翻訳:スラヴォイ・ジジェク - ロザラムの性的虐待:困難な問いに答えることは私たちの責務である
ロザラムの性的虐待:困難な問いに答えることは私たちの責務である
Rotherham child sex abuse: it is our duty to ask difficult questions
http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/sep/01/rotherham-child-sex-abuse-difficult-questions
2014年09月01日 - スラヴォイ・ジジェク

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 ロザラムで起きたことは、いくぶんかは輪郭がはっきりとしてきた。一九九七年から二〇一三年の間に、少なくとも一四〇〇名の子どもたちが、暴力的かつ性的に搾取された状態に置かれたのだ。一一歳の子どもたちが、複数の犯罪者たちによって強姦され、誘拐され、他の都市へと売り飛ばされた。犯罪者たちは、ほぼ例外なく、パキスタンにルーツがあり、彼らの犠牲者たちは、白人の学生たちだった。

 反応は予想通りだった。左派は、主に一般化を通じて、もっともたちの悪い種類のポリティカル・コレクトネスを開陳した。犯罪者たちは、あいまいな「アジア人」だとされ、エスニシティや宗教の問題でなく、男性の女性に対する権力の性だと主張され、私たちは、教会におけるペドフィリアやジョー・サビルの実例があるにも関わらず、犠牲者たちに対して、高い倫理的な素養を採用しているとされた。誰か、UKIPやその他の反移民法を支持するポピュリストたちですら、ごく普通の人々の懸念を搾取する、これ以上に効果的な方法を思いつくまい。このような反レイシズムは、あたかも保護者であるかのように、パキスタン人を私たちよりも倫理的に劣る存在として取り扱い、私たちの基準の外にある者とすることによって、レイシズムを効率よく覆い隠すものである。

 社会的な生活の、異なるレベルにおける非同時代性の恐ろしい効果の一つは、女性に対する暴力の増大である。それも偶発的な暴力だけではなく、組織化された暴力、ある種の社会的文脈に固有の暴力は、パターンをなぞり、明らかなメッセージを送っている。

 例えば、シウダード・フアレスにおける女性たちの連続的な殺害は、個人的な病理であるというだけでなく、地元のギャング組織のサブカルチャーの一部でもあり、工場で働く独身女性に向けられたものだった。明らかに、自立した働く女性という新しい階級へのマッチョ的な反応である。

 西部カナダでは、カナダは寛容なモデル的福祉国家であるという主張に背くかのように、バンクーバー近くの居留地で、先住民女性がレイプされて殺された。白人男性の集団が、一人の女性を誘拐し、レイプし、殺害したのだ。そして、彼らはバラバラにされた遺体を居留地に捨てた。それは司法の上では、そこは部族警察の管轄区域で、かれらはこのような事件に対応するだけの者を持ち合わせていないのだった。これらの例が示すのは、社会的な混乱は、急速な産業化と近代化は、開発を脅威として受け止める男性から、暴力的な反応を引き起こすということである。これらの事件における決定的な特徴はこうだ。暴力的な行為は、文明的な慣習を破る暴力的なエネルギーの突発的噴出ではなく、何らかの習得があり、外的に強制され、儀式化された、共同体の象徴的な本質の一部なのである。

 同じように異常な社会的儀式の論理は、ペドフィリアによって、持続的に打撃を受けているカソリック教会においても働いている。教会の代表者は、これらの事件は嘆き悲しむべきことであると語る時、教会内部の問題であるがゆえに、捜査機関と協力することに、乗り気ではないことも表明している。かれらは、ある意味で正しい。カソリック僧侶のペドフィリア問題は、単に、たまたま職業として僧侶を選んだ個人の問題ではない。それはカソリック教会それ自体を問題とする現象なのであり、社会的、象徴的機関として教会が機能するまさにその点において、刻み込まれているものなのである。これは、個人の「私的」な無意識の問題ではなく、教会それ自身の「無意識」の問題でなのである。それは組織が、リビドー的な生活の病理学的リアリティに、生き延びようとして、適応したために起きるのでなく、組織それ自身が再生産をするために、必要としているからこそ起きるのである。

 言葉を換えて言うのなら、単に、体制順応的な理由によって、恥ずべきペドフィリアのスキャンダルに対して、教会は口を閉ざそうとすべきではない。自分たち自身を守るために、教会はその内奥の淫靡な秘密を守るべきなのである。それは、つまりこういうことだ。すなわち、個人を秘密によって特定することは、キリスト教徒の僧侶にとって、固有のアイデンティティの重要な構成要素なのである。もし、僧侶が(修辞的にではなく)真剣に、このようなスキャンダルを非難するのなら、その人物は、それによって、キリスト教徒聖職者の共同体から、自分自身を除外しているのである。その時、その人物はもはや「私たちの一人」ではない。

 ロザラムで起きた事件に対しても、ムスリム系パキスタン人の若者の「政治的無意識」として、同じような態度で接するべきであろう。混沌とした暴力ではなく、イデオロギー的な概観を示す、儀式化された暴力として、である。周縁化され、従属化された経験を有する若者グループが、支配的な集団の脆い成員である女性に対して、復讐したということだ。そして、かれらの宗教的文化的特徴に、女性に対する暴力を許容するような余地はあるのだろうか、と問うことは完全に正当なことなのである。

 ムスリム教をそれ自身として非難することなく(ムスリム教は、その内部においては、キリスト教ほど女性嫌悪ではない)、人は、多くのムスリム国や共同体における公的領域からの排除や、従属的な暴力について語ることができる。そして、とりわけ原理主義者として名指しを受けている、階層秩序による性的な違いを最重要視する集団や運動についても同様である。このような疑問を持ち出すことは、暗黙のレイシズムでも、イスラム恐怖症でもない。それは、解放のために闘う全て者にとって、倫理的政治的な責務なのである。

 さて、このような事例を、私たちの社会はどう扱うべきであろうか?一昔の支配的文化(Leitkultur)をめぐる議論において、保守派は、全ての国家は優位な文化的空間を基盤にしており、その同じ空間に生きる他の文化に属する成員は、尊重されるべき存在である、と主張した。そうした言明が予告していたヨーロッパにおける新たなレイシズムの出現を嘆くよりも、私たちは、どの程度まで私たちの抽象的な多文化主義が悲しむべき現状に貢献してしまっているか、私たち自身へと批判的な目を向けるべきである。全ての側面が共有されるか、同じように尊重されないのならば、多文化主義は、合法的なお決まりの相互の無視や憎悪へと変容するであろう。

 多文化主義を巡る衝突は、既に、支配的文化を巡る衝突である。それは文化と文化の衝突ではない。しかし、異なる文化がどのように共存するかについての、異なるヴィジョンについての衝突でなのである。これらの文化が共存するのならば、共有しなければならないであろう、規則と実践についての衝突である。それゆえに人は、「他者を受け入れるためには、どれほどの寛容さが必要か?」というリベラルのゲームを避けるべきである。このレベルにおいては、もちろんのこと、私たちは充分に寛容というではない。このデッドロックを破る唯一の方法は、全ての参加者によって担われる普遍的なプロジェクトを提案し、闘うことである。

 それが、今日、解放を求めて闘う人々の決定的な仕事が、単に他者から受ける尊敬の範囲を超えて、真性の共存と混有を維持する、解放へと向けた支配的文化的の方へと前進すべき理由なのである。

 我々の公理は、原理主義に対する闘いであると同様に、西洋の新植民地主義に対する闘いでなければならない。ウィキリークスによる闘い、エドワード・スノーデンの闘い、プッシー・ライオットの闘いでなければならない。ユダヤ人排斥に対する闘い、シオニズムに対する闘いでなければならない。これらの全ては普遍的な同一の闘争の一部なのである。もし、私たちがここで妥協するのであれば、私たちはプラグマティックな妥協において敗北するのであり、私たちの人生は生きるに値しない。


訳者コメント:
 久しぶりの翻訳。今後はできるだけ、継続的に翻訳、公表していきたい。

 ジジェクはこの論説でロザラムのムスリム系パキスタン人を非難するのに、文化的な領域に踏み込むことに躊躇する必要はないという。とはいえ、もちろんかれらの文化が劣っていると主張したいのではなく、文化的、経済的に抑圧された側からの暴力的な反応として、分析しているのである。

 そして、ジジェクの筆は、返す刀でカソリックに向けられるのである。

 話題は変わる。私は今経済的に困窮している。大月書店との労働争議は、精神的にだけでなく、経済的にも疲弊した。もしカンパをいただけるのなら、次の宛先まで。

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by BeneVerba | 2014-11-05 09:03