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*この文章は、ツイッターなどで発表した文章をそのまま転載したものです。書き直そうかとも思ったのですが、面倒くさいので。

 深夜でもあるし、人も少ないから……というわけでもないが、一つ告白をしようと思う。自分でも恥辱のあまりに今まで認めるのが難しかった告白だ。

 

 私がルーツを公にした日時ははっきりしている。自分のブログのこのエントリで、明らかにしたからだ。これを書いて眠った翌日に起きて、最初に思ったことは「とうとうルーツ明らかにしてしまったな」ということだった。

 https://beneverba.exblog.jp/20028448/

 そして上のエントリには、こうっきり書いている。自分は「韓国籍だった祖父(故人)を持つ日本国籍者として生まれた」と。全てははっきりしてあるのだ。それに当たり前の話だが、国籍も血も選べはしない。

 

 それまで、勝手に私のことを「日本人」だと前提して話しかける人々がいることに、仕方がないと思いつつも嫌気がしていた。また、「朝鮮人」であることを明らかにすることで、それ相応の差別は受けることになるだろうとも思っていた。

 

 ところが、まさか「凡」や「主水」のように、「お前日本人だろ」とか「自称在日朝鮮人」などと言って、人を貶める人が現れるとは思わなかった。在日朝鮮人は、日本と朝鮮半島に引き裂かれて悩んできたはずだった。それと同じ仕打ちを「日本籍在日朝鮮人」にするとは。

 

 筆の運びのついでに書いておくと、凡はまた私に私が受けたのは「民族差別ではない」と言ったのだが、これは少なくとも二つの意味で間違っていると思う。一つは、全朝鮮民族に対する差別ではなく、その人個人に対する差別であっても、民族的な要素があるなら民族差別であること。

 

 もう一つは、凡が(おそらく自分では気付いていないのだろうが)、自らのイデオロギーに立ってこのような判断を下していること。また当たり前のことながら、「#大月書店」のような悪徳出版社から誰かが本を出すときに、私と同じような仕打ちを受ける可能性があるのだから民族差別と呼ぶのは正しい。

 

 本題に戻ろう。私が自分のルーツを家族や親類を除いて、初めて明らかにしたのは、問題の大月書店編集者岩下結だ。大月書店はゴリゴリの日本共産党系ではないかのように見えたし、岩下は信頼できる相手に見えた。そして、その療法とも間違っていた。

 

 私は、生まれて初めて自分のルーツを明らかにした相手から、ものの見事に裏切られた。しかも、相手は「老舗左翼出版社」なのだ。

 

by BeneVerba | 2019-05-15 23:25 | 意見 | Trackback | Comments(0)

*この文章はツイッターにて発表した文章を元に書き直したものです。


 メモ書き程度ながら、山本夜羽音という人物についてあらためて書いておきたい。

 今よりも反原発運動に熱量があった頃、「脱原発に右も左もない」という主張がなされ、それを巡る激しい議論があった。そして、私はその中で数え切れないほどの差別被害を受けた。それらは私の精神疾患を言い募ったり、私のエスニシティ(民族性)を否定したりといったものであった。

 山本夜羽音もそれら加害者たちの一人である。

 山本夜羽音は、かつて「慰安婦」否定論者の針谷大輔や針谷が呼びかけ人を務める「右から考える脱原発」を支持していた。当時彼は次のようにツイートしている(ちなみに、針谷大輔と松沢呉一がこのツイートをリツイートしている)。

山本夜羽音
 もういい加減にしろよ。右デモ批判してるヤツのレベルが低すぎて、相対的に針谷たちの株が上がってることに気づけよ。さてはおまいら、ホントは原発なんかどーでもよくて、「正しく清い自分」守りたいだけだろ。これだからクソサヨは。あと、針谷の喧嘩上手にはきっちり警戒しとけ。
https://twitter.com/johanne_DOXA/status/143747672736677888

 針谷大輔は、既に触れたが、日本軍性奴隷制度の被害者たちを否定している。日本軍性奴隷制度は民族差別と性差別を含むものでもあったのだから、針谷は歴史修正主義者であるというだけでなく、レイシストかつセクシストである。ようは「一発退場」させられるべき人物である(にもかかわらず、今なお朝日新聞が紙面に採り上げたりしているのだが)。

そもそも彼らの言う「従軍慰安婦」などというものは、歴史上に存在せず、希代の大嘘つきの吉田清治なる男の口から発せられた出鱈目に対し、朝日、毎日をはじめとする左翼マスコミ、日教組、創価学会、民団、朝鮮総連をはじめとする反国家勢力、そして、これを外交カードとして利用せんとする米国、韓国、中国、北朝鮮らが、何らの根拠も無く騒ぎ立てているだけのものである。……

我が国の礎を築かれてきた彼らが、いわゆる「従軍慰安婦」などといったものを設ける筈もなく、当然「従軍慰安婦」の存在を証明する物は、今日まで何一つ発見されていない。それもその筈であろう、上述の通りこの「従軍慰安婦」なるものは我が国を貶めんとする者達によって語られているだけの虚構だからである。
http://www.giyuugun.jp/kougibun_h190802.php

 針谷大輔についてはまた、最近こんなレイシズム丸出しの発言などがあった。が、彼がそのような人物であることは、当初からわかりきったことだった。このような人物が、「3.11以降の新しい運動」の中で持て囃されてきたのである。

針谷大輔
保釈に関して考える。カルロスゴーン被告がこんなに引っ張られたのに、なぜ俳優の新井浩文(朴)被告があんなにあっさりと保釈されたのか⁈不可解で仕方無い。日本の司法は終わってるねえ。
https://twitter.com/giyuugungityou/status/1103101687483445252

 こうした「右も左もない脱原発」を擁護する際に使われていたレトリックは、「針谷大輔の主張を支持するものではないが、かれにも居場所を与えるべき(あるいはそのような人々とも一緒にやるべき)」というものだった。次の山本夜羽音の主張など典型的であろう(他に松沢呉一なども同様の主張をしている)。

山本夜羽音
針谷大輔は仮にも、被災直後の福島に乗り込んで支援活動を展開した。それを評価するだけで、彼の姿勢や言説を逐一肯定するものではない。100%合致しなければ運動できないなら、そういう奴とはやれない、それだけ。
https://twitter.com/johanne_DOXA/status/385192973262000128

 スラヴォイ・ジジェクは『ジジェク、革命を語る』の中でこう述べている。

女性をレイプするのは間違っていると主張しなければならない状況で生きるなんて、私はごめんです。レイプがよいか悪いかを議論する必要がある社会とは、どんな社会でしょうか。レイプをきわめて不愉快な狂気の沙汰とみなすことには議論の余地はない、そう言い切れる社会が私の生きたい社会です。同じことは、人種差別、ファシズム、等々にも言えます。
https://beneverba.exblog.jp/22067138/

 「狂気の沙汰」という文言が引っかかるものの、ジジェクがここで言おうとしているのは、社会というものを成り立たせるためには、「レイプ」「人種差別」「ファシズム」などといったものは、価値観や意見のようなものではなく、予め排除されていなければならない悪であるといったことだろう。そこに「歴史修正主義」を付け加えても、牽強付会ではあるまい。

 一方でこのようにも思う。そんな小難しいことを言わなくても、単に「他でいくら良いことをしたり言ったりしていても、差別や歴史修正主義はダメ」だというだけの話である。ごく簡単なことだ。

 にもかかわらず、東日本大震災とそれに続く福島第一原発の深刻事故という危機の中で、そのような姿勢はあっさり忘れられていった。今、便宜的に「忘れられていった」と書いたが、元からそうだったのかもしれない。


 さて、山本夜羽音に戻ると、彼は自らの姿勢を批判されると私のエスニシティを否定するという暴挙に出た。あるマイノリティ集団とその構成員のエスニシティは人権である。針谷大輔への肩入れが差別への加担なら、これは直球の民族差別であろう。

山本夜羽音
君が朝鮮人かどうかはこの場合全く関連しない。君の「運動原則論」じたいが迷妄している、というだけ。
https://twitter.com/johanne_DOXA/status/385191355967758336

 何度読んでも、この「君が朝鮮人かどうかはこの場合全く関連しない」という言葉には、愕然とする。

 そして読む度に傷付けられる。これはつまるところ、自らが差別に加担していることの否認であり、責任回避であり、切断処理なのだが、なぜ他人から、自らの人間としての尊厳を、これほど軽々しく貶められなければならないのだろうか?


 ところが、彼は、その後の「反原発運動から反差別運動へ」という流れに乗っかって、関東大震災時の朝鮮人虐殺を記念したりしてみせるのである。片方で朝鮮人を差別しながら、もう片方で朝鮮人差別を嘆くのは明白なダブルスタンダードである。

山本夜羽音
おはようございます。本日と明日の反差別行動に併せ、「知らせ隊」から「関東大震災90周年」モチーフのプラカードを提供。7&11ネットプリントで予約番号「90081575」でDL。 彼岸花の花言葉「悲しい思い出」「あなたを思い続けます」
https://twitter.com/johanne_DOXA/status/381190620460503040

 想像してみてほしい。自分に対して差別発言をした者が、謝罪もないままに何食わぬ顔で、「反差別運動」に携わっているところを見た被害者の気持ちを。それは、ただでさえ差別によって傷付いている者を、さらに追い詰める行為である。

 これは「しばき隊」の野間易通や「出版関係者の会」の岩下結にも言えることだが、彼らはこうした差別者としての経歴ロンダリングを、「木を隠すなら森に」方式として、意識的にやっているのだと思う。

 

 さらに、山本夜羽音は差別を告発した私を逆恨みして、他にも差別発言を繰り返すなどしているようである。また、彼についてはセクハラのために「知らせ隊」から、除名されたという出来事があり、それもこの話題に関わることかと思われるが、さしあたり稿を終えたい。

山本夜羽音
芦原某なるクソ野郎が「おおよそ在日の血縁」であることをいきなり持ちだして「お前は俺を差別してる」とゴネるのは無視するしか無いじゃろうに (´・ω・`)。それに乗っかる君らもいい加減にしなよ。
https://twitter.com/johanne_DOXA/status/493151990906503168
「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか
【報告】「レイシズムへの抗議行動・知らせ隊」からのお知らせです。これまで対外的な発表任務を担っていた山本夜羽音氏が、メンバーから外れることになりました。山本氏が一人のメンバーに対しセクシャルハラスメント行為(身体に抱きつきキスを迫るなど)を犯したことがその理由です。
https://twitter.com/01sep1923/status/662577120854470656


by BeneVerba | 2019-04-14 01:01 | 意見 | Trackback | Comments(0)

*この文章はツイッターに投稿したものを多少書き直したものです。

 「昭和」という元号には、暗いイメージがつきまとう。その背景としては、その時代に戦争があり、それは日本が主体的に遂行した侵略戦争だったにもかかわらず、その加害責任が充分に果たされてないことがあったはずだ。

 だが、今回の「新元号」発表を巡る空騒ぎを見るにつけ、「昭和」が「平成」を経て「令和」となることによって、その「暗いイメージ」は日本の加害責任とともに完全に払拭されてしまうのだろうと思わざるを得ない。

 これが「元号」という制度の持つ効果の一つ、すなわち時代を恣意的に区切り、忘れてはならないことを忘れさせ、記憶を改編させる効果、なのだと思う。

 ところで、佐々木俊尚が「リセット感」という言葉を用いて、以下のようなツイートを投稿していた。あまりにも軽佻浮薄ながら、今回の騒動に浮かれている人びとの心情を露骨に表現したものと見るべきであろう。

 私は、まさにこうした「リセット思考」を批判してきたのだが、それだけに佐々木俊尚の文章は、その存在を逆側から実証するものであるように感じた。

 昨日までは改元と言われても実感なく、元号なんてもう要らないんでは…と思ってた。なのに令和という新元号を聞いた瞬間のリセット感が半端ない。「これから新しい時代が始まるんだ!」という。昔からこうやって改元して時代の空気を革めてきたのですねえ。
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/1112548547671388166

 私は昨年に行われた「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」に、「『まっすぐさ』が恐ろしい」という文章を寄せた。そこでは主に「戦前」から「戦後」へのリセット思考を批判していたのだが、「昭和」から「平成」へという「元号」によるリセット思考をも視野に入れるべきだったかもしれない。

 「新元号」発表の号外を求めて殺到する人たちにしろ、「HINOMARU」という楽曲を発表したRADWIMPSにしろ、「令和」ツアーと新曲「元号」を予定しているというGLAYにしろ(なお、GLAYは一九九九年に「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」に参加している)、極めて「自然体」で振る舞っているのだと思う。だが、そこで自明視されている「自然」の背後には、権力による作為があるのではないだろうか。

 うまく言葉にできたかどうかわからないが、私はその「『まっすぐさ』が恐ろしい」という文章で、そうした権力による作為が「自然」なものとして受け止められるメカニズムを指摘しようとしたように思う。以下に、一部を引用する。

 その基礎としては、戦前から戦後になって、日本は平和国家になったという思考があると思います。私はそれをリセット思考と呼んでいます。確かに、憲法をはじめとして変わったものもありますが、戦前から戦後へと引き継がれたものも多いのです。天皇制、日の丸、君が代などがその代表です。

 終戦後しばらくは、天皇制についても、日の丸や君が代についても議論があり、裕仁は退位すべきだとか、日の丸に変わる新たな国旗を制定しようという意見がありました。

 それに、一九九九年まで、日の丸は正式な日本の国旗ではありませんでした。その年、他の悪法とともに、国旗国歌法が制定されたのです。その年に生まれた人は来年二〇一九年に二〇歳になります。一九九九年に一〇歳の人なら三〇歳です。

 いわば、それが権力のやり口なのです。取るべき責任を取らず、既成事実化し、やがて人々が、自然なものとして受け取るのを待っているのです。天皇制・日の丸・君が代といった大日本帝国を支えた装置は、戦後もそのまま生き延びました。そして生き延びることによって、既成事実となってしまいました。

 それは、世代を超えて洗脳しているようなものです。国家は世代が変わることを歓迎しています。ある世代ではまだしも問題とされていたものが、次の世代や次の次の世代では、自明視されて問題視されなくなっていくというわけです。

 つまるところ、私たちは実際には、戦争責任の追求が徹底していない社会に住んでいるのに、それに慣らされてしまっているのです。

 また、辺見庸の『1★9★3★7』には、『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞したときの受賞パーティーで、阿川弘之が辺見庸に食ってかかり、元「慰安婦」の方々について、「きみね、死にたいものには死んでもらえばいいんですよ……」という非道この上ない発言をした経緯が書かれている。

 眼前の作家はゆがんだ笑みのまま、くぐもった声で「恥ずかしい……」をくりかえした。死にたがっていた老婦人たちに、わたしが「死なないでください」とくりかえし訴えたというのが「恥ずかしい」と、しつこく言うのだ。それをわたしに告げずにはいられなかったらしい。

 かれは最後にゆっくりとこう言い足した。この部分は忘れようにも忘れられないのでクォーテーションマークでくるめる。「きみね、死にたいものには死んでもらえばいいんですよ……」「えっ?」。わたしの声が反射した。が、そのとき、阿川弘之はもうわたしに背をむけていた。

 それは、「被害当事者が死んでしまえば、加害者側の責任もなくなる」という、実に日本的な発想を、露骨に表現したものだった。そのことも想起すべきではないだろうか。

 などと書いているうちに、韓国国内の日本軍性奴隷制度被害者の一人(名前は非公表)が亡くなり、同国内の元「慰安婦」被害者のうち、存命中の方々は二一名になったというニュースが飛び込んできた。愕然とするしかない。



by BeneVerba | 2019-04-03 08:21 | 意見 | Trackback | Comments(0)
*福岡市民救援会の通信紙に発表したものを、少し加筆修正したものです。福岡市民救援会の総意などではなく、私個人の意見です。

 今にはじまったことではないが、現天皇である明仁を持ち上げる風潮が続いている。特に、退位の意向を述べた「おことば」とやら以降、感銘を受けたという人々が、知識人なども含めて、一定数いるようだ。もとより天皇制とそれが生み出す時代区分(端的には「元号」)からは、離れて生きたいと願ってはいるが、来年に予定されている代替わりの前に、あらためて焦点が当たっている「象徴天皇制」というものについて、若干の批判を試みたい。

 とはいえ、紙幅の上でも、私の体力的にも網羅的な批判は難しい。ただ、現時点で私が考えていることを、この機会に自由に述べようとしているだけである。それゆえに、本稿の題名を「覚え書き的象徴天皇制批判」とした次第である。

 また、用語について述べておくと、現行の天皇制を「象徴天皇制」と呼ぶことには、いくらかの疑義がなくもない。大日本帝国憲法下の天皇制もまた、象徴的な機能をも持っていたと考えられるからである。とはいえ、既にこの言葉はある程度使われている言葉であるし、ここではそれに従うことにしようと思う。

 さて、明仁が称揚されているのは、裕仁と比較してのことであると考えられるが、まずはそこに嘘があると思う。少しばかり個人史的に振り返るのを許してもらうと、裕仁が死んだのは学生時代のことであり、それなりに年齢を加えた今、明仁が生前退位(この言葉はマスメディアから消えてしまったが)して、徳仁に代替わりしようとしているわけである。

 裕仁が死んだ時、私はただの学生で特に政治的ではなかったが、それでも「ああ、ついに戦争責任を取らせることなく死なせてしまったな」と思ったものである。別な言い方をすると、天皇裕仁という存在が戦争責任を取らないままであったことは、濃淡の差こそあれ、一定の範囲で共有されていた認識ではないかと思うのだ。ザ・タイムズの記者に質問されて、裕仁が「そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりません」と答えたのは、あまりにも有名である。

 日本人(あるいは日本社会)は、裕仁に戦争の最高責任者としての責任を取らせないまま、「自然死」させたわけである。私は「戦争責任を追求する責任」もまた、「戦争責任」の一種ではないかと思う。「戦争責任」の頂点にあるのが裕仁だとしても、日本人たちには「戦争責任を追求する責任」があったはずである。ということは、裕仁が戦争責任を果たさなかっただけでなく、日本人たちもまた戦争責任を(やや異なる意味でだが)果たさなかったということだ。

 そして、その二重の無責任の上に成り立っているのが、明仁という存在である。称揚できるはずもない。ところが、承知のように、人々はそのようには考えなかった。むしろ、裕仁のような「疚しさ」のない、「平和の象徴」として明仁を歓迎したのだった。例えば、近年は安倍政権への反対が一つの大きな課題となっているが、「安倍は悪いやつだが、天皇は平和を愛しておられる」などといった類いの言葉を聞いたのは、一度や二度ではない。これでは、裕仁について「天皇陛下は悪くない。軍部に騙されておられる」と言うのとそう変わりはしない。

 そのようなことを考えていたところ、数日前には裕仁の侍従長の日記に、裕仁が戦争責任について漏らした言葉が書かれているというニュースが広まった。それらを伝えるマスメディアの論調には、はっきりそうとは書かれてはいないものの、「昭和天皇は、戦争責任を痛感しておられる良心的な方だった」というニュアンスがこもっていた。これにはさすがにあきれた。明仁が持ち上げられてきた(それが欺瞞であることは既に書いた)のは、裕仁と比較してのことだったはずである。ところが、今度は裕仁についてすら歴史を改編しようというのだろうか。

 とはいえ、このような動向(それを私は承知していないわけだが)には、一定の根拠があると思う。一言で言えば、人々は先に述べたような意味での戦争責任(「戦争責任を追及する責任」)を、果たさなかった自分たちを許したいのだと思う。より大きな視点から見れば、戦後の日本というものを「平和と民主主義」の時代として、自己のイメージを改変していってるのだろうと思う。その意味で、天皇とは日本人の無責任の象徴であり、ナルシシズムの拠り所であろう。

 それゆえ、天皇制に反対することには、少なくとも二つの側面があるのではないかと思う。一つは、もちろん、裕仁に戦争責任はあることやそれを果たさなかったこと、あるいは明仁もその上にあること等といった事実を訴えていくことである。もう一つは、先に述べたような歴史の歪曲と闘うことである。

 そのような歴史の歪曲は、日本社会の没論理性と没倫理性に由来すると考えられる。そうした悪い意味での融通無碍さと闘う者は、おそらくは必然的に「世間」から孤立することだろう。「なぜ天皇制に反対する必要がある?無害じゃないか」とか、「変なことを訴える人々」だとか。だが私はそこで、ぜひみんなで「孤立」しようじゃないか、「世間」というやつから降りようじゃないか、と言いたいのだ。なぜなら、そうすることではじめて連帯の可能性が生まれるであろうし、それが増すだろうからだ。

 また、これはもっと一般的な抗議活動などにも言えることではないだろうか。デモをやったりする時には、ふだん生活者・消費者として生きている世界から降りて、もっと根源的な個人としての自分の尊厳を基板として、活動しているのだと考えられる。そしてまた、そのように「世間」に流されずに、自分の中にあるモノサシに従って行動する者は、「世間」からは孤立してしまうものなのだ。

 裕仁の死の際には、強烈な「自粛ムード」があったが、来年の代替わりに対しては、今のところ歓迎的なムードが基調となっている。二つは対照的に見えて、どちらも悪質なものだと思う。この傾向は来年に向けて強くなっていくことだろう。

 私は世代的に言って、「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉に、特段の思い入れはない。だが、私が誰かと連帯できるとしたら、上に述べてきたような意味で「孤立」している人々だろうと思う。それに従って言えば、さしづめ「孤立を求めて連帯を恐れず」ということになろう。

 日本社会を変えようとする闘いは、個別のイシューへの取り組みであるとともに、その没論理性と没倫理性との闘いでもあるのではないだろうか。みな、「世間」から降りてもっと孤立するべきだ。そういう人が増えるほど連帯の可能性も大きくなるだろう。そのことを繰り返して、本稿を終えたい。

by BeneVerba | 2018-09-26 07:26 | 意見 | Trackback | Comments(0)
 大月書店当該の芦原です。およそ一年半ぶりの「のうがき」登場となります。既に、このニュースでも何度かお伝えしましたが、ここ数年間非常に重い抑うつ状態にあります。
 
 その上、さらに追い打ちをかけるような出来事が最近ありました。大月書店の岩下結編集者が、「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」なる団体の一人として、コメントを寄せているニュースを見たのです。

 その時以来、これまで社会運動に参加してきた中で受けた、様々な差別がフラッシュバックのように繰り返し繰り返し思い起こされる、という極めて辛い体験に苦しんでいます。

 岩下が私に対して行ったことは「踏み絵」でした。「あなたの思想信条を捨てなさい。朝鮮民族としてのアイデンティティも捨てなさい。そしたら仕事をやらないこともない」といったようなものです。そのような差別者が、こともあろうに「反差別」を掲げてマスメディアに登場しているのです。

 思い詰めたあまり、匿名で「自殺予防ホットライン」に電話をしたりもしたこともあると言えば、私の今の苦しみの一端は推測できるでしょうか?

 シェイクスピアの『マクベス』の冒頭で、魔女たちが「Fair is foul and foul is fair」(マコトはウソなり、ウソはマコトなり)という呪文めいた奇妙な言葉を唱えます。これが今の私の生きている世界です。


by BeneVerba | 2018-08-03 06:13 | 意見 | Trackback | Comments(0)
 私は、ある意味で自分のことを「見過ごされた/意図的に無視された差別被害者」だと考えるときがあります。差別というのは、人の魂の少なくとも一部を殺してしまうようなものです。あるいは身体の一部をもぎ取ってしまうようなものです。しかし、それに釣り合うものを私は得ていません。私は未だに血を流し続けて苦しんでいます。

 二〇一一年の年始、私は非常に健康で全く何の問題のないレベルで暮らしていました。社会復帰に向けて、少しずつ努力していました。私の人生はいくつかの言葉で言い表せます。「ぜんそく、うつ病、差別」です。どれも生きることそのものを困難にする、恐ろしい病気です。その二〇一一年頃、ひとまずうつ病の心配がいらなくなったと思ったら、今度は大月書店によって思想差別、民族差別を突きつけられました。次から次に、人生に関わるような問題が起きるせいで、その時私に休む暇ありませんでした。

 私が三・一一以来の運動でやって来たことの一つは、「差別に反対すること」です。だからこそ、在特会のような人々だけではなく、「反原発・反差別には天皇主義/靖国崇拝の右翼の協力も必要」(野間易通)いった人々や、「反現連や日の丸を批判するな」(大月書店)「日の丸が上がることは叛旗を意味する(原田裕史)「自分の中にある差別を忘れて、まず在特会をたたくことが必要」などと言ってきた人たちに対して、抗議運動の現場やインターネットで反論してきたのです。これらは「マジョリティ票狙いの右傾化路線」と言っていいでしょう。そして、その失敗は今や明らかです

 このような詭弁には人を謬らせる危ういものがあります。手短に言うと、こうした言説は、日本社会のマジョリティにとって大変に都合が良く、マイノリティにとって困ったものになっているのです。ここでは、二つだけ問題点を挙げると、一つには「普通の日本人」と在特会などの民族差別団体を区分することで、「普通の日本人」が差別と無縁であるかのような切断処理がなされている点です。しかし、日本社会における差別の主要な担い手は「マジョリティ」「普通の日本人」なのです。

 もう一つは、民族差別の文脈に即して言えば、「差別の責任に限定をつけている」点です。在特会をはじめとする団体が、最悪の民族差別団体であることに、疑いはありません。しかし、反差別のために右翼と組んだり、差別に対して差別で反撃したり、カウンターの場に日の丸を持って現れるのならば、単にそれらの団体を否定する以上の意味を持ちます。

 それは要するに、「在特会などの団体は否定するがそれ以上のことをする気はない」(在特会の源流である右翼の責任を追及する気ははない、日本の差別的な体制を変える気はない、我々「普通の日本人」は在特会を退治する正義の味方であって、差別の担い手ではないのだから変わる必要はない)などなどの態度を意味することになるのです。在日朝鮮人は日本の帝国主義によって、日本社会に定住するようになった存在なのだから、全くのばかげた意見です。

 ところが、そのような詭弁を信じ込んだ人々は、被差別者でもある私を、激越なまでに攻撃してきました。その中で差部発言が何度も飛び出したのは、(充分ではありませんが)これまでのエントリで指摘したとおりです。私はインターネット上で何度もリンチに遭い、その度に何日間も寝込むような傷つき方をしました。

 「リンチ事件」などの事件が起きたから、「カウンター」に問題があったのではありません。それは最初から問題含みの、ある意味日本人が好き勝手に在日朝鮮人の運命をもてあそんだものでした。それはいわば「在特会」を出汁に、あらゆる暴力性を解放するようなものでした。反原発運動への日の丸の持ち込みと、右翼との共闘と同じ流れにある出来事だと思います。

 私は、現在元々重いうつ病を抱えているために思うように動けず、本来なら当然すべき反論もできません。しかし、差別は加害者の謝罪もしくは賠償によって片をつけるものかと思いますが、それがまだ果たされていません。私は、この数年間ずっと、差別者たちによってえぐられた傷から、血を流し続けています。差別とは、見えないナイフで刺されるようなものです。「まだ、二、三本しか刺していないからたいしたことはない」などとはなりません。一本一本が致命傷なのです。

 まるで当たり前の評論家か活動家のような活動をして、私の人権を根本から否定する差別発言を人々が、「新しい社会運動」について語っているのは、この上ない苦痛です。

by BeneVerba | 2016-07-23 19:58 | 意見 | Trackback | Comments(3)
 基本的人権にも保障されている思想信条の自由を使用しただけで、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょうか?私がやったことと言えば、大月書店からの「反原連批判をやめよ」「日の丸批判をやめよ」という指示に従わなかったことです。その結果、半ば決まりかけていた次の翻訳書をチャラにされました。

 大月書店には、私が祖父を朝鮮半島に持つ、日本国籍の在日朝鮮人であることを伝えていましたし、また、大月書店との契約に先立って、日の丸の持ち込みに代表されるような反原発運動の国民運動を批判してきました。大月書店はその点を踏まえて契約したとみなされて仕方ありません。


 当然ながら、大月書店との契約に当たって、「反原連批判をやめる」「日の丸批判をやめる」などという条項に同意したりもいたしていません。つまりは、私の言論活動は、大月書店との契約とは関係なく、大月書店が私の言論活動に注文を付ける権利はないということです。ましてや、それを餌に「反原連批判をやめないと契約をやらない」などという権利はありません。

 わずか一冊のみ翻訳書を出した人間が、二冊目を断ることは勇気が要ることでした。断ったとして二冊目の依頼が来るかどうかわかりませんから。それに大月書店側がつけこんだと言えることもできると思います。それでも私のルーツと思想信条はかけがえないのものです。比較にすべきものとは思えませんでした。

 思想信条の自由と、エスニシティとは、人権の中でもかけがえないもののはずです。大月書店は私へのメールの中で「伝統的左翼出版社」と言ってきたのですが、その一番大切なものを踏みにじるこの会社が「伝統的左翼出版社」と言えるでしょうか?

 また、大月書店による人権侵害は今でも続いています。二〇一四年の社前行動では、終結した私たち全国争議団に、大月書店社員一名が終始「ファック・ユー!」のサインを出していました。担当編集視野の岩下結も、精神障害者差別や失業者差別をツイッターアカウントで、繰り返しています。これが「伝統的左翼出版社」のあり方でしょうか。

 つまり、大月書店のしたことと言えば、私が以前からそうした活動を行っていたことを知りつつ、また、在に朝鮮人であることを知りつつも、私の自由な言論活動に口出しし、(日の丸や極右を擁護する)反原連と日の丸批判をやめるように自作の翻訳契約とバーターで脅迫したということなのです。

 さらに、私の健康問題もあります。会社から不当な仕打ちを受けることは、それだけで大きな痛手です。それに加えて労組に入り争議を起こし、労働委員会やら行政訴訟で争うことも大きな負担になります。大月書店との仕事を始めるまで、比較的に健康だった私の健康はぼろぼろになってしまいました。

 また、私はこの問題が、(意外にも支持してくださっている方も多いとはいえ)さほど注目を集めていないことに腹を立てています。私があまり好きではない喩えですが、ナチスドイツに喩えるとします。ハーケンクロイツを批判するユダヤ人著述家に対して、「それでは受けない。ハーケンクロイツ批判はやめてくれ」などという出版社があるものでしょうか?

 日の丸を良しとする風潮には、日本人の歴史への忘却と関わっています。「日の丸くらいいいじゃないか」という体制に流されず、私は最後まで日の丸を帝国主義のシンボルとして認めない人間であろうと思います。

 それならそれでいいでしょう。日の丸は帝国主義の残滓でしかないということを明らかにするためにも、これからも戦い続けます。

by BeneVerba | 2016-07-05 00:06 | 意見 | Trackback | Comments(0)
 以下が、福岡の在特会とその自称「カウンター」である。どちらも日の丸を掲げていて見分けがつかない。いったいどうしろというのか、というのが一人の在日朝鮮人としての気持ちである。言うまでもなく、日の丸は日本の朝鮮侵略のシンボルのような旗である。日の丸を掲げて「カウンター」を行うということは、在特会には反対するが、日本の侵略責任については不問にしたい、という態度を表明していると受け取られても仕方がない。「線引き」を行っていると言ってもいい。

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https://www.youtube.com/watch?v=clrrMFD0NA4

 カウンター参加者の一人は、たぶん大月書店とのトラブルの元になった入江亮であろう。

 入江について何から語ったものやら。私がTwitterで反原発運動の日の丸批判をしていた時に、日の丸肯定派としてしつこくからんできたのが入江亮である。私は誠実に対応していたのだが、彼はこちらの主張を聞かず幾度も同じことを繰り返すのみであったので、私は「なめるな」と言い返した。他に場強い言葉を使ったわけでもなく、マイノリティとしての最低限の反撃である。

 すると大月書店の岩下結編集者が「汚い言葉」であるとしてそれを問題にし始めた。岩下編集者とは、ほとんどメールでやりとりしていたのだが、彼は私に突っかかってくるようになり、このようなことがあってはならない、というメールを送ってきた。私は不本意ながら受け入れるしかなかった。

 しかし、侵略者の末裔である日本人が日の丸を拒否している朝鮮人に、日の丸は問題ないとして、しつこく絡む方がよほど暴力ではないだろうか。日本人が日の丸をやめる方がよほど簡単でもあり、理にかなったことではないだろうか。また、在日朝鮮人に日の丸を受け入れることをすすめる「左翼出版社」とは、いったい何であろうか。岩下にはそんなことにすら、思いをはせることができなかったようである。

 そして、その後のある日、集会に向かうためにある時九電本店前を歩いて通りかかると、入江亮がその場で日の丸を掲げているのに出くわした。この時には直接言葉を交わした。私「それはなんですか」入江「日の丸です」「九電を応援しているようにしか見えません。やめてください」。すると入江は突然態度を変え、「なんやコラ、きさん!」などと、チンピラ口調になって私を罵倒し始めた。

 また昨今、ちまたを賑わしている自称「カウンター」勢のリンチ事件を受けて、入江亮はこんなことを言っている。

 写真見ましたが、エル金さん、ようあそこまで我慢しんしゃったですね。俺が同じ立場だったら、我慢できずに殺してますね。
https://twitter.com/fcknzsfuk/status/736953795779776513

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 日の丸を拒絶する在日朝鮮人にしつこく絡み、反原発運動にも「カウンター」にも日の丸を持って現れ、注意されると逆上する。これのどこが反原発運動だろうか。これのどこが反差別運動なのだろうか。大月書店は、この程度の低劣な人物を気づかって、私よりもこの男を選んだのだ。

 また、今や「なめるな」という言葉が、問題視されなくなった現状がある。だからこの言葉に問題がないというのではない。これはマジョリティから発せられる言葉であり、その点で大いに問題がある。しかし、岩下が「なめるな」という言葉を批判しているという話は聞かない。

 そして、マイノリティが追い詰められて発する「なめるな」という言葉と、「マジョリティ」が発する「なめるな」では、自ずと意味が違うはずだ。大月書店とその編集者の岩下結の言動は、ご都合主義であり、不当ではないだろうか。

 二〇一三年以来のカウンターは、おおよそこういうものだった。「在特会と対峙するのに、細かいことを考える必要はない。在日朝鮮人の歴史や社会的な構造的差別を考える必要はない。ただ、在特会と対峙して罵倒すれば良い」。それに対しては様々な批判が寄せられたが、「新しいカウンター」のデマゴーグである野間易通や木野トシキは、「ヘサヨ」というレッテルを貼るのみであった。

 「在日朝鮮人の歴史や社会的な構造的差別を考える必要はない」とは、つまり「未来志向」「和解」「転向」の時代に沿うように、日本人の持つ歴史的な加害責任をオミットするものではないだろうか?在日朝鮮人は日本の帝国主義によって生まれた存在である。そこに自ずから日本の責任というものがあるはずだ。

 果たしてそれで良いのだろうか?この間の「カウンター」は、そうしたものをオミットしたところに成り立つ「反差別運動」という新たな「発明品」を、産み出したのではないだろうか?この問題はよくよく考えてみなければならない深刻な問題であろう。


  • 文面を変えているところもありますが、基本的にTwitterからの転載です。誤記を訂正したり、いくつか文章を足したり、引いたりもしています。


by BeneVerba | 2016-06-13 02:15 | 意見 | Trackback | Comments(1)
 私は朝鮮(言うまでもなく当時朝鮮は南北に分裂していなかった)のルーツをひく日本国籍者である。父の代に一家は韓国国籍を取得(帰化という言葉は使いたくない)し、祖父の世代が在日一世、父親の世代は在日二世、私の世代では日本国籍を持つ在日三世ということになった。私の中には朝鮮人としての意識と日本人としての意識の両方があり、どちらかを捨てられるものではない。どちらも私のアイデンティティの一部である。

 余談ながらこういうアイデンティティの公開こそ、実は私が避けたいと思っていたことの一つだ。朝鮮にルーツを持つことを恥じるゆえではない。その事実は物心付いて以来自分の中にあった。私は、私については誰も知らないが、私の仕事については人に知られているというそんな存在になりたかったのだ。

 私の一族には、在日ゼロ世とも言うべき祖父の母がいた。私のひい祖母である。祖父とひい祖母は間違いなく朝鮮語で会話できたはずだが、そのような場面を見たことがない。その理由はわからない。年齢差がらして私が幼い時分に、ひい祖母は相当な年だったはずで、私は彼女に不気味なものを感じるとともに親しみも感じていた。祖父もひい祖母も私には優しくしてくれた。今でも悔やまれるのは、祖父から一族の歴史を聞けなかったことだ。精神的な「病」で動けず、仕方なかったこととは言え、悔やんでも悔やみきれない。

 在日朝鮮人は日本の帝国主義政策によって、日本に居住を強いられた存在である。それを強いた日本の帝国主義のシンボルである日の丸・旭日旗は、在日朝鮮人にとって受け入れがたい。たとえ日の丸を受け入れるという在日朝鮮人がいても、日本が与えた加害の歴史は動かせない。そしてそのシンボルは表面的な反省とともに戦後にも引き継がれた。「日の丸を受け入れる朝鮮人と受け入れない朝鮮人がいる」などとは言えないのは、日本に絶対的な加害性があるがらだ。それが日本の帝国主義の被害者にとっての日の丸の歴史性である。

 だが加害者側である日本人にとっては、戦前と戦後のー慣性よりも断絶が強調されることが多いようだ。そこに奇妙なロンダリング作用があるのかも知れない。天皇制と同じく敗戦で日の丸の責任はチャラにされたとする考えだ。だからこそ呑気に日の丸を振れるのだろう。そういう気分は自分の中にもあると感じる。「今の天皇はリベラルだし、日の丸はただの記号」というわけだ。だが、私のもう一つのエスニシティが否と応える。日本人はそうした操作を半ば無意識的に、半ば意図的にやっていると思う。言い換えればそれは自己欺瞞なのだ。被害者は忘れようにも忘れられず、加害者は忘れることができるという特権的な位置を利用したものなのだ。加害者側は都合の悪い歴史を忘れて、しかも罪の意識なく歴史を捏造し、「リベラル」の振りをすることができるのである。

 この日の丸(あるいは天皇性)無責任論とでもいう考えは、一部の在日朝鮮人にも共有されていると思う。だが、それは戦前と戦後の歴史性を見ず、帝国主義の払拭されていない現在の日本と共存するものでしかないと思う。「天皇制や日の丸をみとめても良いではないか」という考え方だ。しかし、日の丸とはアジアやその他で、戦争によって人の尊厳が貶められ、殺されていた時にはためいていた旗なのだ。その実実をを消し去ってはいけない。それどころか、世代を超えて伝えて行く義務がある。

 また新しい日の丸の使い方をすることで新しい意味を付与すればいいなどという馬鹿げた意見が見られたことがある。確かにあるものの意味は使われ方によって決まる。しかし、これも被害者の見る歴史性からすれば、既に殺戮の旗として使われたことがあることを忘却する愚論である。日の丸には帝国主義と侵略の旗という以上の意味は見出せない。

 大月書店は、私に日の丸批判や日の丸を受け入れている反原発運動批判を控えるように言った。私が個人的に日の丸を嫌っているのではなく、歴史的な経緯があった日の丸が忌避されているのであるにもかかわらず。大月書店は、その点を十分理解しなかったように見える。「たかだが日の丸ごときで」と思ったのかもしれない。私が日の丸を拒否するときには、帝国主義に抗う在日朝鮮人としてのアイデンティティと、思想信条に基づくアイデンティティの下に拒否するのである。

 アイデンティティはその個人にとって不可分のものであるから、中断もしくは中止するわけにはいかない。あくまで日の丸を拒否し続け、ひいては帝国主義を拒否し続けることが私のアイデンティティだ。大月書店が、真に日本の侵略戦争を反省し、在日朝鮮人のことを考えていたらあのような要求はしなかったはずだ。それにしても日の丸批判を控えるように言う「左翼出版社」とは何だろうか?(そして大月書店にとって首都圏反原発連合とはなんだろうか?)

 日の丸問題は、社会運動の右傾化、ナショナリズム化とも関わる問題である。私にとっては日の丸、君が代、天皇性といったものは、被害者としての歴史を想起させるものである。帝国主義、植民地主義はなくしていくのが本当の道だと思う。日の丸、君が代、天皇制はなくしていくのが進歩の歩みだ。それにまた、戦後日本の権力者たちは、戦争の被害者としての立場を強調して、加害者としての責任をかくし通してきた。私たちは加害者としての責任を引き受けようではないか。

 日の丸の悪を脱色化させないこともその一つだ。これから何十年かかろうと大月書店と争っていく覚悟である。

by BeneVerba | 2016-03-07 05:58 | 意見 | Trackback | Comments(0)
 怪訝な自体が進行中である(進行中であったと書くべきか)。自衛隊を合憲をとする人物が率いる社会運動団体が、あろうことか平和勢力として安倍政権に敵対するものと見なされているのだ。

僕はどっちかというと護憲、自衛隊合憲、彼は、自衛隊の法的安定性の為に改憲するべき立場
https://twitter.com/aki21st/status/646874083347464192

 こんなあほらしいことはない。SHIELDsのスポークスマンである奥田愛基は、Twitterで自衛隊合憲論者であることを明らかにしている。自衛隊合憲論者を担ぎ上げる平和運動とは何だろうか?自衛隊合憲論者が、そのことを問われることなく、まつりあげられことの悪影響大きいのではないだろうか。

 また、全国で安保法制に反対したのは、SHIELDsだけでもない。まるだSHIELDsだけが反対したかのような、このような注目の浴びせ方は良くないのではないだろうか?

 それにまた、SHIELDsは運動内の国民主義やセクシズムや国民主義(「国民舐めるな」)をでもある。

 また、弾圧が起きたときに、奥田愛基のアカウントが妙なことを口走っていたのも気になる。現在は削除されているが、奥田は「中核、革マルまじでやめて欲しい。何なんだよあれ」とツイートしていたのだ。

 自衛隊にも天皇制にも日の丸にも反対しない、弾圧にも反対せず、警察の言うことはよく聞く。つまりはそれが「良い社会運動」「新しい社会運動」なのだろう。これはマスメディアの求める人畜無害な運動とぴったり重なり合わさる。結局、「権力と比べて」ではなく、「既存の運動と比べて」シェアを拡大できればいいのだ。

 多少異議を申し立てこそすらが、社会の根本本は揺るがさない運動。デモの後にゴミ拾いをする運動。デモの後にゴミ拾いをするというのは象徴的で、社会の中にあるマナーの方がデモより上というかれらの価値観をよく表している。

 偽物のデモが起きることは、デモが起こらないことよりも絶望かもしれない。確実なのは、日本社会も日本の社会運動もこれ以上悪くなるであろうことだけだ。

by BeneVerba | 2016-03-07 05:01 | 意見 | Trackback | Comments(2)