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賃金ブルジョワジーの反乱
The Revolt of the Salaried Bourgeoisie
2012/01/18 - スラヴォイ・ジジェク
原文:http://www.lrb.co.uk/v34/n02/slavoj-zizek/the-revolt-of-the-salaried-bourgeoisie

 一体どのようにして、ビル・ゲイツはアメリカでもっとも豊かな人物になりえたのだろうか?彼の富は、マイクロソフト社が、優れたソフトウェアを競争者たちよりも低価格で販売したことに拠るのでもないし、その労働者たちを「搾取」することに成功したせいでもない(マイクロソフトは、その知的労働者たちに相対的には、高い給金を支払っている)。数百万人の人々が今尚依然として、マイクロソフト社製の製品に支払っているのは、マイクロソフトが、ほとんど普遍的な基準として、実質的にはこの業界における市場を独占して、居座っているからであり、そして、マルクスが「一般知性」と呼んだところのものを1つの形で具現化しているからなのだ。一般知性という言葉でマルクスが意味しようとしたのは、科学から実用的なノウハウに至るまでの、あらゆる形態における集団的な知識である。ゲイツは能率的に一般知性の一部を私有化し、借り物を拝借する道を選ぶことで、富者となったのである。

 一般知性の私有化の可能性は、マルクスが彼の資本主義に関する著作の中で、思い描かなかったものに属する(主として、彼がその社会的規則面を見落としたせいで)。しかし、それは今日でも尚、知的所有権を巡る闘争の核であり続けているものである。一般知性の役割が――集団的な知識と社会的な協同と共に――ポスト産業社会の資本主義において増大する一方で、労働者が製造費に支出する以上の、バランスを欠いた途方もない富が蓄積されている。結果、マルクスが予期したであろうこととは異なり、資本主義の自己解体などではなく、労働者の搾取による利益を生み出す機構から、借り物を私有化することで知性におけ私有化へと、漸進的な変容となるだろう。

 天然資源の真相も同様である。それは借り物の中でも世界でもっとも主要な天然資源の搾取である。この借り物を巡って、第三世界の市民たちと西側の企業たちの間に闘争がある。労働者の世界(そこでは余剰価値価値を生み出すための使役が行われている)おり、他の日用品(それらは消費されることで、使用におけるあらゆる価値を使用される)の違いを説明するのはアイロニーである。マルクスは油を「ありふれた」日用品ととして挙げている。今となっては、生産原価における石油の価格ないし費用の上昇と下落を、搾取された労働者に結びつけるのは意味がない。我々が支払う油の価格に比べ、生産原価が本当の意味で借り物であるのは、借り物である資源の価格が、その限りある供給のおかげで、所有者たちに自由に決定することを許しているからなのだ。

 生産力の上昇における集団的知識の飛躍的な増大の衝撃をもたらしたのは、失業の役割の変化である。それはまさしく資本主義の成功(大幅な能率化、上昇した生産力、その他)であり、失業を生み出し、労働者を不要にしているのだ。喜ぶべきことに、辛い労働はより少なくなり、忌むべきものとなっている。もしくは別の言い方で言うのならば、長期の職において搾取される機会は、今や特権として経験されている。フレドリック・ジェイムソンが言ったように、「世界市場は今や、誰もが一度は製造-労働者となる場所であり、誰もが自分を高く売ろうとして締め出される」場所なのだ。今尚継続中の資本主義のグローバリゼーションにおいては、失業という範疇はもはやマルクスの「reserve army of labour」という概念に閉じこめておくことはできない。ジェイムソンが示唆したように、それはまた「これら世界中の莫大な人口は、そのままの状態において『歴史からこぼれ落ちている』。彼らは第1世界の資本主義の近代化プロジェクトから、計画的に排除されており、絶望的で週末的な場合として抹消されている」のである――いわゆる失敗国家(コンゴ、ソマリア)、飢餓や災害の犠牲者、偽の古の「民族的憎悪」に捕らわれた者たち、慈善団体やNGOの対象者、テロとの戦争の標的などである。それ故に失業という範疇は遙かに広大な人々をとらえるべく拡張されねばならない。一時的な失職者、もはや職に就けない者、慢性的な失業者から、ゲットーやスラムの住人(それらの人々はマルクスその人によって「ルンペン・プロレタリアート」として退けられているわけだが)、そして遂にはグローバルな資本主義のプロセスが、まるで古地図の白い領域のように、排除している全ての人々と国家にまで。

 この新しい形態の資本主義は、解放の新しい可能性を提供するという人もいる。いずれにせよ、これがハートとネグリの『マルチチュード』の主要な論点である。それはマルクスをラディカル化しようとし、そして、もし資本主義の首を切り落とせば、社会主義が得られるというわけだ。彼らも気付いていたように、マルクスは歴史的な束縛を受けていた。彼は中央集権化され、機械化され、ヒエラルキーによって組織化された産業労働者が形成される、その結果として中央統制局の以上の何かとして「一般知性」が理解されるだろうと考えていた。今日では「非物質的労働」の増加とともに、革命的な反転が「客観的に可能」となっている。この非物質的労働は2つに極を拡大する。知的労働者(アイディア、文章、コンピューター・プログラムの生産)から、情動に携わる労働者(医者、ベビーシッター、客室乗務員)まで。今日非物質的労働は、マルクスが19世紀の資本主義において、大工業が主導的であると主張したような意味で、主導的な地位にあるのだ。それは数の力に拠ってではなく、鍵となるような象徴的な構造的役割と戯れることによって、その地位を確固たる者にしている。浮かび上がるのは、「コモン」と呼ばれる知識を共有し、新しいコミュニケーションと協働の広大な領域である。非物質的生産物の生産はオブジェクトではなく、あたらしい社会的ないし相互的な関係である。非物質的生産は、生-政治的であり、社会的な生の生産なのだ。

 ハートとネグリはここで、今日の「ポスト・モダン」な資本主義のイデオロギストのプロセスを、物質的な生産から象徴的な生産へ、中央集権的-ヒエラルキー的な論理から自己組織化し多中心方の協働へと描き出している。相違点は、ハートとネグリはマルクスに忠実であることである。彼らは、マルクスが正しかったと証明しようとし、一般知性の興隆は長期的に視て資本主義と相容れないとしている。ポスト・モダン資本主義のイデオロジストは、まさしくこの反対の主張をしようとするだろう。マルクスの理論(および実践は)、と彼らは述べるだろうが、中央集権的国家統制のヒエラルキー的な論理の束縛に留まるものであり、情報革命の社会的は急に耐えられないと言うだろう。その主張には良き経験的な理由があるわけだ。共産主義体制を効果的に崩壊させたのは、彼らの情報革命によって維持された新しい社会的な論理を取り入れる能力の不足だという。彼らはいくつもの中央集権化された大規模な国家計画を策定して、なんとか革命の舵取りをしようとした。パラドックスは、ハートとネグリが資本主義を克服するユニークな機会として祝っているものが、情報革命のイデオロジストたちによって新しい、摩擦のない資本主義の勃興として祝われていることだ。

 ハートとネグリの分析にはいくつかの弱点がある。それは資本主義がいかにして、時代遅れとされた(古典的なマルクスの用語法を用いるなら)生産様式を生き延びてきたのかを理解させるのである。彼らは今日の資本主義が成功裏のうちに(少なくとも短期においては)、一般知性それ自身をも私有化しているかを過小評価している。また同様に、ブルジョワジー以上に、労働者自身が余計なものとなりつつある(一時的な雇用者のみならず、構造的な失業者が構造的にますます増えている)ことを過小評価している。

 もし古い資本主義が理想的には、起業家を(彼のものであれ、借りたものであれ)資金を彼が組織化し運営する生産事業に投資し、そこから利益を得るというモデルを惹き付けてきたのならば、新しい理想的なタイプが今日では鎌首をもたげている。もはや、自分の会社を運営する起業家など必要でなく、銀行(これもまた銀行を所有するのではない支配人たちがいるだけなのだが)が所有する会社を管理する専門的な経営者(もしくはCEOが議長を務める経営委員会)がいれば、もしくは、分散化された投資家たちがいればいい。この新しいタイプの資本主義においては、古いブルジョワジーは非-機能的な存在として描かれ、賃金管理職として再機能されている。この新しいブルジョワジーは賃金の支払いを受け、たとえ会社の一部を所有するとしても、報酬としての株式を保有しているというわけだ(「ボーナス」が彼らの「成功」の証なのだ)。

 この振興ブルジョワジーは未だ剰余価値を着服している。しかしながら「基準外賃金」と呼ばれている(煙に巻かれたような)ある形態で、彼らはプロレタリアートの「最低賃金」よりも支払われているのである(半ば伝説化された形で、グローバルな経済の本当の実例は中国やインドネシアの搾取工場の労働者の賃金だとしばしば指摘されているが)。そしてそれが、自分の状態を自分で決定することのできる、普通のプロレタリアートとの違いである。古典的な意味でのブルジョワジーはそれ故に消えてゆくだろう。資本主義者が賃金労働者として再登場するにつれ、資格を与えられた経営者たちはその能力(そこでは疑似科学的な「査定」が決定的だ。それは二極化をもっともらしくする)のおかげでより多くを稼ぐことだろう。経営者たちだけに限らず、あらゆる種類の専門家たち、行政官、公務員、医者、法律家、ジャーナリスト、知識人、芸術家などの多くの労働者たちもまた基準外賃金を稼いでいる。余剰は2つの形態をとるわけだ。より多くの金(経営者たちなど)、しかしその一方で少ない仕事と多くの余暇(いく人かの知識人たち、しかしより多くの行政官たち)

 どの労働者が基準外賃金を受け取るか決めるのに用いられる査定の手続きは、権力とイデオロギーの恣意的なメカニズムであり、実際の能力には直結していない。基準外賃金の存在は経済的理由ではなく、政治的理由にあるのだ。その目的は、社会的安定性のために「中産階級」を維持することである。社会的なヒエラルキーの恣意性は誤りではない。しかし核心は、査定の恣意性が市場での成功の恣意性と類似している点にあるのだ。

 社会的な空間に余りも多くの不確定性があるからではなく、人が不確定性を除去しようとする時に暴力が爆発するおそれがある。『La marque du sacré』の中で、ジャン=ピエール・デュピュイは、ヒエラルキーを四つの手続き(象徴の装置、dispositifs symboliques)と見なしている。その機能は、上位との関係において恥をかかせないことである。1.ヒエラルキーそれ自身(外部から課せられた命令を私の低い身分の者に経験させることができることが、私本来に備わった独立性である)、2.脱神話化(実力主義的な社会でないことを示すが、社会的闘争の産物であることを示すイデオロギー的な手続き。他の上位者の能力や功績の結果であることを避けることを可能にすること)、3.不確実性(我々の自然的社会的な立場がそれによって決められるくじ引きのようなものに類似するメカニズムと理解できる。幸運な人々なら、優良な遺伝子とともに裕福な家庭に生まれるというわけだ)。4.そして複雑さ(結果を予測できない制御不可能な力。例を挙げるなら、市場の目に見えない手は、私の失敗と隣人の成功を導く者であるかもしれないが、それにもかかわらず私はより働き賢くなろうとする)。見かけと違って、これらのメカニズムはヒエラルキーに挑むものでも脅かすものでもなく、それを口に合うようにするものなのだ。なぜなら「嫉妬による騒乱が引き起こされるのは、他に運もなく反対するアイディアもないからだ」。デュピュイはこの前提から、自らをそう見なす理性的に正しい社会が憤りに対して自由だと考えるのは間違いで、その反対に、そのような社会こそ下位の立場を占める人々の、暴力的な憤りの噴出によって傷付けられたプライドのために、はけぐちを探し求めるべきだ、と結論づける。

 これを今日の中国が直面している行き詰まりに関連づけてみよう。鄧小平の改革の理想的なゴールは、ブルジョワジーのいない資本主義を導入することだった(たとえそれが新しい支配階級をうむとしても)。しかしながら今では、中国の指導者たちは、ブルジョワジーの存在によって可能となった、確固としたヒエラルキーのない資本主義の生み出す、苦渋に満ちた不安定性から逃れる道のりを発見しようとしている。そこでどのような道を中国はとるのだろうか?かつての共産主義者たちは、概してもっとも効率的な資本主義の管理者として現れている。なぜならば、かれらの歴史的階級的なブルジョワジーへの敵対心が、完全に今日のブルジョワジー無き経営支配という資本主義の潮流にぴったりと合うからである。どちらの場合にも、スターリンが昔言ったように、「上役が全てを決定する」のである。(今日の中国とロシアの興味深い違いは、ロシアでは大学教員は奇妙なほど賃金が低いのに比べ、中国では、柔順さを養う目的もあって、かなりの額の基準外賃金が支払われている)

 基準外賃金の概念はまた、以下の「反資本主義」抗議にあらたな光を投げかけている。危機の時代においては耐久生活を求めるあからさまな候補が、賃金ブルジョワジーのレベルを下げることを求める。もしプロレタリアートの仲間入りしたくないのなら、政治的なプロテストは彼らの唯一の頼みの綱なのだ。とはいえ、彼らの抗議は市場の暴力的な論理に向けられるのが通例である。彼らは実際には、次第に腐食しゆく彼らの(政治的に)特権的な経済的地位について抗議しているのだ。

 アイン・ランドは『肩をすくめるアトラス』の中で、ストライキをする「クリエイティブな」資本主義者たちという幻想を描いている。今日のストライキの中にも見つかるねじ曲がった現実だ。それらの多くは基準外賃金を失いたくないという「賃金ブルジョワジー」の恐れに動機づけられているのだ。それらはプロレタリアートの抗議ではなく、プロレタリアートに格下げされようとしていることへのおそれへの抗議なのだ。定職それ自体が特権である今日、一体誰が敢えてストライキしようとするだろうか?(未だ残っている)繊維産業の低賃金労働者などではなく、職の保証を得ているそれらの特権を得た労働者たちである(教師、公共輸送機関の労働者、警察など)。これは学生たちの抗議の性質をも説明するだろう。彼らの主要な動機は、おそらくは、高等教育はもはや終生に渡って基準外賃金を保証しないへのおそれなのだ。

 それと同時に、明らかなのは過去数年に渡る抗議運動の大規模な復活――アラブの春からヨーロッパの西まで、ウォール街を占拠せよから中国まで、スペインからギリシアまで――は、賃金ブルジョワジーの反逆として片付けてはいけないということだ。それぞれの場合でそれぞれの特徴を捉えてみなければならない。イギリスにおける大学改革への学生たちの抗議は、明らかにコンシューマリストの破壊のカーニヴァル、排除された者の真の暴発となった8月の暴動とは違った。人はエジプトの蜂起はいくぶんかは賃金ブルジョワジーの反逆として始まったと主張することができるだろう(そこでは教育を受けた若者たちが見通しのなさに抗議していた)。しかし、これはより大きな1つの抑圧的な体制に抗する1つの側面に過ぎない。その一方で、抗議は本当には、貧しい労働者も農民も集めていない。イスラム教徒の選挙での勝利が、オリジナルの世俗的な抗議の狭い社会的基盤を明らかにするだろう。ギリシアは特別なケースだ。この数十年間で、EUの金融支援策のおかげで新しい賃金ブルジョワジー(とくに過剰に拡張された国家の管理において)が生まれた。そして抗議運動はその多くがそれが終わることに動機づけられているのだ。

 プロレタリアート化された賃金ブルジョワジーの安給料は、その対極にある最高経営幹部と銀行家たちの非合理的なまでに高額な報酬にかなわない(非合理的であるが故に、投資家たちがアメリカで実演して見せたように、それは企業の成功に反比例する傾向を示すのだ)。批判を道徳化しようというこれらの傾向に従うよりも、我々はこれらを徴として読みとるべきである。資本主義体制はもはや、自己制御的な安定性を備えていないのだと。その危機は迫っている。言葉を換えて言えば、手に負えない状態で疾走しているのである。



訳者コメント:
 正月早々風邪をひいてしまった。最近ではほとんど症状は出ていないがその間翻訳作業は滞った。

 さて、ジジェクが1月18日に発表したやや長めの評論である。訳したばかりと言うこともあり読み切れていないが、賃金ブルジョワジーという言葉を軸に、ネグリとハートへの異論、エジプトのタハリール広場やウォール街を占拠せよを初めとする各地の蜂起を絡めつつ、現代資本主義の様相を読み解こうとする試みとして受け取った。

 たいしてジジェクを読んでいないくせに、ここに来て、ジジェクの思考もまた変わりつつあるのかもしれないな、とも思う。とにかく、この文章は、これを中心に様々な糸が引けるような文章ではないかと思う。


2/1の訂正:
 全体的な再チェックはまだだが、flurry さんに示唆をいただき、一部を訂正。また、遅ればせながら、rom_emon さんには、「アイン・ランド」の読みについて指摘をいただいた。両氏に感謝したい。

by BeneVerba | 2012-01-21 22:59 | 動画 | Trackback | Comments(0)