*福岡市民救援会の通信紙に発表したものです。福岡市民救援会の総意などではなく、私個人の意見です。


 私はどのマスメディアも信用していない。が、どこかから情報を得る必要がある。というわけで、仕方なしに朝日新聞を取っている。元々「皇室報道」に力を入れてきた同紙であるが、この度の代替わりを巡っては、連日のように、おびただしい量の「天皇」関連報道が繰り広げられた。

 それこそ単発の記事から連載、論説、社説、果ては広告に至るまで。4月末までは「平成を回顧する」という形で、5月からは「新時代を祝福する」という形で、「天皇」や「新元号」に埋め尽くされたのであった。おそらく他紙や雑誌、テレビなどでも似たり寄ったりだったであろう。

 裕仁の死去の際には「自粛ムード」と呼ばれたような抑制的・自主規制的な雰囲気があったが、今回の代替わりはさしずめ「奉祝ムード」と呼べるような、祝祭的・積極的な雰囲気がある。両者は異なるかのように見えて、同様に悪質なものだと思う。いや、抗いがたさという点では、後者の方がより悪質かもしれない。

 おそらくそうなるであろうことは、以前から予想されたことでもあった。が、本稿の執筆時点でも、この「奉祝ムード」は続いており、いざその中に入ってみると、なんとも言えない気色の悪さを感じる。前回の通信紙には、「覚え書き的象徴天皇制批判」と題した、ちょっとした文章を寄せたが、そこで指摘したことの一つは次のような点だった。

 裕仁が死んだ時、私はただの学生で特に政治的ではなかったが、それでも「ああ、ついに戦争責任を取らせることなく死なせてしまったな」と思ったものである。別な言い方をすると、天皇裕仁という存在が戦争責任を取らないままであったことは、濃淡の差こそあれ、一定の範囲で共有されていた認識ではないかと思うのだ。

 このような認識、つまり人々が裕仁に持っていた最低限度の「後ろめたさ」のようなものは、今回の「奉祝ムード」の中で、「昭和」が「平成」を経て「令和」となることによって、完全にかき消されてしまったかのようだ。

 「元号」とは、権力者が人々の時間を、引いては生をも支配するという制度である。であると同時に、過去のことは忘れ、新しい時代を新たな気持ちで始めようという忘却をも強いるものだ。


 また、一方で気になる動きも出てきた。それは「安倍政権の打倒という大きな目的のためには、天皇制の批判は控えよう」といった論調である。安倍政権が希代の悪政であることは論を俟たない。しかし、これは「野党共闘」が安倍政権を打倒するということを前提にした話である。

 しかるに、その「野党共闘」の内実はといえは、無原則な数合わせであり、野党の総右傾化である。それゆえに日本共産党が天皇制を容認したり(かれらは容認していないと言っているが、事実上の無期限延期であろう)、立憲民主党が「立憲的改憲論」という名の改憲論を唱えたりしている。

 「野党共闘」が安倍政権を倒すことができるのかどうかは知らない。が、それ以前に日本社会の右傾化は、安倍政権のみならず、他ならぬ「野党共闘」の力添えもあって、とっくに実現しているではないか。安倍政権が右へ右へと行けば、それを追いかけるかのように右へ行くのが「野党」ではないのか。

 それが私の基本的な認識である。「野党共闘」を支持する人々は、「安倍政権」が問題であり、「野党共闘」がその解決策であるかのように言っている。が、私にとってはどちらも悪夢である。

 私が、少しながら救援活動に携わる中で学んだことの一つは、弾圧というものは、二つの側面を持つということだ。一つめは、もちろん被弾圧者を狙った直接的な弾圧である。もう一つとは、弾圧によって被弾圧者周辺や、広くは人民そのものを萎縮させるという効果である。

 いわば権力が最終的に望むことは、政治的な異分子を自由に弾圧することだけではなく、人々が自発的に権力に服従するように仕向けることなのだ。だとすると、そのような社会は半ば実現してしまっていると言えまいか。


 これは前半で述べたこととも重なる話だ。問題は日本社会の持っている没論理性なのだと思う。日本社会においては、論理や普遍が貫徹されることがなく、複数の異なるミニ論理のようなものが矛盾したまま同居している。これはまた前述の「覚え書き的象徴天皇制批判」で触れたことでもある。

 このような場においては、抗うということが難しい。一つの動きがたちまち別なものへと再編されたり、矛盾する価値観が同居したりしてしまう。ましてやこの「奉祝ムード」のただ中においては、なおさらである。

 しかしながら、天皇制/象徴天皇制に抗うための一つの方法は、そしてまた、日本の社会の没論理性に抗うための方法は、あくまでも過去を忘れず、責任を問い続けることにあるのではないだろうか。それこそ、曖昧模糊とした日本社会にくさびを打ち込むかのように。あるいは動かされないように根っこを張っていくかのように。

 それは言葉にするよりも、困難な事業となるだろう。だが、個人的には、そうした方向へと進んでいきたいと考えている。



# by BeneVerba | 2019-05-21 08:27 | 意見 | Trackback | Comments(0)