民になるように強いられている。

 国家を組織するという問題は、それがどれ程困難に見えても、彼らが知性を持ちさえすれば、悪魔の民族にとってすら解決できうるのである。問題はこうである。「自己保存のために普遍的な法を求めているが、それぞれが密かに自分はそれから逃れたいという傾向を持つ一群の理性的な存在たちがいれば、彼らの私的な意図は衝突するとはいえ、そのような体制を確立するために、彼らは互いを制止しあい、その結果として、彼らの公的な振る舞いは、そうした意図がなかったのと同様になるであろう」。

 この問題は解決可能である。なぜならば、それは我々に、いかにして人間の道徳的改善が達成されるべきかを知ることを要求してはおらず、それを人間に用いることで、人々の中にある敵対的な意図の衝突を組織化して、彼らが自ら強制的な法に服従せざるを得ないように仕向けている、自然のメカニズムを知ることを要求しているだけだからである。故に、法が効力を持つ平和的状態は確立されるのである。

 カントの思考に添うならば、その結論はこうである。完全に自己意識的なリベラルは、自己の利益を他人の利益のために捧げようとする自らの利他心を、意図的に制限しなければならず、公益を達成するための最も効率的な方法は、私的な利己主義を追求することだと気付かなければならない。そこで我々は「私悪すなわち公益」というモットーの論理的反対物を得るわけである。つまり、「私的な善すなわち公的な災厄」である。

 その当初から、リベラリズムの中には、個人的自由と集団の振る舞いを規制する客観的メカニズムの間に緊張がある。バンジャマン・コンスタンは既にこの緊張を観察し、明確に定式化していた。「個人においては全ては道徳的であるが、集団においては全ては物理的である。全ての人は個人としては自由であるが、集団の中においては機械の歯車である」。

 この企図の内的な緊張はリベラリズムの二つの面において認められる。市場リベラリズムと政治的リベラリズムである。ジャン=クロード・ミシェアがすばらしくも論じたように、これらリベラリズムの二つの側面は、「Right」という言葉の二つの政治的意味において結ばれている。政治的な右派(Right)は市場経済に固執し、ポリティカリー・コレクトな左派は人権(human rights)の擁護に固執する。しばしば、それが唯一残った存在理由であるほどに。

 リベラリズムのこれらの二つの側面間の緊張は単純化できるものではないが、にもかかわらず、同じ硬貨の両面のように、両者は密接に結びついている。

 そして、今日では、「リベラリズム」の意味は、経済的なリベラリズム(自由市場的個人主義、強い国家による規制への反対など)と政治的なリベラリズムないしはリバタリアニズム(平等、社会的連帯、寛大さの強調など)の間で揺れている。

 論点は、いくら綿密に分析したところでどちらが「真の」リベラリズムなのか決定できないこと、また何らかの「より高次の」両者の総合を提示しようとすることで、ましてこの用語の二つの意味の区別を明らかにすることで、このデッドロックを解決できないことにある。

 二つの意味の間の緊張は、「リベラリズム」という言葉がその名で呼ばれようとする内容そのものに固有のものである。それはこの観念の構成要素であり、そのためにこの両義性は、悟性の限界を示すものではなく、リベラリズムの観念そのものの最も内側の「真実」を指し示している。

 伝統的に、リベラリズムそれぞれの「顔」は、必然的に他方の顔の反対物として現れている。リベラルが多文化主義的な寛容を擁護し、通例として、経済的なリベラリズムと闘い、規制なき市場の力の猛威から脆い立場にあるものを守ろうとする一方で、自由市場リベラリズムは、通例として、保守的な家族の価値観を擁護する。

 それ故に、我々はある種の二重の矛盾を抱えることになる。伝統的な右派は、市場経済を支持する一方で、それが生み出す文化及び社会的習慣と勇猛に闘っている。その一方で、その対照物である多文化主義的な左派は、市場と闘う一方で(ミシェアが指摘するように、最近ではどんどん少なくなっているのだが)、熱狂的にそれが生み出すイデオロギーを強化している。

 今日では、言うなれば、我々は両方の面が結合された新しい時代に入ったようにも見える。ビル・ゲイツのような人物は、急進的市場主義者であり、多文化主義的人道主義者であるように装っている。

 ここで我々はリベラリズムの基本的な矛盾に遭遇することになる。反イデオロギー的かつ反ユートピア的な態度が、リベラルなヴィジョンの心臓に刻印されている。リベラリズムは自らを「より少ない悪の政治」だと見なしており、「可能な限り最小悪の社会」をもたらそうというその野心は、より大きな悪を防ごうとするが故に、現実的な善を直接的に押し付けようとするどのような試みも、全ての悪の根元的な源であると考えるのである。

 ウィンストン・チャーチルの「民主主義は最悪の政治制度だ。他の政治制度を除けば」という警句は、リベラリズムにこそより当てはまる。そのような見方は人間の本性に対する深いペシミズムによって保持されている。人は利己主義的で嫉妬深い動物であり、もしその徳性と利他主義に訴える政治制度を築けば、結果は最悪の恐怖政治となるのだ(ジャコバン派とスターリニストの両方が、人間の徳を前提としていたことを想起せよ)。

 しかしながら、「善の専政」へのリベラルの批判は犠牲を支払うものである。そのプログラムが社会に浸透するにつれ、その反対のものへと変わってしまう。より少ない悪以外に何も求めないという主張は、いったん新しいグローバルな秩序の原則として採用されると、反対のものだと主張するその敵の特色を漸進的に迎え入れてしまうのだ。

 実際のところ、グローバルなリベラルの秩序は、可能な世界の中では最善のものとして自らを提示している。その控えめなユートピア的な目的の拒否は、それ自身の市場リベラルのユートピアの押し付けとともに、我々が市場のメカニズムと普遍的な人権に自らを服従させる時に、現実のものとなる。

 しかし、ポリティカル・コレクトネスの注意深い観察者ならば知っているように、道徳的な善を法的な正義から分離しようとする試み――それは相対化され歴史化されるべきではあるが――は、憤慨に溢れた閉所恐怖症的で抑圧的な道徳主義に終わったのである。

 ジョージ・オーウェルが「共通の良識」として賛同的に言及した標準(そうした標準は全て、個人の自由を原ファシスト的な有機的な社会形態に従属させるものとしてはねつけられている)に基づいた「有機的な」社会的実質を欠くならば、法のミニマリスト的なプログラムは、せいぜい個人をお互いの侵害(互いへの迷惑行為や「ハラスメント」)から防ぐものを意図するに過ぎず、「あらゆる形態の差別への反対」として提示されている法的かつ道徳的な爆発、法化と道徳化の終わりなきプロセスへと変わる。

 もし、法に影響を及ぼすべき共有の社会的習慣が存在しなければ、主体が他の主体に「ハラスメント」を働くというありのままの事実があるに過ぎないが、それならば一体誰が――そのような社会的習慣の不在において――何を「ハラスメント」であるか決めることができようか?

 実例を挙げるなら、フランスには肥満に反対し健康な食習慣に賛同する全ての公的なキャンペーンを中止するよう求める肥満した人々の団体がある。なぜなら、それらのキャンペーンは肥満した人物の自尊心を傷付けるからである。ベジー・プライドの闘士たちは、肉食者たちの「種差別」(動物たちを差別し人間という動物を特別視している、彼らにとってはおぞましき「ファシズム」の形態)を非難し、「菜食主義憎悪」を外国人憎悪の一種のように取り扱い、犯罪として非難されるべきだとしている。こうしたものは、近親婚、合意に基づく殺人、カニバリズム……などなどの権利を求める闘いにまで拡張されよう。

 ここでの問題は、こうしたこれまでにない新しい規則の増殖における明白な恣意性にある。子どものセクシャリティを例として取り上げてみよう。その違法化を不当な差別だと論ずることができる一方で、子どもは性的いたずらから保護されるべきだと主張することもできる。こうした例はさらに続けることができる。ソフト・ドラッグの合法化を擁護する同じ人物が、公共の場所での喫煙の禁止を支持することは普通である。我々の社会にある小児に対する家長的な虐待に抗議する同じ人物が、我々の社会に住む外国文化の成員がまさに同じことをしている場合に、非難されることを心配している(例えば、ロマが子どもたちを公立学校に行かせない場合のように)。他人の「生き方」への干渉にあたると主張するのである。

 それ故に、こうした「反差別の闘い」が、果てしなくその終着点を引き延ばし続ける終わりなきプロセスになる必然的構造的な理由がある。あらゆる道徳的な偏見から解放された社会は、ジャン=クロード・ミシェアの表現を借りれば、「その評価において、あらゆる場所に犯罪を見出す社会になるだろう」。

 そうしたリベラルな多文化主義のイデオロギー的調整は、「ポストモダン」な潮流の二つの特色によって決定される。普遍化された多文化主義的な歴史主義(全ての価値観と権利は歴史的に特有のものであり、他人への押し付けとなるそれらの普遍的な観念への昇格は、最も暴力的な文化帝国主義である)と、普遍化された「疑惑の解釈学」(全ての「高次の」倫理的な動機は、憤慨と嫉妬である「低次の」動機によって生み出され保持されている。例えば、大義のために自らの生命を犠牲にせよという呼びかけは、力と富を保持するために戦争を必要とする人たちによる操作の仮面または、あるいはマゾヒズムの病理学的表出である。そしてこの「または/あるいは」は論理和である。つまりどちらの用法も同時に真でありうる)である。

 このリベラルなヴィジョンの問題は、全ての良き人類学者、精神分析家、もしくはフランシス・フクヤマのような明快な社会批評家さえ気付いているものである。それは自分自身で存立することができず、通常「社会化」として言及される先行する形態に寄生しているのである。それは同時に自らを損なうため、それにより自らが座る枝を切ろうとするのである。

 市場において――そして、もっと一般的に言えば、市場に基づく社会的な交換において――は、個人は互いに自由で理性的な主体として出会うが、そのような主体は、象徴的負債、権威、そして何よりも信頼に関わる、複雑な先行的プロセスの結果である。

 言葉を換えて言えば、交換の領域は決して純粋に対称的ではないのだ。ギブ・アンド・テイクのゲームに参加するためには、見返りなしに何かを贈与しなければならないというのが、各参加者にとっての先験的条件である。市場交換が発生するには、基本的な象徴的協定に参加し、基礎的な信頼を表示する主体でなければならない。

 もちろん、市場は騙し嘘をつく利己主義者の領域である。しかしながら、ジャック・ラカンが我々に教えたように、嘘を機能させるためには、真実として自らを提示し、そう受け取られる必要がある。それにより、真実の次元は既に確立されたと言うために。

 カントが見逃したのは、成文化されておらず、否認されているが、全ての法体系もしくは社会的規則を成り立たせるために必要不可欠な規則である。そのような規則のみが、法が成立し正常に機能するような「実質」を提供するのである。そのような成文化されていない規則の効用の模範的な例は、名高き「ポトラッチ」である。

 市場交換においては、交換という行為が社会的絆とならず、その後で直ちに孤独な状態に戻ることができるアトム化された個人間の一時的な交換となるように、二つの相補的な行為が同時に起きる(私は払い、払ったものを得る)。

 ポトラッチにおいては、その反対に、私からの贈り物の贈与と他人の側からの返礼の間の時の経過が、持続する社会的つながりを生み出す(少なくともしばらくの間は)。負債という絆によって我々全ては結ばれているというわけだ。この見地からすると、貨幣は、適切な関係を結ぶことなく他人と交わることを我々に可能にする手段として定義できる。

 適切な関係を結ぶことなく他人と交わることができるこのアトム化された社会が、リベラリズムの前提条件である。国家を組織するという問題は、それ故「悪魔の民族にとってすら」解決できないのである。カントが表明したように、このイデアは、リベラルのユートピアの鍵となるモメントであると言える。

 このカントの「悪魔の民族」への言及は、彼の倫理的思考の別の側面に結びつけられるべきである。カントによれば、人が海に一人で漂う自分を見出した時、沈んだ船の別の遭難者の近くに一人だけを浮かばせることができる木の破片があれば、道徳的な考慮は最早有効でない。そこには、死との戦いにおいて他の遭難者と流木を巡って争う行為を妨げる道徳律は存在しない。私は道徳的免責ともにその争いに従うことができる。

 そこにおいて、おそらく人は、カントの倫理学の限界に遭遇することになる。他人に生き延びる機会を与えるために、進んで自らを犠牲にする人はどうなのか?さらに非病理学的理由のために進んでそうする人はどうなのか?そうしたために私を責める道徳律が存在しないのならば、そのような行為には倫理的な資格がないことを意味するのだろうか?

 この奇妙な例外は、冷酷な利己主義――個人的な生存と私利への配慮――が、カントの倫理学の暗黙の「病理学的な」前提条件であることを証明するものでないだろうか?すなわち、我々が暗黙のうちに冷酷な功利主義的利己主義者として、人間の「病理学的な」イメージを前提とする時にのみ、カントの倫理的体系は自らを保持することができるということを証明するのではないだろうか?

 まさしく同じ意味において、カントの政治体系――彼の理想的な法的力の観念――は、我々が暗黙のうちに「悪魔の民族」としてこの力の主体の「病理学的な」イメージを前提とする時にのみ、自らを保持することができる。

 カントによれば、既に述べたように、社会的平和をもたらすメカニズムは、個人の意志にも彼らの美点にも依存しない。「永遠平和の保証人は、かの偉大なる芸術家である自然(諸物の巧みな作り手である自然 natura daedala rerum)に他ならない。そのメカニカルな進行において、我々は自然の目的が、人間の意志に逆らいつつも人間の不和を通して、人間の間に調和を生み出すことにあることを知るのである」。

 そしてこれこそが最も純粋なイデオロギーである。人は、リベラルな宇宙においてのみ、イデオロギーの観念は可能になると主張することができる。意味の世界――(当然にも現代的な見地からすれば)事実と価値観を混同した――にどっぷりと浸かった普通の人々と、道徳的な偏見なしに、(情念の)法によって定められたメカニズムとして、ありのままの世界を知覚することができる冷淡で理性的な観察者の間の区別をつけることによって。

 このモダンな宇宙においてのみ、社会は可能性の実験の対象として、没価値的な理論もくしはあらかじめ与えられた科学――政治的な「情念の幾何学」であれ、経済であれ、レイシストの科学であれ――を適用できる(そしてそうすべきである)カオス的な領域として現れる。

 自然科学者が自然に接するのと同じやり方で、没価値的な科学者が社会に接することができる、このモダンな立場のみが、厳密な意味でのイデオロギーであり、迷信的な偏見として科学者によって退けられている人生の有意義な経験についての自発的な態度ではない。それはまさしくイデオロギーである。なぜなら実際にそうであることなしに、自然科学の形態を模倣しているのだから。



訳者コメント:
 ぎょっとするような題名かもしれないが「悪魔の民族」という言葉は、カントの『永遠平和のために』の第一補説より。内容にも驚く人がいるかもしれないが、ここでジジェクがやっていることは、リベラリズムがグローバルに共有された価値観であることを前提として、その経済的政治的な両義性を分析するというもので、正しくリベラリズムの批判(否定ではなく)だろう。カントが自然は各民族を分散させ、互いの防衛と交易を通して平和状態を確立させると言っていることを思えば、牽強付会とは言えないと思う。

 本文中にあるカントから引用部分は岩波文庫の『永遠平和のために』(宇都宮芳明訳)と、光文社古典新訳文庫『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(中山元訳)を参照しつつ英語原文に添って訳した。この文章は語彙の点においても、その抽象的な内容の点においてもずいぶん大変な翻訳で、通常の二倍は時間がかかってしまった。それでも至らない点があると思うが、もし指摘していただけたら嬉しいことこの上ない。なお、原文中にあるリンクは全てそのままとした。

 ところで、このブログではナオミ・クラインとスラヴォイ・ジジェクという対局にあるように見える存在を翻訳しているのだが、ジジェクが『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』でナオミ・クラインに触れ、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』において人権のみにこだわり経済を取り扱わないことの限界を指摘していることを思えば、両者は無関係ではないと思っている。
 


by BeneVerba | 2011-11-30 20:22 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)