意見:自説 - 私は未だに差別によって血を流している
 私は、ある意味で自分のことを「見過ごされた/意図的に無視された差別被害者」だと考えるときがあります。差別というのは、人の魂の少なくとも一部を殺してしまうようなものです。あるいは身体の一部をもぎ取ってしまうようなものです。しかし、それに釣り合うものを私は得ていません。私は未だに血を流し続けて苦しんでいます。

 二〇一一年の年始、私は非常に健康で全く何の問題のないレベルで暮らしていました。社会復帰に向けて、少しずつ努力していました。私の人生はいくつかの言葉で言い表せます。「ぜんそく、うつ病、差別」です。どれも生きることそのものを困難にする、恐ろしい病気です。その二〇一一年頃、ひとまずうつ病の心配がいらなくなったと思ったら、今度は大月書店によって思想差別、民族差別を突きつけられました。次から次に、人生に関わるような問題が起きるせいで、その時私に休む暇ありませんでした。

 私が三・一一以来の運動でやって来たことの一つは、「差別に反対すること」です。だからこそ、在特会のような人々だけではなく、「反原発・反差別には天皇主義/靖国崇拝の右翼の協力も必要」(野間易通)いった人々や、「反現連や日の丸を批判するな」(大月書店)「日の丸が上がることは叛旗を意味する(原田裕史)「自分の中にある差別を忘れて、まず在特会をたたくことが必要」などと言ってきた人たちに対して、抗議運動の現場やインターネットで反論してきたのです。これらは「マジョリティ票狙いの右傾化路線」と言っていいでしょう。そして、その失敗は今や明らかです

 このような詭弁には人を謬らせる危ういものがあります。手短に言うと、こうした言説は、日本社会のマジョリティにとって大変に都合が良く、マイノリティにとって困ったものになっているのです。ここでは、二つだけ問題点を挙げると、一つには「普通の日本人」と在特会などの民族差別団体を区分することで、「普通の日本人」が差別と無縁であるかのような切断処理がなされている点です。しかし、日本社会における差別の主要な担い手は「マジョリティ」「普通の日本人」なのです。

 もう一つは、民族差別の文脈に即して言えば、「差別の責任に限定をつけている」点です。在特会をはじめとする団体が、最悪の民族差別団体であることに、疑いはありません。しかし、反差別のために右翼と組んだり、差別に対して差別で反撃したり、カウンターの場に日の丸を持って現れるのならば、単にそれらの団体を否定する以上の意味を持ちます。

 それは要するに、「在特会などの団体は否定するがそれ以上のことをする気はない」(在特会の源流である右翼の責任を追及する気ははない、日本の差別的な体制を変える気はない、我々「普通の日本人」は在特会を退治する正義の味方であって、差別の担い手ではないのだから変わる必要はない)などなどの態度を意味することになるのです。在日朝鮮人は日本の帝国主義によって、日本社会に定住するようになった存在なのだから、全くのばかげた意見です。

 ところが、そのような詭弁を信じ込んだ人々は、被差別者でもある私を、激越なまでに攻撃してきました。その中で差部発言が何度も飛び出したのは、(充分ではありませんが)これまでのエントリで指摘したとおりです。私はインターネット上で何度もリンチに遭い、その度に何日間も寝込むような傷つき方をしました。

 「リンチ事件」などの事件が起きたから、「カウンター」に問題があったのではありません。それは最初から問題含みの、ある意味日本人が好き勝手に在日朝鮮人の運命をもてあそんだものでした。それはいわば「在特会」を出汁に、あらゆる暴力性を解放するようなものでした。反原発運動への日の丸の持ち込みと、右翼との共闘と同じ流れにある出来事だと思います。

 私は、現在元々重いうつ病を抱えているために思うように動けず、本来なら当然すべき反論もできません。しかし、差別は加害者の謝罪もしくは賠償によって片をつけるものかと思いますが、それがまだ果たされていません。私は、この数年間ずっと、差別者たちによってえぐられた傷から、血を流し続けています。差別とは、見えないナイフで刺されるようなものです。「まだ、二、三本しか刺していないからたいしたことはない」などとはなりません。一本一本が致命傷なのです。

 まるで当たり前の評論家か活動家のような活動をして、私の人権を根本から否定する差別発言を人々が、「新しい社会運動」について語っているのは、この上ない苦痛です。

by BeneVerba | 2016-07-23 19:58 | 意見