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 基本的人権にも保障されている思想信条の自由を使用しただけで、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょうか?私がやったことと言えば、大月書店からの「反原連批判をやめよ」「日の丸批判をやめよ」という指示に従わなかったことです。その結果、半ば決まりかけていた次の翻訳書をチャラにされました。

 大月書店には、私が祖父を朝鮮半島に持つ、日本国籍の在日朝鮮人であることを伝えていましたし、また、大月書店との契約に先立って、日の丸の持ち込みに代表されるような反原発運動の国民運動を批判してきました。大月書店はその点を踏まえて契約したとみなされて仕方ありません。


 当然ながら、大月書店との契約に当たって、「反原連批判をやめる」「日の丸批判をやめる」などという条項に同意したりもいたしていません。つまりは、私の言論活動は、大月書店との契約とは関係なく、大月書店が私の言論活動に注文を付ける権利はないということです。ましてや、それを餌に「反原連批判をやめないと契約をやらない」などという権利はありません。

 わずか一冊のみ翻訳書を出した人間が、二冊目を断ることは勇気が要ることでした。断ったとして二冊目の依頼が来るかどうかわかりませんから。それに大月書店側がつけこんだと言えることもできると思います。それでも私のルーツと思想信条はかけがえないのものです。比較にすべきものとは思えませんでした。

 思想信条の自由と、エスニシティとは、人権の中でもかけがえないもののはずです。大月書店は私へのメールの中で「伝統的左翼出版社」と言ってきたのですが、その一番大切なものを踏みにじるこの会社が「伝統的左翼出版社」と言えるでしょうか?

 また、大月書店による人権侵害は今でも続いています。二〇一四年の社前行動では、終結した私たち全国争議団に、大月書店社員一名が終始「ファック・ユー!」のサインを出していました。担当編集視野の岩下結も、精神障害者差別や失業者差別をツイッターアカウントで、繰り返しています。これが「伝統的左翼出版社」のあり方でしょうか。

 つまり、大月書店のしたことと言えば、私が以前からそうした活動を行っていたことを知りつつ、また、在に朝鮮人であることを知りつつも、私の自由な言論活動に口出しし、(日の丸や極右を擁護する)反原連と日の丸批判をやめるように自作の翻訳契約とバーターで脅迫したということなのです。

 さらに、私の健康問題もあります。会社から不当な仕打ちを受けることは、それだけで大きな痛手です。それに加えて労組に入り争議を起こし、労働委員会やら行政訴訟で争うことも大きな負担になります。大月書店との仕事を始めるまで、比較的に健康だった私の健康はぼろぼろになってしまいました。

 また、私はこの問題が、(意外にも支持してくださっている方も多いとはいえ)さほど注目を集めていないことに腹を立てています。私があまり好きではない喩えですが、ナチスドイツに喩えるとします。ハーケンクロイツを批判するユダヤ人著述家に対して、「それでは受けない。ハーケンクロイツ批判はやめてくれ」などという出版社があるものでしょうか?

 日の丸を良しとする風潮には、日本人の歴史への忘却と関わっています。「日の丸くらいいいじゃないか」という体制に流されず、私は最後まで日の丸を帝国主義のシンボルとして認めない人間であろうと思います。

 それならそれでいいでしょう。日の丸は帝国主義の残滓でしかないということを明らかにするためにも、これからも戦い続けます。

by BeneVerba | 2016-07-05 00:06 | 意見 | Trackback | Comments(0)
 二〇一一年六月一一日は、私にとって重要な日の一つである。それは一言で言って、反原発運動が変質した日、もっと悪く言えば象徴的な意味で反原発運動が殺された日である。この日東京は新宿で「原発やめろ!!デモ」が開かれ、その集会前アピールに日の丸が登壇するということがあった(ほどなく引きずりおろされた)。なお、参加者に聞くと、大変な勢いのあるものだったようだ。

 また、この日の日の丸登壇には、あまり注目されていないようだが、鈴木邦男が関わっている。なお、集会の様子が島田暁氏によって、ほぼ全てが撮影されている。実際、このフィルムには、新右翼の鈴木邦男が日の丸登壇に果たした役割が、はっきりとらえてあるのだがその割には認知度低い。今さらながら動画を見て解析したい。

 まず、撮影部分では、中山一也氏も登壇者ととしてこの部分には登場するのだが、これがひどい内容で実際にブーイングを受けている。

 中山一也「白州二郎や坂本龍馬が今いたらなんと嘆くことか」「だからこそ今こそ日本人は今こそすばらしいってことを、世界にアピールしようないですか。それが世界に対するね、お詫びですよ」「そしいもう一つ言うのは、広島に原子爆弾を落とされて、アインシュタインその原爆を作ったときに、核は絶対悪だということを湯川秀樹といっしょに言っているんだけどね。その二番目の場面が今回福島というところで、こういう災いを日本がなぜ受けないといけないのかといったら、なぜなら日本人は世界に誇れる民族であるからですよ」

 あまりコメントを付ける必要もないだろう。あからさまなナショナリズムである。

 さて、あらためて、タイムコードに注意しつつ画面に注目してほしい。

4分30分
 日の丸を持った人物(ざらすとろ)が現れ、他の人物たちの軽いもみ合い。やがて、この場に鈴木邦男らしい人物の背中も見える。その後、ざらすとらと鈴木の二人で話しているように見える場面も。

6分30分
 救援会からのアナウンス中に、ざらすとろがにじるようにして徐々に登壇の方に移動していく。

7分40分
 ざらすとらがマイクをジャック。この直前に鈴木邦男がざらすとらに手を振り、「行け行け」とするような仕草が見せる。また、鈴木はざらすとろの背中を押し、登壇した後には拍手もしている。

 このフィルムを材料に、ざらすとろと鈴木邦男の共犯とまで言えないかもしれない。しかし、事前の話し合い(と思しきもの)、「行け行け」という仕草、背中を押したこと、その後の拍手など、少なくとも「鈴木邦男がざろすとろを唆した」という形容をしても言いすぎではないだろうか。反原発運動の右傾化に対する鈴木邦男の責任追及を忘れてはいけない。





by BeneVerba | 2016-07-04 23:08 | 運動 | Trackback | Comments(0)
 なぜ社会運動に日の丸が持ち込まれるのか。これは私がずっと追ってきたテーマだ。追わざるを得なくなったテーマといった方が正確かもしれない。それには複数の理由があるのだろうが、根本的な理由は「日本がアジア・太平洋戦争の過去を充分に反省し、精算できていないから」であろう。

 数個前の記事を書いていて気がついたのは、反原発運動や反差別運動に日の丸を持ってくる輩は、過去の戦争の記憶を意図的に無視して、日の丸を使おうとしているということだった。

 だが、それは無理というものだ。モノの意味はその使用法によって決まる。日の丸や旭日旗はその血塗られた歴史によって、既に意味が定まっている。それを今さら変えることはできない。

 そのような歴史的経緯を無視して、今さら日の丸を使ってみせるのは、既に意味づけられているものをまっさらだと言い張るという意味で、歴史修正主義的な用法である。私は数個前の記事でこう書いている。
 二〇一三年以来のカウンターは、おおよそこういうものだった。「在特会と対峙するのに、細かいことを考える必要はない。在日朝鮮人の歴史や社会的な構造的差別を考える必要はない。ただ、在特会と対峙して罵倒すれば良い」。……「在日朝鮮人の歴史や社会的な構造的差別を考える必要はない」とは、つまり「未来志向」「和解」「転向」の時代に沿うように、日本人の持つ歴史的な加害責任をオミットするものではないだろうか?
 古くから活動している私の地元の中に訊くと、社会運動に日の丸が持ち込まれたのは、今日の反原発運動が初めてのことであるという。しかし、今現在福岡都市部での反原発運動への日の丸の持ち込みを問題とする人々は、私も含めて少数派である。それは少なくとも、次の二つのことを意味する。

 第一に、日の丸の持つ加害の歴史に敏感なのは、特に私のような被害を受ける側のマイノリティ(が全てではないにしろ)が多いのではないかということ。もう一つは、その裏返しとして、日本がかつて与えた植民地支配や侵略戦争といった加害に鈍感な人間が、社会運動に携わっている人間の大多数を占めていること。つまるところは、マジョリティは、日本の過去の戦争を忘れたがっているのだ。

 第二の点に関しては、またナルシズムやナショナリズムにも関わっている。昨今良く聞かれる「戦後七〇年間の平和」や「日本は七〇年間外国に兵士を送らなかった」というフレーズは、端的に言って欺瞞だ。安倍政権に代表される日本の支配勢力に対抗していると称する勢力も、このように存在したことのない美化された「戦後ナショナリズム」を基盤としているのだ。

 そのことを考えると、どうしても暗い光景が広がってしまう。安倍政権という極右政権との対決が昨今のテーマである。とは言っても、それと対決する側も値は同根なのではないだろうか。相手と同じナショナリズムという平面に乗った上で、対決するふりをしているだけではないだろうか?ないしは、対決しているつもりでいるだけではないだろうか?

 そうであるのならば、社会運動に日の丸が登場するのは、皮肉な意味で、今の日本の自己陶酔的な状況に似つかわしいとすら言えるだろう。問題は、日の丸を持参する人だけのものではないのだ。社会運動が何を反省し、どのような戦略を立て、何を実現しようとするかに関わっているのだ。

 これまでの社会に問題があったからこそ、安倍政権のような極右政権が登場し、しかも政権の座から落とすことができないでいるのだ。決して、これまでは社会に問題はなかったのに、突然安倍政権が現れて、悪政を行い始めたのではない。

 私たちが精算できなかったものは、いくつもある。私たちは自衛隊を解散させることができなかった。靖国神社を解体することもできなかった。天皇制を破棄することもできなかった。アメリカの核の傘に守られ、沖縄に七〇パーセント以上もの基地を押しつけている。日章旗と旭日旗が未だ悪として共有されていないのも、そのような文脈にあると言える。

 ひょっとしたら、私たちはそれらを変えることができたかもしれないが、そうはならなかった。現在の状況は、もちろん、安倍自民党政権に第一の責任があるにしろ、私たちが精算できなかったものたちが、蘇っていると受け止めるべきではないだろうか?

 そして、充分ではないにしろ、上に述べたような点を考慮すると、今のところ社会運動の側に何かを期待するに足る要素は、見当たらない。一方で、今の社会運動から何を切り捨てていくべきなのかは、推測できる。

 「戦後七〇年間の平和」などという欺瞞に酔っているほど状況は甘くはない。私たちは今、約束しながらも果たせなかった理想、結局精算できなかった戦前の残滓に復讐されているのだ。それらから目を背けていては、前に進むことすらできない。

 偽りの「戦後七〇年間の平和」を打破し、これまでの全てのシステムを点検して、もっと自分たちの根っこを掘るような作業が必要だ。そして、その成果はすぐに現れるものではない。それでも私たちは、表層的な「新しい運動」に浮かれ騒ぐ人々を置き去りにして、安易な道ではない、地道で苦労の多い道を選ぶべきであろう。


by BeneVerba | 2016-06-14 05:18 | 運動 | Trackback | Comments(0)
 私は朝鮮(言うまでもなく当時朝鮮は南北に分裂していなかった)のルーツをひく日本国籍者である。父の代に一家は韓国国籍を取得(帰化という言葉は使いたくない)し、祖父の世代が在日一世、父親の世代は在日二世、私の世代では日本国籍を持つ在日三世ということになった。私の中には朝鮮人としての意識と日本人としての意識の両方があり、どちらかを捨てられるものではない。どちらも私のアイデンティティの一部である。

 余談ながらこういうアイデンティティの公開こそ、実は私が避けたいと思っていたことの一つだ。朝鮮にルーツを持つことを恥じるゆえではない。その事実は物心付いて以来自分の中にあった。私は、私については誰も知らないが、私の仕事については人に知られているというそんな存在になりたかったのだ。

 私の一族には、在日ゼロ世とも言うべき祖父の母がいた。私のひい祖母である。祖父とひい祖母は間違いなく朝鮮語で会話できたはずだが、そのような場面を見たことがない。その理由はわからない。年齢差がらして私が幼い時分に、ひい祖母は相当な年だったはずで、私は彼女に不気味なものを感じるとともに親しみも感じていた。祖父もひい祖母も私には優しくしてくれた。今でも悔やまれるのは、祖父から一族の歴史を聞けなかったことだ。精神的な「病」で動けず、仕方なかったこととは言え、悔やんでも悔やみきれない。

 在日朝鮮人は日本の帝国主義政策によって、日本に居住を強いられた存在である。それを強いた日本の帝国主義のシンボルである日の丸・旭日旗は、在日朝鮮人にとって受け入れがたい。たとえ日の丸を受け入れるという在日朝鮮人がいても、日本が与えた加害の歴史は動かせない。そしてそのシンボルは表面的な反省とともに戦後にも引き継がれた。「日の丸を受け入れる朝鮮人と受け入れない朝鮮人がいる」などとは言えないのは、日本に絶対的な加害性があるがらだ。それが日本の帝国主義の被害者にとっての日の丸の歴史性である。

 だが加害者側である日本人にとっては、戦前と戦後のー慣性よりも断絶が強調されることが多いようだ。そこに奇妙なロンダリング作用があるのかも知れない。天皇制と同じく敗戦で日の丸の責任はチャラにされたとする考えだ。だからこそ呑気に日の丸を振れるのだろう。そういう気分は自分の中にもあると感じる。「今の天皇はリベラルだし、日の丸はただの記号」というわけだ。だが、私のもう一つのエスニシティが否と応える。日本人はそうした操作を半ば無意識的に、半ば意図的にやっていると思う。言い換えればそれは自己欺瞞なのだ。被害者は忘れようにも忘れられず、加害者は忘れることができるという特権的な位置を利用したものなのだ。加害者側は都合の悪い歴史を忘れて、しかも罪の意識なく歴史を捏造し、「リベラル」の振りをすることができるのである。

 この日の丸(あるいは天皇性)無責任論とでもいう考えは、一部の在日朝鮮人にも共有されていると思う。だが、それは戦前と戦後の歴史性を見ず、帝国主義の払拭されていない現在の日本と共存するものでしかないと思う。「天皇制や日の丸をみとめても良いではないか」という考え方だ。しかし、日の丸とはアジアやその他で、戦争によって人の尊厳が貶められ、殺されていた時にはためいていた旗なのだ。その実実をを消し去ってはいけない。それどころか、世代を超えて伝えて行く義務がある。

 また新しい日の丸の使い方をすることで新しい意味を付与すればいいなどという馬鹿げた意見が見られたことがある。確かにあるものの意味は使われ方によって決まる。しかし、これも被害者の見る歴史性からすれば、既に殺戮の旗として使われたことがあることを忘却する愚論である。日の丸には帝国主義と侵略の旗という以上の意味は見出せない。

 大月書店は、私に日の丸批判や日の丸を受け入れている反原発運動批判を控えるように言った。私が個人的に日の丸を嫌っているのではなく、歴史的な経緯があった日の丸が忌避されているのであるにもかかわらず。大月書店は、その点を十分理解しなかったように見える。「たかだが日の丸ごときで」と思ったのかもしれない。私が日の丸を拒否するときには、帝国主義に抗う在日朝鮮人としてのアイデンティティと、思想信条に基づくアイデンティティの下に拒否するのである。

 アイデンティティはその個人にとって不可分のものであるから、中断もしくは中止するわけにはいかない。あくまで日の丸を拒否し続け、ひいては帝国主義を拒否し続けることが私のアイデンティティだ。大月書店が、真に日本の侵略戦争を反省し、在日朝鮮人のことを考えていたらあのような要求はしなかったはずだ。それにしても日の丸批判を控えるように言う「左翼出版社」とは何だろうか?(そして大月書店にとって首都圏反原発連合とはなんだろうか?)

 日の丸問題は、社会運動の右傾化、ナショナリズム化とも関わる問題である。私にとっては日の丸、君が代、天皇性といったものは、被害者としての歴史を想起させるものである。帝国主義、植民地主義はなくしていくのが本当の道だと思う。日の丸、君が代、天皇制はなくしていくのが進歩の歩みだ。それにまた、戦後日本の権力者たちは、戦争の被害者としての立場を強調して、加害者としての責任をかくし通してきた。私たちは加害者としての責任を引き受けようではないか。

 日の丸の悪を脱色化させないこともその一つだ。これから何十年かかろうと大月書店と争っていく覚悟である。

by BeneVerba | 2016-03-07 05:58 | 意見 | Trackback | Comments(0)
日の丸を掲げた反原発運動という不正義は自然に終わったりはしない。
日の丸を掲げた反差別運動という不正義は自然に終わったりはしない。
差別者が行う反差別運動という不正義は、自然に終わったりはしない。

野間や木野、あるいはbcxxxや原田裕史は、自ら決して差別暴言を認めたりしない
のいえほいえや上瀧浩子は、自ら決して差別暴言を認めたりしない。

マスメディアは決して、座るひとの排除も、ヘイトスピーチに反対する会の排除も伝えたりはしない。
マスメディアは決して、野間やその他の差別暴言や学習会の妨害を伝えたりしない。

では、どうするのか。
私たちがやるのだ。
彼らをとめるのだ。
彼らに責任をとらせるのだ。

踏みにじられた尊厳は、もはや沸点に近づいている。

by BeneVerba | 2014-06-28 06:40 | 意見 | Trackback | Comments(0)
常野雄次郎さんへ


 私たちが、目下の社会運動に起きている深刻な事態について、往復書簡形式でブログ記事のやりとりをする、と決めてからずいぶん経ちました。こんなに遅れたのは、主に私の責任です。ここしばらくは、労働委員会での大月書店不当労働行為事件について、準備に追われる毎日でした。それからまた、私と常野さんに共通するものだと思うのですが、抑うつ状態で活動的になるのが大変だというのもありました。今現在、大月書店不当労働行為事件は、調査を終え、審問を控えています。

 この往復書簡をどのように始めたら良いのか、ずいぶん悩みました。考えた末に、私がずっと追い求めている質問を、常野さんにぶつけてみようかと思うのです。それは、「いったいなぜ、私が、日の丸とともに歩かされなければならなかったのか?」というものです。ブログなどで表明しているとおり、それは人生でも最悪の体験でした。私は、「ユダヤ人」を「朝鮮民族」に、「ハーケンクロイツ」を「日の丸」になぞらえるのが好きではありません。なぜなら、ユダヤ人と朝鮮民族の困難は、それぞれ固有のものだからです。ですが、ユダヤ人が強制的にハーケンクロイツとともに歩かされたら、深刻な人権侵害であり、一大事件だと見なされるのではないでしょうか?

 私が参加するデモでは、いまだに、日の丸を持ち込もうとする人がいます。今年の三月初頭に開かれたデモでもそうでした。私は、それに抗議してやめさせなければなりませんでした。私の他に、抗議する人はいませんでした。いまだにそんなことをしなければならないのは、私にとって非常な苦痛です。なぜなら、それは私の思想的、民族的なアイデンティティに関わる問題であり、日の丸の持ち込みはそれを脅かしているからです。

 先に記したように、これは私自身が問い続けている問題でもあります。私は、なぜ日の丸とともに、歩かされなければならなかったのでしょうか?常野さんに何かお考えがありましたら、ぜひお聞かせください。それから、ぜひお体に気をつけてください。


芦原省一
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by BeneVerba | 2014-06-16 21:10 | 意見 | Trackback | Comments(0)
*文法的に間違っていた以前のプラカ用素材は削除いたしました。

 つたないながら、日の丸バッテン画像を作成したので使ってやってください。サイズはA3となっております。画像をクリックして保存することで、オリジナルのサイズがダウンロードできるはずです。

1.
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2.
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by BeneVerba | 2014-06-01 02:30 | 画像 | Trackback | Comments(0)