意見:「新元号」発表を巡る空騒ぎと歴史の忘却に関する断想

*この文章はツイッターに投稿したものを多少書き直したものです。

 「昭和」という元号には、暗いイメージがつきまとう。その背景としては、その時代に戦争があり、それは日本が主体的に遂行した侵略戦争だったにもかかわらず、その加害責任が充分に果たされてないことがあったはずだ。

 だが、今回の「新元号」発表を巡る空騒ぎを見るにつけ、「昭和」が「平成」を経て「令和」となることによって、その「暗いイメージ」は日本の加害責任とともに完全に払拭されてしまうのだろうと思わざるを得ない。

 これが「元号」という制度の持つ効果の一つ、すなわち時代を恣意的に区切り、忘れてはならないことを忘れさせ、記憶を改編させる効果、なのだと思う。

 ところで、佐々木俊尚が「リセット感」という言葉を用いて、以下のようなツイートを投稿していた。あまりにも軽佻浮薄ながら、今回の騒動に浮かれている人びとの心情を露骨に表現したものと見るべきであろう。

 私は、まさにこうした「リセット思考」を批判してきたのだが、それだけに佐々木俊尚の文章は、その存在を逆側から実証するものであるように感じた。

 昨日までは改元と言われても実感なく、元号なんてもう要らないんでは…と思ってた。なのに令和という新元号を聞いた瞬間のリセット感が半端ない。「これから新しい時代が始まるんだ!」という。昔からこうやって改元して時代の空気を革めてきたのですねえ。
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/1112548547671388166

 私は昨年に行われた「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」に、「『まっすぐさ』が恐ろしい」という文章を寄せた。そこでは主に「戦前」から「戦後」へのリセット思考を批判していたのだが、「昭和」から「平成」へという「元号」によるリセット思考をも視野に入れるべきだったかもしれない。

 「新元号」発表の号外を求めて殺到する人たちにしろ、「HINOMARU」という楽曲を発表したRADWIMPSにしろ、「令和」ツアーと新曲「元号」を予定しているというGLAYにしろ(なお、GLAYは一九九九年に「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」に参加している)、極めて「自然体」で振る舞っているのだと思う。だが、そこで自明視されている「自然」の背後には、権力による作為があるのではないだろうか。

 うまく言葉にできたかどうかわからないが、私はその「『まっすぐさ』が恐ろしい」という文章で、そうした権力による作為が「自然」なものとして受け止められるメカニズムを指摘しようとしたように思う。以下に、一部を引用する。

 その基礎としては、戦前から戦後になって、日本は平和国家になったという思考があると思います。私はそれをリセット思考と呼んでいます。確かに、憲法をはじめとして変わったものもありますが、戦前から戦後へと引き継がれたものも多いのです。天皇制、日の丸、君が代などがその代表です。

 終戦後しばらくは、天皇制についても、日の丸や君が代についても議論があり、裕仁は退位すべきだとか、日の丸に変わる新たな国旗を制定しようという意見がありました。

 それに、一九九九年まで、日の丸は正式な日本の国旗ではありませんでした。その年、他の悪法とともに、国旗国歌法が制定されたのです。その年に生まれた人は来年二〇一九年に二〇歳になります。一九九九年に一〇歳の人なら三〇歳です。

 いわば、それが権力のやり口なのです。取るべき責任を取らず、既成事実化し、やがて人々が、自然なものとして受け取るのを待っているのです。天皇制・日の丸・君が代といった大日本帝国を支えた装置は、戦後もそのまま生き延びました。そして生き延びることによって、既成事実となってしまいました。

 それは、世代を超えて洗脳しているようなものです。国家は世代が変わることを歓迎しています。ある世代ではまだしも問題とされていたものが、次の世代や次の次の世代では、自明視されて問題視されなくなっていくというわけです。

 つまるところ、私たちは実際には、戦争責任の追求が徹底していない社会に住んでいるのに、それに慣らされてしまっているのです。

 また、辺見庸の『1★9★3★7』には、『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞したときの受賞パーティーで、阿川弘之が辺見庸に食ってかかり、元「慰安婦」の方々について、「きみね、死にたいものには死んでもらえばいいんですよ……」という非道この上ない発言をした経緯が書かれている。

 眼前の作家はゆがんだ笑みのまま、くぐもった声で「恥ずかしい……」をくりかえした。死にたがっていた老婦人たちに、わたしが「死なないでください」とくりかえし訴えたというのが「恥ずかしい」と、しつこく言うのだ。それをわたしに告げずにはいられなかったらしい。

 かれは最後にゆっくりとこう言い足した。この部分は忘れようにも忘れられないのでクォーテーションマークでくるめる。「きみね、死にたいものには死んでもらえばいいんですよ……」「えっ?」。わたしの声が反射した。が、そのとき、阿川弘之はもうわたしに背をむけていた。

 それは、「被害当事者が死んでしまえば、加害者側の責任もなくなる」という、実に日本的な発想を、露骨に表現したものだった。そのことも想起すべきではないだろうか。

 などと書いているうちに、韓国国内の日本軍性奴隷制度被害者の一人(名前は非公表)が亡くなり、同国内の元「慰安婦」被害者のうち、存命中の方々は二一名になったというニュースが飛び込んできた。愕然とするしかない。



by BeneVerba | 2019-04-03 08:21 | 意見