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占拠運動が次になすべきことは?
Noam Chomsky: What next for Occupy?
Noam Chomsky interviewed by Mikal Kamil and Ian Escuela
2012年04月30日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://chomsky.info/interviews/20120530.htm


Q:チョムスキー教授、占拠運動は第二段階を迎えています。私たちの三つの主な目標は、1) 主流派を占拠して、テントから大衆の意識へと移行すること、2) 九九%の集会の自由と言論の自由を守り、暴力的な攻撃を避けて、運動を弾圧から守ること、そして、3) 企業の法人格を終わらせることです。これら三つの目標は、重なりつつ相互に関係しています。

 私たちがお訊きしたいのは、主流派による情報選別、人権に対する弾圧、カネと企業の役割に対するあなたの意見です。なぜなら、それらは占拠運動とアメリカの未来に関連しているからです。


A:占拠運動に関する報道は、混乱しています。当初それは拒否的で、まるでお遊びをしている馬鹿な子どもたちであるかのように、参加者たちを笑いものにするものでした。しかし、その後報道姿勢は変化しました。実際に、占拠運動のもっとも顕著でめざましい成功の一つは、多くの問題に関して議論の全体的枠組みを全く変えたことです。知られているはずなのに、余白に追いやられ、隠されていた事柄が、今では前面へと出てきました。実際に人口の一%という少数に、富が集中したことを原因とする、九九%と一%のイメージ、過去三〇年間で格差が劇的に拡大した事実などです。

 多数派にとって、実質収入は相当に停滞したものであるか、時には減少しています。給付金もまた減少しており、労働時間は長くなっています。第三世界的な窮状ではありませんが、豊かな社会、世界でもっとも豊かな国家に、ふさわしい状態でもありません。実際、人々が見て取れるように、多くの富がそこら中にあるのですが、ただ私たちのポケットにはないのです。

 これらの問題の全てが、今では前面化しています。今では、ほとんど標準的な議論の枠組みとなったと言っても、過言ではありません。占拠運動の用語法さえ、受け入れられています。これは大きな移行です。

 この月の初め頃、ピュー基金が、人々が、アメリカの生活において、何がもっとも大きな緊張と衝突の源だと考えているかを調査する、例年行われている世論調査の一つを発表しました。これまでで初めて、収入格差に対する関心がトップに躍り出ました。この調査は収入格差そのものを測定するものではなく、この問題に関する一般大衆の認知、受容、理解の程度が上昇したことを示すものです。これは占拠運動の貢献によるものです。現代生活における著しく重要な事実を議題に乗せて、個人的な経験からはこの事実を知らないかもしれない人々が、自分たちが一人ではなく、みんながそうだということを示したのです。実際に、アメリカはこの問題に関心を寄せる傾向にあります。史上前例がないほどに、格差が拡大しています。この報告の言葉によればこうです。「『ウォール街を占拠せよ』運動は、もはやウォール街を占拠していない。しかし、階級対立の問題が、全国的な意識のますます大きな割合を占めるようになっている。二〇四八人の成人を対象とした、ピュー調査センターの新しい調査によると、一般大衆の三分の二(六六%)が、富裕層と貧困層に、「非常に強い」もしくは「強い」対立があると考えている。これは二〇〇九年に比べて一九%の増加である」。

 一方で、占拠運動自体に関する報道は、多様なものです。いくつかのメディアにおいて――例えば経済誌の一部で――は、時々それなりに同調的な報道がなされています。もちろん、一般的な図式としては、「やつらはなんで家に帰って、私たちが仕事に取りかかれるようにしないんだ?」「政治的プログラムはどこだ?」「どうやって彼らは、どういう風に物事を変えるかという主流派の枠組みに合わせるのか?」などといったものですが。

 それから弾圧がやって来ましたが、これはもちろん不可避なものでした。これが全国的に協調した動きであることは明白です。それらのいくつかは暴力的で、その他はそれ程でもありませんでしたが、対立は続いています。いくつかの占拠地は、事実上排除されました。別の場所では、異なる形態で巻き返しています。それらのいくつかは報道されました。ペッパー・スプレーの使用などです。ですが、ほとんどは、またもや、ただの「なんでやつらは立ち去って、私たちを放っておかないんだ」といったものです。それは予想通りです。

 それらにどう対応するかという問題、それへの主要な取り組みは、あなた方が指摘した点の一つです。すなわち、比喩的な意味で、占拠の全面化へと至ることです。人口のより幅広い層を参入させることです。占拠運動の目的と目標に対して、大きな共感があります。それらは実際世論調査にもはっきりと現れています。しかし、人々を参加させるには、大きな努力が必要です。それには人々の生活の一部となることです。人々が自分にも何かができると思える何かになることです。ですから、人々が実際に生活している場へと出かけていくことが必要です。それはメッセージを送るという意味ではなく、もし可能ならば、そして難しいことでしょうが、この運動が真に達成したものの一つであるにもかかわらず、メディアでは充分に議論されていない――少なくとも、私は見たことがありません――ものを、広めるとともに、深化させようとすることです。それは、この運動の主要な達成の一つである、共同体を作ろうとする試みのことです。相互扶助、民主的な交流、お互いへの配慮などに基づいた、実際に機能する共同体です。これは非常に意義のあることです。特に私たちの社会のような、人々が孤立しがちで、近隣社会が壊れ、共同体が壊れ、人々が孤独に陥っている社会ではそうです。

 それを植え付けるためには、多大な努力を必要とするあるイデオロギーがあります。あまりにも非人間的であるために、人々の意識に注入するのが困難なイデオロギーです。それは、自分のことだけを気にかけて、他のあらゆる人々のことは忘れてしまえというイデオロギーです。その極端な例は、アイン・ランドです。実際のところ、文字通り一五〇年間に渡って、こうした思考法を人々に強制するための努力が行われてきたのです。

 一九世紀中葉、産業革命の初期に、東部マサチューセッツで、労働者の運営による非常に活動的な新聞が出現しました。工場で働く若い女性や、製作所の熟練工などによってです。彼ら自身が所有する新聞は、非常に興味深いもので、広く読まれるとともに、大きな支持がありました。そして、彼らは、産業システムが彼らから自由を取り上げ、硬直した階層的な構造を課していることを、辛辣に非難しました。彼らの主な苦情の一つは、彼らが「時代の新しい精神:利益以外の全てを忘れて、富を追求すること」と呼ぶものでした。一五〇年間にわたり、この「時代の新しい精神」を人々に強制するための尽力がなされてきたのです。しかし、それがあまりにも非人間的であるために、多くの反乱が起きました。そして、それは今も継続中なのです。

 私が思うに、占拠運動が真に達成したものの一つは、非常に目立つやり方で、この「時代の新しい精神」への拒否を発現させたことです。占拠運動に参加している人々は、自分たちのために参加しているのではありません。お互いのために、より幅広い社会のために、未来の世代のために参加しているのです。結束とつながりが形成されつつあり、もし、それらを維持することができ、より広い共同体に発展させることができるなら、時に暴力的な形を取るであろう不可避の弾圧に対して、真の防衛となることでしょう。


Q:それらに携わるには、占拠運動はどうするのが最善だと、どのような手法を採用すべきだとお考えですか?また、運動の拠点を分散化するために、実際の場所を持つことに、慎重であるべきだと思いますか?


A:公共の場所でもそうでなくとも、実際の場所を持つことは、確かに意味のあることです。それらがどの程度そうであるべきなのかは、状況の詳細な検討、支持の度合い、反対の度合いに基づいてなされるべき一種の戦術的な判断です。異なる場所で異なる判断が必要でしょう。私には、一般的な言明はわかりません。

 方法に関して言えば、この国の人々は問題と懸念を抱えており、それらの問題と懸念が、彼らを支持し、彼らから支持される人々による、より広い運動の一部だと感じるようになれば、そう、それは軌道に乗るでしょう。それをするのに、唯一の方法があるわけではありません。一つの答えはないのです。

 おそらくは近所を訪ねて、人々の懸念が何であるかを、知らなければならないでしょう。それは、子どもたちが学校へ行く途中で渡る交差点に、信号機が欲しいといった単純な問題かもしれませんし、差し押さえで人々が家から放り出されるのを、防ぎたいといったことかもしれません。

 もしくは、共同体を基盤とする企業を発展させることかもしれません。それは全く考えられないことではありません。どこか遠くの多国籍企業と銀行家からなる取締役会が、生産拠点をどこかに移すのを防ぐことのできる、労働者と地域社会が所有し管理する企業です。それらはいつでも起きている本物の、生きた問題です。そして、可能なことなのです。実際、散発的なやり方でそうしたことは起きています。

 警察の暴力や市政の腐敗といった、その他の全てに対処することも可能です。メディアを共同体に根ざしたものに再構築することも、全く可能です。人々が、共同体、エスニック、労働者などの集団に基盤を置いたメディアを持つことは可能なことです。それらの全てはなすことができます。そうしたことは、人々の労働を必要とし、人々を結びつけることができます。

 実際に、私は様々な場所で、その後追求されるべきモデルとなれる、そうした事例がなされるのを目撃しました。一つ例を挙げましょう。私は、数年前にブラジルに行き、ルラ元大統領と時間を過ごす機会がありました。といっても、当時は、彼が大統領に選ばれる以前のことです。彼は、労働問題の活動家でした。私たちは、あちこちを訪ねました。ある日、彼は私をリオの郊外へと連れ出しました。ブラジルの郊外は、もっとも貧しい人々が住む地域です。

 そこは亜熱帯気候で、その晩ルラは、多くの人たちが広場に集まっているところに、私を案内しました。午後九時頃、ゴールデン・アワーの時間です、メディアの専門家からなる少数の集団が、街からやって来て、広場の中央にトラックを設営しました。そのトラックは上にTV画面が載せてあり、その地域の人々によって演じられる寸劇や芝居を、それが映し出しました。そのうちのいくつかはただ楽しみのためのものでしたが、その他のものは、負債やエイズといった深刻な問題を取り扱っていました。広場に人々が集まるにつれ、役者たちがマイクを持って歩き回り、人々に映し出された劇へのコメントを求めました。それらは録画され、他の人々が見られるように、画面に映し出されました。

 近くの小さなバーに座っていた人々や、通りを歩いていた人々が反応し始め、それらの人々の間で、すぐに極めて深刻な問題、彼らの生活の一部である問題に関する、興味深い交流と議論が起こりました。

 もしそうしたことが貧しいブラジルのスラムで可能ならば、間違いなくその他の多くの場所でも可能です。私は、まさにそれをやるべきだと言っているのではありませんが、そうしたことが幅広い層を参入させ、人々に対して、ふさわしい需要が何であれ、共同体の形成と深刻なプログラムの発展に加わっているのだと、感じる理由を与えるために可能なことなのです。

 非常に簡単な事柄から、労働者と共同体が運営する企業による新しい社会的経済的システムを始めることまで、あらゆることが可能です。より積極的な大衆からの支持があれば、弾圧と暴力に対してより望ましい防衛が可能になります。


Q:占拠運動を利用することに関して、民主党の目標をどのように評価なさいますか?また、私たちが、用心し、気を付けなければならないことはなんでしょうか?


A:共和党について言えば、何年も前に、政党のふりをすることさえ放棄しています。彼らが打ち込んでいるのは、画一的かつ相当な熱意で、ごく少数の権力と利益に奉仕することであり、もはや政党であるとはほとんど言えません。彼らには、まるで古い時代の共産党のカリカチュアのような、想定問答集があります。彼らは、有権者から一票を獲得するために何かをしなければならないのですが、もちろんそれを――このイメージを用いるならば――一%から得ることはできません。なので、彼らは、いつでも存在しているが、政治的にはまとまっていない人口の各層を結集しようとします。キリスト教の宗教的熱狂主義、権利と国家が奪われているとする排外主義などを利用してです。

 民主党は、少しだけ共和党と異なっており、異なる有権者を抱えていますが、彼らも共和党と全く同じ道をたどっています。実質的に党を運営している今日の民主党中道派は、全く一世代前の共和党穏健派であり、彼らが今現在ある種の民主党主流派なのです。彼らは、自分たちの利益に基づいて、有権者をまとめ上げ、結集しようと――この表現がお望みなら、利用しようと――するでしょう。彼らは、全く白人労働者階級を見捨ててしまいました。それははっきりと見て取れます。なので、それらの人々は、かろうじて民主党の抱える選挙民の一部であるだけです。これは悲しい発展です。民主党は、ヒスパニック、黒人、進歩派を結集しようとするでしょうし、占拠運動にも手を伸ばすでしょう。

 組織化された労働者たちは、依然として民主党の選挙民であり、他の全ての集団と全く同様に、民主党は彼らを利用しようとするでしょう。政治的リーダーシップは、人々の頭を撫でてこう言うのです。「私は、あなた方のために働く。だから、私のために投票してほしい」と。占拠運動の参加者たちが理解しなければならないのは、彼らはあなた方のために何かするかもしれませんが、それは選ばれたリーダーシップに対して、何かをするように実質的な圧力を維持できた場合に限るということです。しかし、ごくまれな例外を除けば、彼らが独力でそれをすることはありません。

 カネと政治に関する限り、偉大なる金融家マーク・ハンナの言葉を打ち負かすのは困難です。約一世紀前、彼は政治において何が重要かを訪ねられ、こう答えたのです。「一番はカネだ。二番目もカネだ。三番目が何かは忘れた」。

 それは一世紀前のことですが、現在ではさらに極端になっています。集中化した富は、当然にも、その富と権力を、可能な限り政治システムを乗っ取り、運営し、望み通りのことをやらせるのに使うでしょう。一般大衆は、それに抗う方法を見つけなければなりません。

 数世紀前に、デイヴィッド・ヒュームのような政治理論家たちは、政府の基礎付けの一つとして、権力は統治する者ではなく、統治される者の手にあることを正確に指摘しました。これはまさしく封建社会、軍事国家、議会制民主主義にとって真実でした。権力は、統治される者の手にあるのです。支配者がそれに打ち勝つには、世論と意見をコントロールすることによってのみ可能です。

 一八世紀中葉において、ヒュームは正しかった。そして、彼の言ったことは、現在でも真実であり続けています。権力は、全民衆の手にあるのです。現在では、より少ない人々が、それをコントロールしようとする多大な努力があります。なぜなら、多くの権利が勝ち取られて来たからです。現在の方法は、プロパガンダであり、消費主義であり、エスニックな憎悪をかき立てることであり、あらゆる方法が採用されています。もちろん、それは今後も続くでしょうし、私たちはそれに抵抗する術を見つけるべきです。

 その人物があなたの望むことをやる限り、特定の立候補者に仮初めの支持を与えることは、何も間違ったことではありません。しかし、もし多大な努力なしに彼らをリコールできれば、より民主的な社会となるでしょう。他にも立候補者に圧力をかける方法はあるでしょう。そうしたことをやるのと、利用されること、誰か他の人物の利益に仕えるために結集されることの間には、細い一線があります。しかし、それらはなされるべき不断の判断と選択によるのです。



訳者コメント:
 例外はあるだろうが、論理的な人の文章ほど、読みやすく訳しやすいと思っている。実際、英文記事より、(それほど読むわけではないが)学者の書いた本の方がわかり易かったりする。その点チョムスキーの文章は、その多くが彼のスピーチに基づいているせいもあるだろうが、把握し易い。

 このインタビューは、今年4月末日に発表されたもので、彼の著書『オキュパイ』にも収録されており、そこからの抜粋であるとのこと。興味深く読んだのは、後半三分の一ほどで、共和党も民主党も政党としての(つまり有権者を代表するという)役割を放棄したと語る部分だ。

 たまたま、チョムスキーの『現代世界で起こったこと』を再読する機会があったが、そこで彼がレーガン元大統領について述べているのは、いかにアメリカ大統領が、実際の権力者たち(資本あるいは企業と言ってもいい)の傀儡と化したかということだった。彼によれば、こうした事態はアメリカ史上初めてのことではないかと言う。

 もちろんこれは、その後登場したブッシュ・ジュニアについて、はるかに良く当てはまる。現在の日本では、こうした例は、橋下大阪市長や野田首相に見られる。それ程注意深い観察者でなくとも、彼らに政治的信念がなく、実際の権力のエージェントとして機能していることが、見て取れるだろう。新自由主義とは、おそらく政治的には民主主義の限りなき空洞化である。

by BeneVerba | 2012-06-07 20:41 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
プルトノミーとプレカリアート/凋落するアメリカ経済の歴史について
Plutonomy and the Precariat: On the History of the U.S. Economy in Decline
2012年05月08日 - ノーム・チョムスキー
原文:
http://www.tomdispatch.com/archive/175539/
http://www.huffingtonpost.com/noam-chomsky/plutonomy-and-the-precari_b_1499246.html


 占拠運動は、極めてエキサイトな発展を成し遂げた。実際のところ、これには前例がない。私に思いつく限り、これに似たものはこれまでに存在しない。この運動が確立した結束とつながりを、この先の長く暗い時代にも持ち耐えることができるのなら――なぜなら、勝利はすぐにはやって来ないのだから――ば、それはアメリカの歴史における重大な瞬間となるだろう。

 占拠運動が前例のないものであるという事実は、非常にもっともなことである。結局、現在は前例のない時代であり、アメリカの歴史に大きな転換を記した一九七〇年代以来そうだからである。建国以来数世紀の間、常にうまいやり方ではなかったにしろ、社会はずっと発展してきた。それとは別の話だが、一般的な進歩は、富、工業化、発展、そして希望に向かっていた。この先もこのようであるだろうという、相当に一貫した見込みがあった。非常に暗い時代でさえもそうだった。

 私は大恐慌を覚えているほどの年齢に当たる。一九三〇年代の最初の数年間――客観的に見て、当時の状況は、今日のそれよりもはるかに過酷なものだったのだが――の後でさえ、人々の精神は全く異なるものだった。「これから抜け出してやる」という感覚が、私の親類たちも含め、失業者たちの中にあった。「やがて良くなるだろう」という感覚が。

 戦闘的な労働組合――特にCIO(産業別労働組合会議)傘下の団体――による、組織化が進行していた。座り込みストライキをして、実業界を恐れさせるところまで――当時の業界紙を見ればわかる――行っていた。なぜなら座り込みストは、工場を乗っ取り、自分たちで運営するのに後一歩だからだ。ついでに言えば、労働者による奪取というアイディアは、現在特に課題となっているものであり、私たちはそれを覚えておくように努めよう。また、民衆からの圧力の結果として、ニューディール立法が出現し始めていた。困難な時代にもかかわらず、どこかしら「私たちは、これから抜け出してみせる」という感覚があった。

 現在では全く様子が違っている。アメリカの多くの人々にあるのは、広く浸透した希望のなさの感覚であり、時には絶望の感覚である。私が思うに、これはアメリカの歴史において極めて新奇な事態であり、そしてそれには客観的基礎がある。


労働者階級について

 一九三〇年代には、失業した労働者階級の人々は、やがて仕事が戻ってくると見込むことができた。しかし今は、あなたが製造業の労働者――現在の失業率はおよそ大恐慌のそれなのだが――で、現在の傾向が続くのなら、それらの仕事は戻ってこない。

 変化が起きたのは、一九七〇年代である。それには多くの理由がある。主に経済歴史学者ロバート・ブレナーが論じているのは、その基礎となる要因の一つとして、製造業における利潤率の低下があるということだ。その他にも要因はあった。そして、それは経済における大きな変化を導いた。工業化と発展へ向かう進歩の数百年からの反転であり、脱工業化と脱発展のプロセスへの転換だった。もちろん製造業の生産は海外で続き、大きな利益を上げているが、労働力にとっては良いことではない。

 それとともに、生産的な事業――人々が必要とするか使用する物の生産――から、金融的な操作へと、経済の顕著な転換がなされた。経済の金融化こそ、この時代に起きたことである。


銀行について

 一九七〇年代以前には、銀行は銀行だった。それらは国家資本主義経済の中で、期待された役割を果たしていた。銀行口座の未使用の資金を使って、例えば、家族が家を購入するとか、子どもを大学に入れるとかを支援して、潜在的に有益な目的に振り向けていた。それが劇的に変わったのは、一九七〇年代だ。大恐慌以来、それまでに金融危機はずっと存在しなかった。一九五〇年代と一九六〇年代は、アメリカの歴史において、そしておそらくは経済史においても最高に、巨大な成長の時代だった。

 それに平等主義でもあった。最下層の二〇%と最上層の二〇%が、同様にやっていた。多くの人々が理に適った生活様式――この国で「中産階級」と呼ばれ、他国では「労働者階級」と呼ばれるもの――を送るようになったが、それは本物だった。一九六〇年代には、それが加速した。かなり憂鬱な一〇年間の後、これらの年代のアクティヴィズムは、恒久的な様々なやり方で、この国を真に文明化した。

 一九七〇年代になると、突然で急激な変化が訪れた。脱工業化、生産の海外移転、そして巨大に成長した金融機関への移行。また、言わなければならないのは、一九五〇年代と一九六〇年代には、数十年後にハイテク経済となるものが発展したということだ。コンピューター、インターネット、IT革命は、実質的に国有部門で発展した。

 一九七〇年代に起きた発展が、悪循環の原因となった。それは金融部門にますます富を集中させた。これは経済に益するものではない――どころか、おそらくは経済と社会を傷付けるものだ――が、途方もない富の集中を導いた。


政治と金

 富の集中は、政治権力の集中をもたらす。そして、政治権力の集中は、この循環を増大させ加速させる立法をもたらす。立法――本質的には二大政党が一致する分野――は、企業統治と規制撤廃の諸規則だけでなく、新しい財政政策と税制の変化をもたらす。とともに、それは選挙費用の急激な増加をもたらし、政党は企業部門のポケットに、さらに深く手を突っ込むことになる。

 多くの意味において、政党は解散した。かつては、国会にいる人物が、委員会の委員長のような地位を望むのなら、彼または彼女は、主に年功序列と功績によってそれを得た。主にトム・ファーガソンが研究したテーマによれば、数年の後には、昇進のためには、党の資金につぎ込まなければならなくなった。それは、全システムを、さらに深く企業部門(特に金融部門)のポケットに突っ込ませた。

 この循環は、主に人口の一%のトップ一〇分の一に、途方もない富の集中を生みだした。一方それは、不況、もしくは人口の多数派にとっては凋落の時代を開始した。より長い労働時間、高率の負債、近年の住宅バブルのような資産インフレーションへの依存といった、不自然な手段によって、何とか人々は生活していた。アメリカにおけるそれらの労働時間は、すぐに、日本や様々なヨーロッパの地域といった、他の先進国のそれよりも高くなった。つまり、多数派にとって不況と凋落の時代がある一方で、急激な富の集中の時代があった。政治システムは、溶解し始めた。

 政策と民意の間には常にずれがあったが、それは天文学的にかけ離れたものになった。実際、それは今すぐに見ることができる。ワシントンの誰もが注目している大きな問題は何だろうか。それは赤字である。大衆にとって、正しく、赤字は大きな問題とみなされていない。そして、実際にそれは大きな問題ではない。問題なのは失業である。赤字に対処する委員会はあるが、失業に対処する委員会はない。赤字に関する限り、大衆は意見を持っている。世論調査を見てみればいい。人々は、圧倒的に富裕層へのより高い課税を支持している。富裕層の税率は、不況と凋落、そして限られた社会的利益の保護の時代に急速に低下した。

 赤字委員会の結果は、おそらくその正反対となるだろう。占拠運動は、この国の心臓に突き付けられた短剣に等しいものを、回避しようとするための大衆的基盤を提供できるかもしれない。


プルトノミーとプレカリアート

 人口の大半――占拠運動が「九九%」とイメージする人々――にとって、状況はこれまで過酷なものだったが、更に悪化することもあり得る。反転不可能な凋落の時代となるかもしれない。一方、「一%」あるいはそれ以下の人々にとっては、何の問題もない。彼らはこれまでになく富んでおり、これまでにない力を手にしており、政治システムをコントロールし、大衆を無視している。彼らが関係している限り、それが続くことができるのならば、もちろん、そうしない手はない。

 例として、シティグループを挙げてみよう。数十年の間、シティグループはもっとも腐敗した主要な投資銀行だった。レーガン時代に始まって、今に至るまで繰り返し納税者から救済措置を受けてきた。その腐敗についてはここでは繰り返さないが、極めて驚くべきものである。

 二〇〇五年に、シティグループは、投資家に対して「プルトノミー:贅沢を買う、グローバルな不均衡の説明」というパンフレットを公表した。それは、投資家たちに「プルトノミー・インデックス」に、お金をつぎ込むように促すものだった。パンフレットによれば、「世界は二つのブロックに分かれつつあります。プルトノミーと残りです」。

 プルトノミーとは、高級品などを購入する富裕層を指し、そこにこそ本物の活動があるのだった。彼らはプルトノミー・インデックスが、株式市場よりはるかに効率が良いと主張した。残りはといえば、実際に社会を構成するものではなかった。彼らのことなどどうでもいいし、我々には必要ではない。我々が問題に巻き込まれた時に、我々を保護し救済する、強力な国家を提供するために、彼らの存在は必要だが、それ以上のことでは、彼らは本質的に何の機能も果たさない。最近では、それらの人々は、時に「プレカリアート」と呼ばれている。社会の周縁で、不安定な実存を生きる人々のことだ。ただし、それはもはや周縁ではない。それは実際、アメリカやその他のどこでも、社会の実質的な部分となりつつある。そして、それは良いことだと考えられている。

 例えば、FRBのアラン・グリーンスパン議長は、経済の専門家たちからもっとも偉大なエコノミストの一人と称えられ、未だ「聖アラン」でいられた当時(彼に実質的な責任がある金融崩壊以前のことだ)、クリントン時代の国会に対して証言し、自らが監督していた偉大な経済の不思議について説明した。彼は、その成功の大部分が、実質的に彼が「増加する労働者の不安定性」と呼ぶものに、基盤を置いていると述べた。労働者たちが不安定ならば、また彼らがプレカリアートに属し、不安定な実存を生きているのならば、彼らは要求を出さず、より良い賃金を求めようとはせず、よりましな利益を得ることはできない。必要でなくなったら、彼らは追い出すことができる。技術的に言えば、それが「健全な」経済と呼ばれるものだ。そして、彼はこの発言のために非常に賞賛され、大きな評価を受けた。

 そして、世界は今プルトノミーとプレカリアートに分裂しようとしている。占拠運動がイメージするように、一%と九九%に。これは実際の数字ではないが、正しく状況を描き出している。今では、プルトノミーこそ実際の活動がある場所であり、今後もそのように続くかもしれない。

 そうであるならば、一九七〇年代に始まった歴史的な転換は、反転不能なものとなる。私たちが向かっているのは、そこである。そして占拠運動は、これを回避するかもしれない、最初で、本物の、主要な、民衆による反応である。だが、長く困難な闘いになるという事実に、目を向けることが必要になるだろう。明日に、勝利を勝ち取ることはできない。維持することができ、困難な時代に耐えることができ、大きな勝利を勝ち取ることのできる構造を形成しなければならない。そして、なすことのできることは数多くある。


労働者による奪取に向けて

 先に述べたように、一九三〇年代にもっとも効果的な行動の一つは、座り込みストライキだった。そして、その理由は単純である。それが産業の奪取にあと一歩だからだ。

 一九七〇年代を通して、凋落がやって来るにつれ、いくつかの重要な出来事が起こった。一九七七年には、USスチールが、オハイオ州ヤングズタウンにある主な施設の一つを閉鎖することを決めた。従業員たちとコミュニティは、単に歩き去る代わりに、団結して会社からそれを買い取り、労働者に明け渡して、労働者が運営し管理する施設に変えることに決めた。彼らは、勝利することができなかった。だが、充分な支持を得れば、彼らは勝つこともできた。これはガー・アルペロヴィッツと、労働者たちとコミュニティのために弁護士として働いたストートン・リンドから詳しく聞いた話だ。

 彼らが敗北したとしても、部分的には勝利し、その他の努力の引き金となった。現在ではオハイオ中とその他の場所に、数百の、時にはそれほど小さくない、労働者管理に転換可能な労働者/コミュニティ所有の産業がある。そして、それは本物の革命の基礎となるものだ。それはどうやるべきかの見本だ。

 ボストン郊外のある場所で、約一年前に、よく似た何かが起こった。ある多国籍企業が、利益を生み出し、機能しているハイテク製造の施設を閉鎖することを決定した。明らかに、彼らにとっては充分に利益を生むものではなかったのだ。従業員たちと労組は、それを買い、引き取り、自分たちで運営することを申し出た。多国籍企業は、おそらく階級意識的な理由で、そうせず閉鎖することに決めた。思うに、彼らはこうしたことが起きてほしくなかったのだろう。民衆からの充分な支持があれば、関係することのできる占拠運動のような何かがあれば、彼らは成功していたかもしれない。

 他にもこのようなことは起きている。実際、そのうちのいくつかは有名である。そう遠くない昔に、オバマ大統領は自動車産業を引き取り、基本的にそれは市民によって所有されるものになった。なすことができたことは数多くあったが、そのうちの一つは実際になされたものだ。オーナーシップか、よく似たオーナーシップの元に返すことができるようにしておき、伝統的なやり方で続けるというものだ。

 他の可能性は、それを労働者たち――いずれにせよ彼らが所有しているのだ――の手に明け渡し、労働者の所有・管理により、経済の根幹となる主要な産業システムに変え、人々が必要とするものを生産することだった。そして、私たちが必要とするものは、多くある。

 私たちがみな知っているか、知っておくべきであるのは、世界的に見て、アメリカは高速輸送において極めて遅れており、それが深刻な問題だということだ。それは人々の生活だけではなく、経済にも悪影響を与えている。それについては、個人的な話がある。数ヵ月前にフランスで話す機会に恵まれたのだが、南仏のアビニョンから、パリのシャルル・ド・ゴール空港まで列車に乗らなければならなかった。ワシントンDCからボストンまでと同じ距離である。二時間だった。ワシントンからボストンまで列車に乗ると、私と妻がそれに初めて乗った六〇年前と同じ速度で運行しているのだ。これはスキャンダルである。

 ヨーロッパでなされているのと同じように、ここでもなされることが可能なはずだ。彼らにはそれをなす能力――熟練した労働力――があった。民衆からの支持が少しばかり必要かもしれないが、経済に大きな変革をもたらすことが可能だろう。

 事態をより超現実的にしているのは、この選択が避けられている一方で、オバマ政権が運輸省の長官を、アメリカのために高速鉄道を開発するという契約のため、スペインに派遣しているという事実だ。それは、現在操業停止中のラスト・ベルト〔斜陽化した工業地帯〕でなされるべきだったろう。それが起きないことを示す、経済的理由は何もない。階級的な理由ならばあり、それは民衆による政治的結集の欠如を反映したものだ。こうしたことは続くだろう。


気候変動と核兵器

 これまでは国内問題について話してきたが、国際分野では二つの危険な開発が行われている。それらは、これまでに議論してきたこと全てを覆う、影のようなものだ。人類の歴史において初めて、種のまともな(decent)生存に対する本物の脅威がある。

 一つの影は、一九四五年から垂れ込めていたものだ。私たちがそれを逃れることができたのは、ある種の奇跡だ。それは核戦争と核兵器の脅威である。多くは議論されていないが、実際、この脅威は、この政権とその同盟諸国の政策によって、拡大している。そして、それについて何かがなされなければ、私たちは深刻な問題に巻き込まれるだろう。

 もう一つは、もちろん環境的なカタストロフィだ。事実上、世界の全ての国が、それに関して何かをなそうとして、少なくともたどたどしい措置を執っている。アメリカもまた措置を執っているが、それは主に脅威を増大させる方向にである。この国は、環境を守るために建設的な何かをしていない唯一の主要国である。それは列車に乗ろうとしていないどころか、後ろ向きに動かしている。

 これは、巨大なプロパガンダ・システムと関係がある。実業界が誇らしげかつあからさまに宣言しているように、それは気候変動がリベラル派の作り話に過ぎないと、人々に思わせようとしている。「なぜ科学者なんかに注意する必要があるんだ?」というわけだ。

 私たちは本当に、暗黒時代へと逆行している。これは冗談ではない。それが史上もっとも強力で豊かな国で起きているのなら、このカタストロフィは避けられないだろう。一つか二つの世代のうちに、私たちが話している他のことは重要でなくなるだろう。特別かつ持続したやり方で、これについて何かがすぐになされなければならない。

 前進するのは、容易ではない。そこには、障壁、問題、困難、失敗があるだろう。それは不可避だ。だが、ここやその他の地で、そして世界中で持ち上がった昨年の精神が、広がり続けて社会的経済的な世界で主要な力とならない限り、まともな未来を得る可能性はそれほど高くはない。



訳者コメント:
 ハフィントン・ポストとトムディスパッチの両方に投稿されたチョムスキーの論考、それらによれば新著『オキュパイ』からの抜粋とのこと。その元は昨年10月のスピーチらしいので、おそらく「未来を占拠せよ」として翻訳したボストンでの講演だろう。

[同日の変更]
 千葉学氏からの指摘で、「vicious cycle」の訳語を「悪循環」に。単純ミス。その他ニ、三の語の見直し。

by BeneVerba | 2012-05-26 04:20 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
メーデー/『オキュパイ』刊行に寄せて
May Day
2012年05月01日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://www.huffingtonpost.com/noam-chomsky/may-day_1_b_1461852.html

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 世界のどこであれ民衆はメーデーとは何かを知っているようだ。それが始まった地――ここアメリカ――を除けばだが。なぜならば、権力者たちがこの日の本当の意味を消すためなら何でもしてきたからだ。例えば、ロナルド・レーガンは、まるで労働運動に対する余分なナイフの一ひねりのように、「ロウ・デイ(Law Day)」なるものを制定した。愛国主義的ファナティシズムの日である。しかし、今日では、占拠運動によってエネルギーを与えられ、刷新された覚ざめがメーデーの周囲にある。そして、その改革とありうる革命への妥当性もだ。

 もし、あなたが革命のことを本気で考えているのならば、求めているのは専制的な革命ではなく、自由と民主を求めて進む民衆的な革命であるはずだ。多くの人々がそれを実践し、実行し、諸問題を解決した時に、それは起きうる。理解できるように、改革に限界があることを自ら発見しない限り、人々はそのような参与を引き受けはしないだろう。

 思慮深い革命家は、二つの妥当な理由に基づき、改革を限界にまで押しやろうとするだろう。第一には、もちろん改革それ自身に価値がありうるという理由で。人々は一日十二時間働くよりも、八時間働くべきなのだ。それに、概して言えば、我々はまともで倫理的な価値観を踏まえて振る舞うことを望むべきである。

 第二には、戦略的な見地から見て、改革に限界があることを示さなければならないという理由だ。時に、必要とされた改革に、体制側が適応することがあるかもしれない。もしそうであるならば、それは結構なことだ。だが、そうではないのならば、新しい疑問が持ち上がる。おそらくは、その瞬間こそ抵抗が必要とされ、正当な変化に対する障壁を打ち破ろうと踏み出す時なのだ。そして、おそらくは、自己防衛の形態として、権利と正義を防衛するための強硬手段に訴える時がやって来るだろう。そのような手段が自己防衛の形態であると大多数が認識しない限り、人々はそれらに参加しようとしないし、少なく見積もってもすべきではない。

 もし、既存の諸制度が民衆の意志に従おうとしない地点に達したのなら、それらの制度を廃棄しなければならない。

 メーデーはこの場所で始まった。だがそれは、残虐な暴力と司法の懲罰に服従していた、アメリカの労働者を支持する国際的な日となったのだ。

 今日、政治的指導者が定義した「ロウ・デイ」ではなく、民衆によってその意味が決まる日として、メーデーを祝う闘いは続いている。社会全体のより良い未来のために、組織化し労働することに根ざした日として。


訳者コメント:
 この数ヵ月ばかり忙しかったため、久しぶりの翻訳。以前から告知されていたノーム・チョムスキーの占拠運動に関する著作『オキュパイ』がメーデーの今日に刊行され、この文章はそれに合わせて著者がハフィントン・ポストに寄せたもの。刊行元は Zuccotti Park Press

 米アマゾンでは一部を試し読みすることができる。読むと、以前に翻訳を公開した「未来を占拠せよ」(厳密に同文であるかはチェックしていない)が収録されている。他のウェブサイトの紹介文を見ても、これまでに発表された占拠運動についての講演や論考を集めたものであるらしい。

by BeneVerba | 2012-05-01 21:40 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
未来を占拠せよ
Occupy The Future
2011年11月01日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://chomsky.info/articles/20111101.htm


 この記事は、一〇月二十二日の「ボストンを占拠せよ」の占拠地であるデューイ広場におけるノーム・チョムスキーのスピーチを元に改稿したものである。彼は、当地での「ボストンを占拠せよ」自由大学主催によるハワード・ジン記念連続講演の一環としてこの講演を行った。故ハワード・ジンは、歴史家であり、活動家であり、『民衆のアメリカ史』の著者である。


 私にとって、ハワード・ジンに関する講演を行うのは、ほろ苦さの入り交じる経験です。私は、彼がこの場に参加することができず、彼の人生における夢であったであろうこの運動を活気づけることができないことを非常に残念に思います。実際、彼はこれらの運動の基盤の多くを準備したのです。

 もし、これらの出来事において確立された結束と連帯を、この先の長く辛い時期においても維持することができるのならば――とはいえ、勝利はすぐにはやって来ません――、占拠運動はアメリカの歴史において重大な意義を持つものとなるでしょう。

 私はこれまで、この場所で、そして世界中で行われている占拠運動のような規模と性格を持った運動を全く見たことがありません。占拠運動は、この先に待ち受ける障壁と、既に到来しつつある反動を克服するために必要な、永続的組織の基礎となるであろう協同的なコミュニティを創出しようとしている前哨なのです。

 占拠運動は、前例のないものであると共に、時宜に適ったものです。なぜなら、私たちが生きている時代が、今この時だけではなく、一九七〇年代以来前例のないものだからです。

 一九七〇年代は、アメリカ合衆国にとって転換点となる時期でした。建国以来、常に適切なものではなかったとはいえ、この国は産業化と富の増大に対して社会を発展させてきました。

 暗い時代においてさえ、継続する進歩への期待がありました。私は大恐慌の時代を覚えている年齢なのです。客観的に見て現在よりも厳しい状況であった一九三〇年代の中頃においても、その精神は現在と異なるものでした。

 戦闘的な労働組合たち――CIO(Congress of Industrial Organizations)やその他の組織です――が組織され、労働者たちは座り込みストライキを実行していました。工場を自分たちの手に取り戻し、自分たち自身で運営するようになるまで後一歩だったのです。

 民衆からの圧力に急かされて、ニュー・ディール政策が通過しました。圧倒的な人々の意識により不況を乗り切ったのです。

 今では人々の意識は、希望のなさにあり、時には絶望にあります。これは私たちの歴史にとって、極めて新規な事態です。一九三〇年代には、労働者たちは、やがて仕事が戻ってくるだろうと期待することができました。もしあなたが、実際上その失業率が大恐慌のレベルである製造業に携わる労働者ならば、現在の政策が続く限り、仕事は永久に失われたままだと理解していることでしょう。

 アメリカの前途に対する変化は、一九七〇年代から徐々に展開されてきました。数世紀に渡る産業化の過程は反転し、脱産業化へと変わっていったのです。もちろん製造は引き続き行われています。ただし海外で、です。それは利益にとっては良くとも、労働力にとっては有害なのです。

 経済は金融化へと移行を遂げました。金融機関は途方もなく巨大化しています。金融と政策の悪徳的な循環が加速しています。加速度的に、富が金融部門に集中しています。選挙運動費用の増大に直面した政治家たちは、裕福な支援者たちのポケットの中へと飛び込むよう駆り立てられているのです。

 そして、政治家たちはその見返りとして、ウォール街に有利な政策を実施しています。規制撤廃、減税措置、企業の支配に対する規則の緩和などです。これでは腐敗は不可避です。二〇〇八年には、政治家たちはまたしてもウォール街の企業を救いました。おそらはそれらの企業は潰すには大き過ぎ、その指導者たちは投獄するには大き過ぎるのでしょう。

 今日では人口の1%の富裕層の更に一〇分の一のみが、この貪欲とペテンの数十年間において、利益を得ており、万事順調なのです。

 二〇〇五年にシティグループは、――ところで、彼らはいくどとなく政府によって救済措置を受けているのですが――富裕層に更なる成長を遂げるように取り計らいました。この銀行は投資家たちに対し、「プルトノミー・インデックス(Plutonomy Index)」なる代物に資産をつぎ込むよう促すパンフレットを発表したのです。それは富裕な市場における企業の株式に応えるものです。

 「世界は二つのブロックに分割されつつあります。プルトノミーと残りです」。シティグループはそう要約しています。「アメリカ、イギリス、カナダは、富裕層によって経済が支えられている、鍵となるプルトノミー国家です」。

 不安定な実存を強いられて社会の周辺部で生活している、時にプレカリアートと呼ばれる非富裕層にとって、「周辺部」とはアメリカでもどこでも社会の実質的な部分のことです。

 つまり私たちはプルトノミーとプレカリアートに分割されています。占拠運動が理解しているように、1%と99%に。それは実際には正確な数字でなくとも、正しく社会を描き出すものです。

 未来に対する人々の信頼の歴史的な反転は、逆転不可能になりつつある傾向の反映です。占拠運動は、それをダイナミックに変えようとする最初の大規模な民衆的反応です。

 これまでは国内の問題についてお話ししてきました。しかし、国際的な領域における二つの危険な開発が、あらゆる場所に暗い影を投げかけています。

 人類の歴史において初めて、人類という種の生存に対して二つの現実的な脅威が存在しています。一九四五年以来私たち人類は核兵器を保有しています。私たちがそれにより絶滅しなかったのは、奇跡であるかのようです。しかし、オバマ政権とその同盟国はその政策を推し進めるよう推奨しているのです。

 もう一つの脅威は、もちろん環境的な破滅です。実際的には、世界中のあらゆる国家がそれに対する何らかの停止措置を講じなければなりません。しかし、アメリカはそれに逆行する措置を取っているのです。実業界では広く知られたプロパガンダのシステムが、気候変動はリベラルの作り話だと宣言しています。何で科学者連中に注意を向ける必要があるんだ?と。

 もしこの非妥協的態度が、この最も豊かで最も権力を持った国家において続くのならば、破滅は避けられないでしょう。

 規律があり、持続的な何かがなされなければなりません。それもすぐにです。それを進めていくのは簡単なことではありません。いくつもの困難や失敗が私たちを待ち受けているでしょう。それは仕方がないことです。しかし、この場所で、そしてアメリカ中で、世界中で繰り広げられているプロセスが、成長し続け、社会と政治の領域における主流とならない限り、まともな社会を築く機会は暗いままであり続けるでしょう。

 大規模で活発な民衆的基盤なしに、意義のある構想を達成することはできません。国中に出かけていき、人々が占拠運動とは何であるかを理解する助けとなることが絶対に必要です。彼らに何ができるのかを知らせ、何もしなかったら何が起きるのかその結果を知らせるのです。

 そのような民衆的基盤を組織化するということは、アクティヴィズムに教育を関係させるということです。教育とは、人々に何を信じるべきであるのかを説くことではありません。教育とは人々から学び、人々と共に学ぶことなのです。

 カール・マルクスは「問題は世界を理解することではなく、変えることだ」と言いました。これの変換である「もし世界を変えたいのならば、世界を理解しようとしなければならない」という言葉を心に留めておいてください。それは演説に耳を傾け、本を読めということではありません。それらも時には有用ではありますが。あなたたちは運動に参加することで学ぶのです。他人から学ぶのです。あなたたちが組織化したいと望んでいる人々から学ぶのです。理想を形成しそれを実行するために、私たちはみな理解力と経験を増大させる必要があります。

 占拠運動における最も興奮する側面は、あらゆる場所で展開しつつあるつながりを構築するという部分です。それらが拡大され維持されれば、占拠運動は、社会をより人道的な道筋に導くという献身的な努力をもたらすことでしょう。



訳者コメント:
 久しぶりの翻訳。おそらくは読者の方の多くもそうであるように、年末ということで忙しく、訳したい文章、再チェックしたい翻訳はいろいろとあるのだが、なかなかそのための時間が捻出できず申し訳ない。

 最近では、各地の占拠地が強制排除され、占拠運動は収束に向かいつつあるかのような雰囲気が形成されているようだ。が、占拠運動はそのようなものではない。このチョムスキーの文章が示唆するように(そしてまた雨宮処凛さんが『週刊金曜日』に書いていたように)、私たちは革命の時代のとば口にいるのだ。例えばバスティーユ襲撃からパリ・コミューンまでのような長いスパンで捉えることが必要だろう。

 そしてこの文章はまた、革命の発端にいる私たちは何をすべきかを教えるものでもあるのではないだろうか。「未来を占拠せよ」という題名はそういう意味に思われる。ジジェクの「彼らは悪夢へと変わろうとしている夢からの目覚めなのだ」という言葉や、「新しい内容を展開するには、時間が必要なのだ」という言葉を思い出してみてもいいかもしれない。

 あと、一つ気になる点を挙げれば、チョムスキーがここで1970年代という時期にこだわっている点だろうか。「情報化社会」「後期資本主義」など用語は何であれ、この時期に資本主義にある変質が起きたことは私には確かなことに思われる。前述の雨宮処凛さん――いわゆる「ロスジェネ」の旗手とされている――もまさにこの時期の生まれである。

by BeneVerba | 2011-12-21 19:21 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)
「ウォール街を占拠せよ」への連帯メッセージ
Noam Chomsky Announces Solidarity With #occupywallstreet
2011年09月26日 - ノーム・チョムスキー
原文:http://occupywallst.org/article/noam-chomsky-solidarity/


訳文:
 目を見開いているものなら誰でも、ウォール街のギャング行為――金融機関がその主たるものだが――が、アメリカの民衆に(そして世界の民衆に)深刻な被害を与えたことを、理解しているだろう。そしてまた、それがこの三十年間で増加してきたものであることも知っているはずだ。彼らの経済における力がラディカルなまでに増加するにするにつれ、彼らの政治における力もまた同様に増加してきた。それは、人口のごくわずかな部分、分数の1%に膨大な富を集中させ、政治的な力もまた集中させるという邪悪なサイクルを動かしてきた。その一方で、残りの人々はますます時に「プレカリアート(a precariat)」と呼ばれる存在――不安定な(precarious)実存の中でなんとか生き残ろうとしている人々――になっている。そして、彼らはまた、これらの醜い活動を、完全に罪に問われることなく、実行に移している――「潰すには大き過ぎる(too big to fail)」というだけではなく、「投獄するには大き過ぎる(too big to jail)」というわけだ。

 ウォール街で進行中の勇気に溢れ栄誉を称えられるべき抗議者たちは、この災厄に対して公衆の耳目を引く役割を果たしており、それを克服する献身的な努力を牽引する役割を果たしており、社会をより健全な道へと引き戻すだろう。

ノーム・チョムスキー


原文:
Anyone with eyes open knows that the gangsterism of Wall Street -- financial institutions generally -- has caused severe damage to the people of the United States (and the world). And should also know that it has been doing so increasingly for over 30 years, as their power in the economy has radically increased, and with it their political power. That has set in motion a vicious cycle that has concentrated immense wealth, and with it political power, in a tiny sector of the population, a fraction of 1%, while the rest increasingly become what is sometimes called "a precariat" -- seeking to survive in a precarious existence. They also carry out these ugly activities with almost complete impunity -- not only too big to fail, but also "too big to jail."

The courageous and honorable protests underway in Wall Street should serve to bring this calamity to public attention, and to lead to dedicated efforts to overcome it and set the society on a more healthy course.

Noam Chomsky

by BeneVerba | 2011-10-24 10:12 | 翻訳 | Trackback | Comments(0)